
2024年、年が明けても北海道噴火湾でオオズワイガニがとれているようだ。八王子総合卸売協同組合、舵丸水産など連日のように入荷してきている。せっかくなので味見をする。定期的に買って食べてみることで、内子の量がわかるからだ。オオズワイガニは越前ガニなどと呼ばれているズワイガニよりも北に生息域を持つようである。国内ではほぼ北海道だけで水揚げされている。不思議なことに噴火湾で揚がるのは雌が多く、雄は揚がっても小型でしかない。ズワイガニと比べると水揚げ量が少なく、また水揚げが不安定であるために、一般的な認知度が低い。都内のスーパーで見ていてもオオズワイガニという表記があっても、ズワイガニとして購入している人の方が多いようだ。

上京して、ときどき友人と酒を飲むようになったとき、関西と関東の違いを最初に感じたのは刺身だ。もちろん関西では「造り」なので言語的にも違うけど、関西だと「いろいろお造りできますよ」と料理店で言われ、当時わからないままに丸ハゲ(カワハギ)とかカレイ(メイタガレイ)とかをお願いしていた。関東で「刺身」というと魚の種類を聞かれることはまずなかった。高級な料理店はともかく、安い食堂を兼ねるような飲み屋の刺身は赤身(マグロ)に決まっていたからだ。大坂は白身を好み、江戸は赤身を好むとも言えるだろう。歴史的にみても江戸ではマグロをよく食べる。江戸はマグロの産地にも近い。今の千葉県である上総、安房はクロマグロの産地であった。とれたマグロは房総半島内房と三浦半島をジグザクに結ぶ水運が発達していたので、短時間の内に日本橋の魚河岸に運ぶことができた。大坂の外海、マグロの産地は紀伊国、和歌山県だが遠く、その上、ここで揚がるのは「本ハツ」、キハダマグロだ。瀬戸内海という白身魚の宝庫が目の前に広がっていることも、白身を好むようになった要因である。市場を見てもわかる。東京の豊洲市場でいちばん多いのが大物(マグロ)屋なのだ。江戸では江戸時代以前から赤身魚をよく食べていたようだ。カツオがいい例だし、クロマグロの成魚はともかく、若い個体は盛んに食べていた。庶民生活史の資料が増える江戸時代になると、よりマグロに偏る。江戸時代の文化文政期(1804-1830)の居酒屋の定番はマグロの刺身に、「ねぎま」だった。もともとマグロは下魚とされ、比較的安い魚であった。江戸市中ではマグロの行商が行われていて、塩まぐろ(塩蔵)が売られていた。それが変化するのが江戸時代後半にさしかかる明和から天明(1764-1789)にかけてだ。この時代は田沼意次の自由で明るい時代でもあり、江戸時代の大きな変革期である。東西の文化的な地位が逆転し、経済的にも断然江戸が優位となる。この時代に、マグロは鮮魚で売られるようになり、汁や煮つけ、刺身でも食べられるように変わる。文化期から天保期にかけて師走から春先にかけてマグロ事件ともいえそうな騒動が起こる。日本橋魚河岸は突然のマグロの大漁に遭遇する。数万本のマグロが魚河岸に並び、天保時代など、しわいやの滝沢馬琴すら、マグロを半身買いしている。ちなみにこのときのマグロは二尺五寸(75cm前後)から三尺(90cm前後)なので、今のメジだ。これによってマグロのづけも含めて刺身がより身近なものとなり、「ねぎま」は居酒屋定番の品書きである豆腐よりも安くなる。「ねぎま」は醤油仕立てでマグロの切り身とネギを煮たものである。漢字にすると「葱鮪」で、今では鍋仕立てにすることが多い。八王子総合卸売協同組合、舵丸水産にあったのが長崎県壱岐、勝本漁港で揚がったメジ(クロマグロの若い個体)だ。8㎏もあるので丸買いではなく4分の1本を買う。これで三日三晩かけていろんな料理を作る。

昔は「腐っても鯛」だったが、今や「腐っても浜鯛」かも知れぬ。最近、マダイは神奈川県佐島、兵庫県明石や徳島県鳴門、瀬戸内海周辺、など高値がつく産地は限られ、味の方も乱高下するが、ハマダイはハマダイと言うだけで値も張るし、年間を通して味の乱高下がない。年明け最初はマダイかなと思ったら、八王子総合卸売協同組合、舵丸水産にあったのは、マダイならぬハマダイであった。体長40cm・1.154kgは巨大になる魚にしては手頃である。近年、流通上は当たり前の魚だが、一般的な認知度は低い。あまりにも美しい魚なので一度見たら、忘れられなくなるだろう。ちなみに一般的に「のどぐろ」と呼ばれるアカムツは上は超高級魚だが、底曳き網で揚がった小型はそんなに高くなく、都内のスーパーでもたびたび姿を見かける。ところがほぼすべてが釣り物で大型魚なのでハマダイを見るのは非常に難しい。だからアカムツは魚通のレベルとして幼稚園程度といってもいいが、ハマダイは姿が浮かぶだけで魚通として上級である。代表的な産地は東京都、高知県、鹿児島県、沖縄県である。取り分け小笠原がある東京でオナガ(ハマダイ)は古くからの高級魚だ。ちなみに漁としては単純な一本釣りなので、国内だけではなく台湾、ミクロネシアなどを経てオセアニア区までの広い範囲で漁が行われている。これを沖縄では「まち漁」という。高知県や鹿児島県屋久島では「ちびき漁」というが、この比較的南方の深海釣りで揚がる魚の、ほとんどすべてが高級魚である。

八王子総合卸売協同組合、舵丸水産で宮城県女川産のマイワシを買った。ものすごくデブである。体長は20cmなのでそんなに長くはないが、ここまでデブだと非常に大きく感じる。普通、体長20cmだと110g前後であるが、なんと133gもある。人間のデブは困ったもんだが、魚のデブは魅力的である。女川町は、都内から北上すると、宮城県県の庁所在地であり、伊達家の城下町である仙台市があり、塩竃、松島湾の松島町があり、石巻までくると、そこにあるのが金華山で有名な牡鹿半島である。半島の北に大きな入江があり、そのいちばん奥まったところが女川である。石巻、気仙沼は何度も行っているのに女川には一度も行っていない。震災では大きな被害を被ったところで、一度は行ってみたいと思っている。さて、北海道産が多かった暮れだが、ここに来て宮城県まで南下してきたことになる。

八王子総合卸売協同組合、舵丸水産で暮れに買ったコハダ(コノシロ)の半分は塩コショウして1日寝かせて、翌日にソテー。そのまた半分はそのまま水分をきって冷凍保存して置いた。今年の年末はインフルエンザになり、新年早々いろいろあって保存したこと自体忘れていた。スーパーでワインを買いながら、保存して置いたコハダを思い出した。1ヶ月近く忘れていたとはいえ、ボクは、まだまだ、ボケていないと思う。

ポキ(ポケ)という料理を知ってからまだ数年である。しかも南十字星を見ながら、島人とフィリピン人とバングラデシュ人とコカコーラやジンなどを飲みながら教わったのだから、半分ネーティブなポケの話が聞けたと思っている。ポキは非常に便利だ。ミクロネシアなど南太平洋の島々ではネギも日本の醤油も手に入るので、よく作っているらしい。実際にレストランのメニューにもポキがあり、売店風の店にもポキとキャッサバ、パン、ご飯のセットがあった。ちなみに、ネギは高すぎてヒエラルキー高位の島人とフィリピン人は買えるものの、バングラデシュ人には無理らしい。そこで考えたのが耳かき一杯で、舌が火傷するようなキダチトウガラシで作るホットチリだ。この国で暮らしていると、ネギなど安いものだし、醤油もある。なんでもあるんだからポキを作らにゃソンソンなんだと最近とみに思っている。自然や地球を守るためには多様な水産物、野菜などを食べるべきだ。フードマイレージを考えても多様でなければならぬ。やはりポキは生活に取り入れるべき、料理法だと思っている。さて、都心に出て、新宿のデパートで見つけたのがポキのタレ、ポキ丼である。ポキのたれは基本的にごま油と醤油があればいいのだと思っているが、食用酢も入っているし、うま味調味料、カツオ節エキスなども入っている。ポキ丼はメバチマグロ、サーモン(サーモントラウトらしい)、イカ(解凍ものに見える)、アボカド、きゅうり、ねぎに、マヨネーズベースか胡麻ベースのタレ、もっとも基本的なポキのタレがついている。最近、よく見かけるポキ丼とはなんだろう。問題は酢飯なのか? と丼を裏返すと酢飯ではないようだ。とするとただのご飯にポキを乗せただけだ。ちなみに発泡の小丼で800円は非常に高いと思う。800円出すくらいなら作ってみよう。

昨夜、万葉集を斜め読みしているところで気がついた。明日は新暦の7日ではないか? テレビやラジオでさかんに「七草がゆ」という言葉が飛び出してきていたのに、明日が7日と言うことに気がつかなかった、というか実感が湧かなかったのは、能登地震があって羽田の事故があったせいだ。毎年、年明けに七草が八百屋に並び、まあお付き合いのつもりで買っていたが、初荷が5日では八百屋の店頭をゆっくり見ている間がない。ちなみに本来の「七草」、五節句の人日は新暦の2月半ばである。まだ雪の降る中で、土にへばりついているかのような萌え出る前の新芽をへらでかき出して取る。女性が春を楽しむ物ではなく、厳寒の中で春は遠くはないと言い聞かせるかのようなものだ。奈良時代からの風習だが、当然、中国からやってきたものである。ただ、この国以上に寒い中国大陸、例えば北魏などの大地は凍りついていたはずである。当然、七草は草ではなく「七種」だ。7種類の穀物を食べる日というのがこの国に入ってきて「草」に代わる。ちなみに奈良時代・平安時代に皇女、妃、女官が野に出て遊ぶのは新暦の4月、上巳、雛祭のときだ。菜摘は春は盛のレジャーで、温かく華やかであったはず。それを考えると、「七草」はあくまでも厳しい寒さの中での若菜摘み(春菜摘み)なので、優雅さはみじんもない。6日の夜に気がついても遅いので、七草ならぬ、適当に朝がゆを煮る。蕪も、当然のことに嫁菜もハハコグサもない。あるのは大根とレタスだけ。あまりにも淋しいので精進にこだわらないで冷蔵庫を探して、鹿児島県屋久島産ハマダイの切り身を加えてみる。

初荷の日、八王子総合卸売協同組合、舵丸水産でいろいろ買い求めた中に千葉県鴨川産の活けスルがあった。活といっても活きているスルメイカではなく、1ぱいずつ釣り上げて氷で締めたものだ。氷でしめて即死させて、冷えた海水に入れて出荷してくる。伊豆半島とか外房から来ていたもので、ほんの数年前までは当たり前のものであったのが、ぱたりと来なくなっていた。値の高さが問題なら、八王子では売れないので豊洲や川崎止まりだったのだと考えている。意外に高くはなかった。というか下氷(氷を敷き詰めた上にスルメイカを乗せて出荷してきたもので、並イカともいう)が高すぎるので、安く感じるほどだ。そうざい作りにスルメイカは欠かせないと思っているので、近年の不漁が心配でならない。なんとか日本海の水揚げ量が増えて欲しいものである。ちなみにスルメイカはほぼ日本列島が南限で、しかも本州以北に多い。標準和名の(以下同)ヤリイカ、アオリイカ、ケンサキイカなどヤリイカ科は眼に皮膜があり、水晶体は保護されているが、スルメイカ、アカイカなどアカイカ科の水晶体は露出している。

例年通り初荷を見に行くだけのつもり、で行った市場には、思った以上に魚があった。少しだけだけどビックリしたな、もーなのだ。八王子総合卸売協同組合、舵丸水産でいろいろ買い求めた中に千葉県鴨川産のイサキがある。今年はフードマイレージを考える年としたいので、東京の前浜ともいえる千葉県産からというのはうれしい限りだ。ちなみに金銭的に難しい面もあるが、今年も自然保護に徹して食べて(考えて)いくつもり。ボクは水産業のことではなく自然への向き合い方を考え、調べているので、いかにエネルギーを使わないか。いかに無駄なく食べるかを基本理念にしたい。ちなみにほんの10年後を考えても、食べ方・生き方を変えていかないと、ヒトも含めて生物が死滅しかねないと思っている。中国やロシアも含めて行きすぎた資本主義を継続しようとしているヤカラはすべて生物の敵である。江戸は元禄期(17世紀末)の人見必大など、本草学者たちは押し並べて「イサキ、夏秋によし」、としている。これが個人的な話になるが、20世紀末には産卵直後以外、秋から産卵の夏まで通して味がいいということがわかってきた。イサキの盛漁期は晩春から夏だが、脂ののりからすると旬はもっと遙かに長い。ちなみに1980年代に千葉県勝浦市で、真冬のイサキ乗り合いに乗船したことがある。当時から「寒イサキ」という言葉があり、乗り合いは釣果にばらつきがあるもののとても人気があった。体長24.5cm・261g は鮮度抜群だが、水氷(海水に氷を入れて、その中に魚を入れたもの)で並イサキそのものである。イサキ値段を記録しているとわかることだが、近年、このようなとても平凡な魚が高値安定している。昔は安すぎたのであって、今のほうがまっとうな値段だと思う。ただ、現在の高値は水揚げ量が激減してのもので、漁業者にとっても喜ばしいことではなく、むしろ不安定要素である。比較的温暖化の影響が小さいと思えるイサキですら、高値がつくことに気を揉む人がもっともっと増えて欲しいものである。水氷に手を突っ込んで選ぶと、ほとんど固体差が感じられない。すべて脂がのっており、しかも身に張りがある。

10月に銚子産トラフグは鰭を切り取り干し上げて保存して置いた。背鰭・胸鰭・臀鰭・尾鰭で5枚の鰭が取れる。トラフグのフグ科トラフグ属の魚は、フグの中のフグだけど、同属で鰭を利用していいのは皮に毒がない、トラフグ、カラス、シマフグの3種だけである。トラフグがいちばん水揚げ量が多いので、市販の鰭酒の鰭の多くがトラフグのものだ。フグ科で皮に毒のないシロサバフグやクロサバフグなどでも作れる。スズキでも、マダイで作っても鰭酒の鰭にはなるものの味は数段落ちる。あえていうと、トラフグと違って鰭に厚い皮膜の層がないためではないかと考えている。鰭の干し方は自分流で、簡単至極な方法である。鰭を切り取り、表面のぬめりをタワシで磨く。もちろん軽くだがタワシで磨くことで鰭の表面が傷つき、味が出やすくなるのだと思っている。水洗いして水分を拭き取る。これを瓶などに張り付けてかりかりに干し上げるだけだ。干ものと言うよりも乾物といった方がいいだろう。出来上がりを、ケースに乾燥剤を入れて冷蔵庫に保存すると半年くらいもつ。

関東や日本海などで暮らしていると思いも寄らないが、タカラガイは多産する地域では普通の食用貝のひとつでしかない。熱帯域では大型のホシダカラなどが食べられていたが、同じタカラガイ科でも食べていい種と食べない種があるなど、調べると奥の深さを感じる。鹿児島県屋久島一湊では、磯の貝を盛んに採取して食べている。主な獲物はイボアナゴで、これを「磯もん」という。「磯もん」は非常に多く、食べられる部分が大きく、また味がいいので、他の貝類はあまりとらないというが、古くはウマンコ(ハナマルユキ)もとって食べていたという。同じ場所にいるキイロダカラは食べないことからタカラガイ科でも選択的に採取していたことになる。

明らかに歳のせいだが、やりすぎているな、と思ったら必ず体調不良に陥る。2023年は、いろんな業種のスタッフとわいわいがやがや楽しすぎる、と思ったら高熱に見舞われたり、眩暈で動けなくなったりした。数年前よりサイトの形を本来目指していた形に変えようと思った途端に、ハードな日々が始まる。自分にくれた時間のおおよその長さが感じられるのは年をとってからだが、気がついたときにはもう遅い。日々追いかけられているという切迫した気持ちが抜けない。ボクの場合、そこで見つけたのが絶望ではなく、より強固な目的達成への意志だ。だいたいぐうたらな人間なので大したことがやれるわけではないけど、目標はちゃんと見えている。伍子胥的ではなく、もっと遙かに明るい先の先だと思う。大地震が起こり、航空機事故とたいへんな年の初めだが、それを考えている余裕がない。さて、ボクの年取肴はシマアジだった。年取肴は大言海にないところからすると、年取(大晦日)に食べるハレの肴・食べ物のことを最近になっていうようになったのだと思う。ちなみに年取は年齢に一歳重ねることなので、今現在の意味とはまったく違う。ちなみに年取肴はありえるけど、年取魚はありえない。一般に東のサケ、西のブリなどとわかりやすい東西区分を当てはめるから、意味がぶれてしまうのだ。大晦日・正月に食べる酒の肴、もしくは食事のことなので精進でもいいはず。黒豆でもなますでも、昆布でも、すべて年取肴である。暮れに体温が39度近くになって、ぼーっとした気分のままに西京漬けを作る。いつもの西京味噌のつけみそで、いつものようにプラスするのはみりんだけ。鹿児島市の田中水産、田中積さんにいただいた立派なシマアジを、大胆にも切り身にする。振り塩をして1時間くらい置き(みその塩分濃度によっては不要)、水分を拭き取っておく。これを地に漬け込む。西京味噌のつけみそは塩分濃度が低く、そこにみりんなので非情に浸透圧が弱い。ゆっくり時間をかけて浸透させる。これをつきっきりで焦がさないように焼くだけだ。脂がのったシマアジなので、地に漬け込んでもそれほど調味料が入っていない。焼いても硬くならず、箸を刺し入れるといとも簡単にほぐれる。口に入れるとほろほろと脆弱に崩れ、みその甘さと、身の甘味が合わさって、甘いになる。これにズームのやり方を教えに来てくれた近所の若い衆がくれたコンビニ塩むすびで、歳を重ねる。コンビニお握りのおいしさも再認識したし、シマアジの西京漬けのおいしさも思い知る。翌日は蒲鉾をプラスし、赤飯お握りをチンして、ちょっとだけゴージャスな新年となる。今回は鹿児島のうんまかシマアジで歳を重ね、新年を迎えた。田中さんには感謝せねばならぬ。

正月らしいことなど何もなし、でもよかったが、せめて験を担ごう、と思い立つ。人生リアル以外にはなにもないと考えている。ただ、正確ではないが、北山修はかく語りき。「現実を真っ正面から受けるのは人類には無理だ。生きていけなくなる」ボクもたまには曖昧言語である、多幸を願って冷凍庫からタコを引っ張り出して来る。マダコとサメハダテナガダコである。マダコは豊洲で活を買ったのに、時間がなくなり、そのまま冷凍保存して置いたもの。サメハダテナガダコは気仙沼市の長山正孝さんが、「咬まれると毒。要注意」と書いて送ってくれたものだ。もちろん死んでいるので咬まれることはないが、毒をくらって今年もガンバロウじゃないか、という意味で、後者をゆでる。解凍してぬめりをもみ出す。仕上げに塩で揉み出し、水洗いしておく。これをほうじ茶と醤油でゆであげる。ゆであげ時間は、ときどき箸でつつき、金串を刺して加減をみる。タコを入れて再沸騰後、時間にして4、5分だと思う。このままおか陸揚げにする。

数え日になってから、風邪を押して市場で細々と魚を買った。中に、これ以上ないという魚があったものの、あまりにも平凡なので年を締めるにはどうかなと考えあぐねてしまったのが、千葉県竹岡産のタチウオである。0.8kgでドラゴンには小さいものの、来年の干支は辰なのである。ぐるりと市場を回ってもこれ以上の魚はない。ちなみに竹岡漁港の魚は関東では知名度が高い。「竹岡ものだよ」で売れる数少ない水揚げ港である。対岸は久里浜といういい条件が揃っている。八王子総合卸売協同組合、舵丸水産は激動の2023年で、店構えも新しくなり、当人は今のところ借りてきた猫のようだったが、来年はドラゴンに化けるだろうと期待しての、最後の買い物をする。

高熱で伏せった数日をへて徐々に熱が取れ、咳が治まりして、最低限の仕事をして、合間合間に食べられそうなものを作る。たまにはこんな数え日も悪いもんではないと思い始める。外出できないので保存食で食べられそうなものを作る。冷凍庫から兵庫県淡路島南淡町のハマチ(ブリ)のあら、豆腐、泥ねぎで、食材はこれだけ。暮れの買い出しもできないので、これで十二分だろう。いきなり作り始める。いきなり豆腐を下ゆでする。煮つける豆腐は下ゆでしないとアクが出る。解凍したあらは適当に切って、豆腐をゆでた湯で湯引き、冷水に落としてぬめりと粗熱を取り、水分を切る。余談だが、同じセットで同じような煮つけは、暮れになって2度目である。1㎏弱のハマチのあらで、同じおかずを2回作る。同じ物を作ったのは病をえているボクの本能による、というか甘辛く煮た豆腐が胃に優しいからだ。ついでに言えば、あらだけで計4人前というのも、魚の丸買いのいいところだろう。鍋に酒・砂糖・濃口醤油・溜まり醤油・水を煮立てた中にアラを入れて、豆腐を入れて一気に煮上げる。煮上がりに焼きねぎを加えて出来上がりだ。ちなみにこれでご飯1膳なので健康的な生活じゃないかな、と思う。問題はご飯がやけにすすむことくらいじゃないかな。

水産生物の食文化を調べていると1年の区切りがなくなるので、正月なんていっていられない。それでも、初荷の5日までは流通は止まり、新しい魚との出合いも止まる。とすると2023年最後のマアジは京都府産のマアジということになる。非情に膨大な種をようすアジ科の中でももっとも一般的な魚で、北海道から九州までの沿岸域にいたって普通に見られる魚だ。稚魚期など手網ですくえるほど浅いところで見られ、陸からも簡単に釣れるので、海の魚でこれほど馴染みのある魚はいないだろう。漁獲量的にも優等生で流通上でももっとも手堅い存在となっている。2023年の最初は兵庫県淡路島、鹿児島県のものもあり、大産地長崎県、島根県もあり、宮城県、岩手県などで1年を通して日本各地のマアジが楽しめた。〆である京都府産は師走なのに脂が豊かで、仕立て(出荷のやりかた)がていねいで鮮度も申し分がなかった。八王子総合卸売協同組合・センターも来年までお預けなので、細々と買い求めたが、マアジは舵丸水産で売られていたものだ。近年気になるのは並アジが少なくなったことだ。非常に上質のものがたっぷりとやってきたが、値段は高め安定だった。本来、マアジは並アジという安い価格帯が土台のようにあってこそだけど、一般的な魚屋などはやりにくい1年だったのではないかと思っている。

コノシロは北海道から九州の内湾や川の河口域に普通に見られる。そんなにきれいな水域ではないところに群れているので、初めて港の防波堤(波止)で釣ったときはとても食べられるとは思えなかった。徳島県の山の奥に生まれ、食用魚の知識は皆目なかったのもある。ちなみに大都市は往々にして川の河口域に生まれる。江戸時代の江戸で「こはだのすし(すし飯ではなくおからのすし)」が名物だったのも、こはだ(コノシロ)がたくさん揚がるところに、たまたま江戸の町が誕生したからだ。最初の出合いは決してよいとは言えないものだったが、酒を嗜むようになってからのボクはコノシロには目がない。例えば、神奈川県小田原市、小田原魚市場を晩春から初夏歩いていると、ときどき大きなコノシロが落ちている(まとまらないと売れないからだ)。面白いもので相模湾でも東より、江ノ島周辺にはコハダ(体長13〜18cm)がいるが、小田原にいるのは成魚ばかり、20cmはおろか25cmくらいの大コノシロであったりする。これも小田原でコノシロが邪険に扱われる理由だと思う。普通、魚は小さいと売り物にならないが、コノシロばかりは大きく育つと売り物にならないのである。この大コノシロがやたらにうまい。わざわざ競り落としてもらった主役を食うことすらある。ものすごく豊かな味というと変な表現だが、味のボリュームが大きいのだ。持ち帰ると頭部も尾も切り飛ばして、骨切りをして振り塩をして保存する。あとはときどきに焼いて食べる。三枚に下ろして、酢で締めても、端からできるだけ薄く切り飛ばして刺身にしてもうまい。不思議なものでコノシロという魚は大小にかかわらず味のよしあしがあり、脂の乗る乗らないも大小に関わりがない。脂は身に混在して柔らかさを感じる。鮮度のよさも、脂のあるなしも触ってみなければわからない。八王子総合卸売協同組合、舵丸水産に三重県鈴鹿市白子から、「こはだ」がやってきていた。鱗がびっしりとつき、ベストサイズであるし、触ると脂がある。年末なので決して安くはないが、刺身用に数尾買い求める。体長15cm、重さ50g前後、高級すし店では「こはだ」ではなく、その上の「なかずみ」ではある。ただし今どきこのサイズを「なかずみ」というすし屋は都内にもほんの一握りである。

房総半島以南の太平洋側を回遊しているトビウオである。伊豆諸島では「くさや」になり、また大型なので鮮魚としても人気が高い。関東ではもっぱらは「角トビ」とか「春トビ」と呼ばれている、トビウオの魁である。標準和名、ハマトビウオは正体不明の標準和名で、意味がわからず、だれの命名なのかわからない。フエフキダイ科のハマフエフキ、フエダイ科のハマダイとともに理解不能だ。さて、ハマトビウオは一昔前は、1月後半くらいから市場で見かけるようになり、だいたい5月くらいまでやってきていた。当時は、「春トビウオ」でよかったが、近年は12月になるとすぐにやってきている。しかも伊豆諸島や宮崎県、鹿児島県からではなく、関東周辺の千葉県からやってくる。魚屋に言わせると11月にも荷があったというが、これじゃ「冬トビウオ」と言った方がいいくらいである。関東では春夏秋冬、トビウウオの種類が入れ替わりながら入荷してくる。八王子総合卸売センター、福泉で見つけた、今年最後のトビウオは非情に大型で全長51cmもあった。千葉県鴨川の定置網のもので首折りで触るととても硬く、どことなく脂が感じられる。千葉県鴨川の魚は年々鮮度がよくなり、荷の作りも上手になってきている。1尾だけ味見に買ってみた。

冬の荷が薄い時期に市場で魚貝類を買い、どこかしらもの足りないなと思ったときに見つけると、ついつい手が出る、そんなレジ横の菓子のごとき貝がある。標準和名をダンベイキサゴという。八王子総合卸売協同組合、舵丸水産にたぶん九十九里産だと思えるものを見つけたので、軽く一つかみ購っている。「きさご」というのは本草学の世界にもあり非常に古い言語だ。巻き貝自体をさすことばに近いのではないかと思っている。江戸の書に「蝸牛(カタツムリ)ににて模様がある」とあるが、これこそ言い得て妙である。「だんべい」をつけたのは『目八譜』の武蔵石寿(江戸時代を代表する博物学者)だが、当時あった、団平船(船底が平たい船)に見立てたのではないかと思っている。余談だが、「キサゴを海の蝸牛」と言った貝家さん(貝の収集家)がいたので、試しに蝸牛を千葉県勝浦市の海に投げ込んだことがあるが、ナメクジ同様に塩に弱いのか半溶けになった。決して蝸牛は海に放り込んではならない。ニシキウズガイ科サラサキサゴ属(キサゴ属ともいうし、和名を捨て去り、Umbonium属ともいう)は国内に5種いるが、比較的目にしやすいのはイボキサゴ、キサゴ、ダンベイキサゴの3種。イボキサゴは川の河口域に近い干潟などにいる。小さくてきれいなので、1950年くらいまでは「おはじき」として売られていた可能性がある。また千葉県などでは肥料として重要なものだった。キサゴは内湾に多いものの、イボキサゴのように汽水域にはいない。食用になるが、流通上は非常に希少である。ダンベイキサゴは外洋に面した砂地にいる。今やキサゴ類で唯一流通する食用貝である。今回のダンベイキサゴはナガラミとして流通している。ナガラミ、ナガラメは茨城県から愛知県にかけての広い地域での呼び名だ。静岡県は昔からナガラミを好んで食べる地域だったが、1980年にはとんと見かけなくなったと聞取している。流通上で静岡県産は希にしか見ていない。神奈川県でも水揚げされるが、こちらも希である。今やダンベイキサゴのほとんどが千葉県九十九里産である。

鹿児島県鹿児島市、田中水産さんにクリスマスプレゼントをいただいた。もちろんケーキではなく、チキンでもない。もっと遙かに高級でうんまかもん、シマアジでごわす。シマアジも北上傾向にあるが、暖流の申し子のような魚で水揚げ量からすると房総半島以南に多い。鹿児島はその北上する暖流が東西に分かれる分岐点でもあるのだ。岩礁域に多く、釣り場では浅場の根(岩礁)まわりを狙うことが多い。余談だが。明治時代、生物分類が国内に導入されたとき、生き物の国内で使うための言語(標準和名)を早急に決める必要があった。江戸時代以前の古い書籍からと、身近なところから集めた名前の中から科学的に使える言語を選んだのだ。まるで、雲をつかむような、血のにじむような作業だったに違いない。このとき様々な混乱と、すでにあった学名(このときすでに国内の多くの生物には学名がついていた)とのとり違えが生まれた。ちなみに当時の印刷技術では訂正が非常に難しかった。集めた後も様々な段階で間違いが起こる。ゴキカブリがゴキブリになったことなどいい例である。印刷には見当、桁つけ(ボクが印刷系をやっていたとき、活版はほんの少ししかやっていなかったので曖昧だけど)、面つけなど地道な作業が必要だった。よほどのことがないと訂正がきかなかった。この印刷上のミス、校正ミスなども分類学のキズとなって残っている。魚類の名前でもわかりやすいものと、わかりにくいものとがあったが、シマアジなどは非常にわかりやすいものだった。江戸時代本草学の時代にもある言語で、採取した東京での意味合いは明らかに島(伊豆諸島)から来たアジだから島鯵である。不思議なことに田中茂穂はこれを縞鯵としている。ここには紀州魚譜の宇井縫蔵との関わりが感じられ、田中茂穂の人となりが偲ばれる。魚の名前からも魚類学の歴史がだどれるのである。ちなみに鹿児島県には体高のあるシマアジを含むアジ類をエバ、カマジ、カツンなど複数の呼び名がある。

カナガシラは北海道から九州まで、東シナ海のやや沖合いに生息している。東シナ海や本州などの底曳き網でときにびっくりするくらいたくさん揚がることがある。胸鰭が翼状であるし、同じホウボウ科のホウボウと似ているなと感じる人も多いと思う。違いはホウボウの体がすべすべなのに対して、体がザラザラしていることだ。頭部など包丁をはじくくらいに硬い。魚の名前には意味のわからない、直感的に使われてきたものと、その姿を明確に現しているものとがあるが、本種は後者で「金属のように硬い頭」という意味である。流通の世界では荷(発泡の箱)に「イ」と書いてあることが多い。仮名の頭(最初)がイロハのイだからだ。こんな文字が日常的に使われるほど、本種は流通上では当たり前の魚である。今回のものは八王子総合卸売センター、福泉にあったものだ。ありふれた魚ではあるが、産地が神奈川県横須賀市東部だったので思わず手が出た。横須賀市は東は東京湾、西は相模湾に面している。たぶん山口百恵の「横須賀ストーリー」とかから連想するのは東の東京湾側で、相模湾側は自然豊かな真逆のところである。東京湾のカナガシラが復活してきているのかも知れない。魚体はみな25cm以上ありそうである。とするとノミの夫婦なので雌ばかりだろう。ここ数日、咳が出る。悪寒がして、熱もありそうだ。頭に浮かんだのは鍋で、それで無意識に手が出たのかも知れない。頭が非常に硬いためとてもいいだしがでる。このだしで野菜を食べるのが風邪には持って来いだろう。下ろすとオレンジ色がかなり膨らんでいる。産卵が近いようなのに脂が感じられるのは、本種が産卵期に旬を迎えるためかも知れない。

神奈川県小田原がアカヤガラだらけなのは毎冬のことだけど、千葉県でもたっぷりとれているみたいだ。駅前のスーパーでも、隣の県の大型スーパーにも特売で並んでいる。新宿のデパートのぞいても同じ。みな下ろす前の姿を飾ってあるのは、正しいやり方だと思う。これで不気味だから買わないと思う人と、面白そうだから買ったみようと思う人がいそうだけど、食べなきゃ損、損だと思う。アカヤガラは魚の冒険への入り口といってもいい。そのとき、我が家には頂き物の1個体があり、細部を撮影して、ていねいに骨をバラして個々に撮影し、捨てるわけにも行かないので、下ろし始めたらやたらに寒い。窓の外の温度計は摂氏4℃くらいに見える、ので地面は氷点下だろう。当然、鍋しかない。問題はここ一週間でアカヤガラの鍋は4度目だということである。韓国風、ちり、ちり、ときて、今回は割り下鍋にする。割り下は醤油・酒・みりん・水を合わせて好みの味に加減したものである。差し昆布をしてもいい、というか、ボクは必ず差す。アカヤガラは鍋にするのがいちばん簡単で、いちばんうまいかも知れない。市販の鍋つゆで鍋という人も多いらしいが、そっちの方が簡単なら、それはそれでいいと思うな。さて、今回のアカヤガラはバラバラ事件の死体のようなので、肝も鳴き袋(鰾)も見当たらない。適当に筒切りにして湯通しする。氷水に落として表面のぬめりを流し、水分を切っておく。冷蔵庫に、必須である玉ねぎを見つけてほっとする。割り下鍋にはコンニャク(今回は糸こんにゃく)と玉ねぎがあればいい。鍋材料を他にもないかと探して、割り下を煮立てて、材料を適当に放り込みながら食べる。アカヤガラのすごいところは、いいだしが出ることと、上品過ぎるように思えて、意外にうま味が豊かで、ほんのり甘味があることだ。ちなみに割り下鍋の醤油を多めにして砂糖を加えて甘辛味にすると、とてもご飯に合う。意外に一升瓶赤ワインにも合うけど、今はないのが残念でならぬ。仕方がないので、これで缶ビール1缶。

江戸時代以前から貝の世界には見立てるということがある。数寄者と言われる人達のネットワークの中から見立てた名前が生まれてくる。ハルカゼガイ(春風貝)などは台湾以南にしかいないもので、江戸時代に珍奇なものとして輸入された。これを大坂(大阪)四天王寺の西、有栖山清水寺そばにあった、浮瀬という貝の大杯で酒を飲ませることで有名な料亭で使われることで、生まれた呼び名である。本来の大杯は大型のアワビだが、ハルカゼガイなどの大型の巻き貝なども使われた。ラグビーボールのような貝で縞模様がある。なぜこの貝から春風を連想したのか、不思議である。サクラガイなども色合い、貝殻の形から桜の花びらに見立てたものだ。これなどは砂浜で拾ったことのある方なら、まさにそうだと思えるだろう。ウチムラサキは非常に無骨であるが、江戸時代の『目八譜』では内側の色が紫色で美しいので、「内紫」と名づけられた。また丹後宮津では貝殻の内側に貝柱や外套膜、軟体がついた痕を、天橋立と阿蘇海(与謝内海)の景色に見立てて「橋立貝」という。〈殻の内側の筋肉のついていたあとを見ると、外套膜のはしにあたるところは長くつき出ているので、与謝内海(よさうちうみ/天橋立の内側の内湖で、阿蘇海ともいう)では、この部分を天の橋立の風景に見たてて“橋立貝”と呼んでいる〉『原色・自然の手帳 日本の貝』(奥谷喬司、竹村嘉夫 講談社)ただ、この貝殻の裏側から天橋立の景色を思い浮かべられるのは地元の方だけかも知れない。画像から天橋立でもいいし、まったく違うものでもいいので見立ててみて欲しい。もちろん逆さまに見てもいい。

朝日新聞は書籍を作るのがあまり上手ではないと思っている。が、、、ときどき大ヒットを飛ばす。『おそうざいのヒント365日』などめったにないホームランだったのではないか? 行方不明になっているので1980年代には出ていると思うが発売日もわからない。ときどき飲みに行っていた、居酒屋兼食堂のオヤジさんに冷蔵庫に並んでいた、「イかと納豆を合わせるなんて、すごい思いつきだね」と言ったら(朝日)新聞に載っていたと見せてくれた。数年後、書籍になったのがわかったので、まるでボクの本棚のようだった神保町三省堂で買ったのだ。単行本が行方不明になり、文庫本を持っていたが、これも今現在、本のブラックホールの中で行方不明だ。もう一度読み直したいと思っているが、ここ数年できないでいる。以来、イカ納豆は、「ちょいツマ」に作り続けている。ボクのディスクワークは4時間刻みで、3クール目は疲れたらやめて5勺ほどの酒をやる。ここ1ヶ月ほどやたらにいろんなイカを買っている。スルメイカ、ソデイカのブロック、アオリイカ、ケンサキイカ、ヤリイカなのでイカ尽くめと言ってもいいだろう。いろいろ作っても、食べきれないときは冷凍する。イカのいいところは冷凍してもあまり劣化しないところだろう。疲れた深夜など30分くらいで解凍できる。半解凍のときにできるだけ薄く切る。切りつけた身に軽く振り塩をしておく。後は練り上げてねばねばした納豆と合わせて、ついていたタレと辛子を加えてもう一度ねりねりする、だけだ。決してタレを自家製したいとか、わさびの方がいいとか思わない方がいい。せっかくくっ付いてきた調味料に失礼だし、自然破壊に繋がると思う。もちろん人それぞれに勝手にすればいいのだけど。これが意外にも最近飲んでいる、神奈川県秦野市「白笹鼓」の普通酒に合う。納豆とヤリイカなので太らないし、胃の腑に軽い。

ホタテガイを買う度に「帆立貝」という言葉が気になる。「帆立」は名詞ではなく副詞、もしくは「帆立てる」で動詞である。帆掛け船が帆を大きく広げた、広げようとする状態をいう。本種だけの呼び名ではなくイタヤガイ科の同じような姿の貝、二等辺三角形をしたハボウキガイ科の呼び名でもある。「帆立」は、末広がりを思わせるので、どこかしら目出度い言語だったのかも知れない。東北以北の冷たい海域に生息するもので、貝殻を開け閉めして盛んに動く(移動)こと、外套膜(ひも)に目のように光を感じることのできる器官があることなどが特徴である。またおいしい貝柱が大きいのも特徴である。ちなみにアサリやカキ(マガキ)などは軟体部分全部を丸ごと食べるが、ホタテガイの主な可食部分は貝柱である。今回のものは天然ホタテガイとされているが、完全なる天然ではない。種苗採取をしてある程度の大きさまで育て、生育しやすい海域に撒いて、一定の期間を自然の中で暮らさせたものを捕獲したものである。自然の中で育ったもののよさは貝殻が大きく、膨らみが強いことだ。古くホタテガイの貝殻は食器であり、鍋でもあった。青森県青森市などにはホタテの貝殻を専門に売る店すらあった。当時店内には非常に大きな貝殻があったことからして、種苗生産したものではなく、完全なる天然もの、すなわち海で生まれて海で育ったものかも知れない。ちなみに東北地方の底曳き網で揚がる完全な天然ものは、今現在天然として売られているものよりも一回り大きい。さて、師走になって豊洲市場にも地元八王子にも天然もののホタテガイが見られるようになっている。天然ものとカゴやヒモで吊り下げて生育したものの、味の違いはあまりよくわからない。ただ天然ものの方が大型になり、その分貝柱も大きい。食べた後の貝殻を鍋に使えるという利点もある。

徳島県美馬郡貞光町(現つるぎ町)の子供の頃、父親が食べていた刺身は圧倒的にハマチの、だった。ときどきマグロだったことがあるが、キハダマグロだろう。ボクがお使いで買いに行っていた限りでは、近所の魚屋で刺身というとハマチだった。ちなみに養殖ハマチ(瀬戸内海の養殖ブリは若魚まで生育させるものから始まっている)だった可能性もあるが、わからない。四国でも紀伊水道・瀬戸内海周辺はハマチ圏といってもいいと思っている。瀬戸内西部は海域が広く暖流の流れ込みもあるので、瀬戸内海でも周防灘・伊予灘と呼ばれている地域はハマチ圏ではない。なぜハマチ圏と呼ぶのか? というかボクの勝手な命名ではあるが水温が冷たくしかも紀伊半島という壁があるので、ブリの成魚であるブリの回遊域ではないからだ。徳島魚市場で会った老人は、大型の「ブリは紀州や九州からくるけんど、徳島はメジロ(5〜7㎏くらいまで)までじゃろな」という。1960年はじめまで地方では鮮魚流通は比較的広域ではなかった。特に徳島県吉野川流域など徳島県南部太平洋側よりも紀伊水道に面した小松島市以北、香川など瀬戸内海の魚貝類の方が馴染み深かったようである。魚貝類を調べるようになり、なぜ淡泊でうま味のないハマチサイズ(体長40cm前後で、関東ではイナダ)を自分の親世代が好んで食べていたのか、不思議だった。

一週間でいちばんうまいと思った魚貝類料理を、アレコレ考えないで素直に選ぶのが週間トップ ウマスギ GO! GO! である。ここには値段も希少性も含まれない。あまりにもうまいので思わず踊り、GO! GO! となる料理を選んでいる。12月8日に二宮定置の若い衆におかずである、マアジのお裾分けをしていただく。相模湾のマアジは安定的に味がいいし、水揚げしたばかりでいただいた時点で死後硬直が始まっていない。ちなみにマアジにブランドはそぐわない。同じ相模湾でも良し悪しがあるし、ブランドマアジと二宮定置のマアジに差があるわけでもない。その意味で、科学的な目を入れた島根県の「どんちっちあじ」には意味があるが、海域でのブランドには首を捻る。小田原など相模湾の漁業の特徴は、周辺が大消費地で、しかも国内最大の消費地、東京にも近いことだ。当然、鮮度がよければ、その分、高く売れるので扱いもいいのである。ブランドなどと言うものに惑わされるのがいかに愚かな事か、小田原の水揚げを見ていたらすぐにわかる。

八王子の市場に兵庫県赤穂市坂越(さこし)の小振りのマガキが来ていた。坂越は、東京ではお馴染みのマガキの産地、相生市に隣接しており、これまたマガキで有名なたつの市室津にも近い。揖保川と千種川という大きな河川に囲まれているところからして、うまそうなマガキが生育しそうである。ちなみにマガキの生育適地はあまり高水温ではいけない。瀬戸内海はあまたの河川が流れ込み、全域で海水温が低いのである。東の紀伊水道北部と明石海峡から西でがらりと生物相が変わるのも、この低水温のためである。今、瀬戸内海は貧栄養に苦しんでいるが、相生のマガキを毎年食べている限りでは、この大河川周辺は栄養が足りていそうである。

カレイ類の撮影は難しい。焦げ茶色でどこにもピントを合わせやすい部分がない。面白いのはカレイ類すべてが生時からこの醤油で煮つけたような色だということだ。我が家に来たカレイ科で醤油色でなかったのはシモフリガレイという北にいる種のみ。まあ裏を返せば白いので救いがあるが、サメガレイなんて裏側だって死んだミミズのような色をしている。なかでももっとも地味なのがマコガレイだ。どこから見てもうまそうには思えない。これが夏になると万超え当たり前の超高級魚に大変身するなんて、お釈迦様でもわかるまい。さて、関東に入荷してくる個体を見る限り、産卵期は12月くらいから3月くらいだと思う。4月、5月になっても真子を抱えているのもあるが、産卵期の遅い北海道産ではないかと思っている。4月には上物がやってくるようになり、5月下旬くらいから値を上げるのは、産卵期を前に脂がのるのではなく、エサを盛んに食べる時季に脂を持つからだ。6月、7月にはマコがないと商売にならないという仲卸も少なくない。この魚のやっかいな点は活魚でなければならないということに尽きる。死んだら半値でも売れない。有名な大分県の城下ガレイが関東に来ないで九州周辺で消費されるのも、活魚でしか売れないからだ。昨年夏、豊洲市場の水槽の中の肉厚かつ、1㎏をかなり上まわった個体を見つけて。店の前を行きつ戻りつして、迷いに迷っていたら後から来たすし屋にさらっと持って行かれたことが思い出される。夏のマコは買う気で行かないと買いの瞬発力が生まれない魚でもある。最近、手許不如意なので、時季外れを狙うことにしている。

魚料理を調べるなら、魚以上に野菜を知らなければならない。ほんの数ヶ月前、テレビで野菜ソムリエ(あまりにも気持ちの悪い言語すぎて困る。使って恥ずかしくないのかい)と名乗る女性がフィンガーライムやイタリア野菜などを、注目を浴びているといって説明していた。フィンガーライムなんて2015年には築地で売られていて、今更だし、イタリア野菜なんて今や信じられないくらいたくさんの品種が売られている。このような一見変わった野菜を説明することはバカでもできるけど、平凡な野菜、伝統的な野菜を説明するのはとても難しいのだ。変わった野菜もどんどん買えばいいし、見慣れた野菜もいろいろ買えばいいけど、ハレではなくケの中で生かして欲しい。ガザ地区では子供が恐怖におびえて泣いているのに、この国では、毎日がハレという人が多すぎて困る。知らない野菜はとにかく買ってみろ、というのがボクの考えである。1990年くらいに和歌山県和歌山市で「葉ごぼう」を買い、数年後に大阪市木津の市場で「若ごぼう」を買っている。名前は違うが2つは同じものである。これはあえて言えばハレとか珍しい野菜ではなく関西では単に春の野菜らしい。実際、大阪市粉浜商店街のオッチャンは岡八朗のような顔をして「春になったら出て来ますぅぅ」と言った。ちなみに大阪市天王寺そばで怪しい雰囲気のバアサマにお茶を飲んでけ、と脅迫されて座敷に通され、出て来たものは、まんじゅうと「若ごぼう」を炒め炊きにしたものだった。ということで春に関西に行くと必ず買う、と言った野菜である。これを八王子総合卸売センター、八百角の社長が仕入れてきていた。「若ごぼう」と言ったので大阪府八尾市のもので、早すぎるので温室栽培だと思う。買えと言われて買ってきた。ちなみに市場の八百屋ではこんなものも買えるのである。スーパーばっかりでは見る目がなくなる。

魚の説明をするとき、この本来の呼び名と、魚類学の呼び名の違いを説明するのに非常に苦労することが少なくない。この魚類学の名前、標準和名はよほどのことがないと変えられないというのはわかっているが、明らかに市場価値と歴史を踏まえて、現在の「キアンコウをアンコウ」に、「アンコウをクツアンコウ」に変えて欲しいという話でもある。

魚のみそ汁はたぶん国内全域で作られていると思っている。特に漁師さんにとっては日常食に近いものだろう。そのせいか、漁師さんに「みそ汁を作りますか?」、「どんな魚で作りますか?」と聞いてもなかなか返事が返ってこない。魚のみそ汁はなかなか表舞台に出てこない地味な存在なのかも知れぬ。だが、みそ汁こそは、魚料理でもっとも優れているもののひとつなのだ。基本的に汁であるが、実は菜(さい)でもある。みそ汁を作ると、あとはご飯だけで一食になるし、満足感も得られる。しかも魚の可食部を無駄なく食べ尽くすことができる。重要な郷土料理なのだけど、先にも述べたようにあまりにも日常的なために、郷土料理として浮かび上がってこないのが残念でならない。沖縄のように食堂などで、汁以上に主菜ならクローズアップされるところだが、毎朝食べるとか、酒の友にするとかだと、作って食べていること自体に気がづかないのだと思う。長崎県平戸市度島の福畑敏光さんのお宅では、ホウボウのみそ汁をよく作るようだ。とすると平戸周辺でホウボウが昔からよく揚がっていた証拠にもなる。前海は岩と砂地が入り交じっているのかも知れない、などと想像するのも楽しい。作り方は聞くまでもないが、豆腐を加えるというので、豆腐入りホウボウのみそ汁を作ってみた。平戸は麦みそ圏なので近所で長崎県の麦みそを購う。わけぎが欲しかったのだが、東京では手に入れにくいので小ネギで代用する。

魚好き以前に生き物が好きという人間だからだと思うけが、サツマカサゴを見つけると、少しだけだけど興奮する。放っておけない気がして困る。珍しい魚ではないが、手に入れたいと思って手に入れられる魚ではない。探す人間の、運の有る無しに左右される魚というところが魅力的だし、ボクのようにマイナーな人間はマイナーなモノが好き、という原則にも合う。

ただただ、ワタシはナマコになりたいくらいにナマコが好きだ、ということを述べたい。一般的なナマコとは棘皮動物門ナマコ綱楯手目シカクナマコ科マナマコ属のマナマコとアカナマコのことである。棘皮動物にはウニもいるし、ヒトデもいるけど、姿形にドエライ違いがあって共通点はどこにもない。門の段階をヒトに例えるなら、同じ門にはホヤもいるので、門という階級は大きすぎて「動物の仲間を例える」ときには無意味であることがわかると思う。結局、ナマコはナマコだとしかいいようがない。いちよう前後があり、左右相称なので進化の度合いはわかりにくい。ただし、前にあるのが口で後のあるのが肛門とはあまりにも簡単な体の造りだと思う。浅い海底にごろんごろんと転がっていて、ゆっくりゆっくり動いてんのか止まっているのかわかんねーじゃねーかコノヤロウ、というくらいのろのろと動く。食べているのは海底に落ちている砂泥混じりの有機物である。ナマコは世界中の海にいるが、マナマコ、アカナマコのように、そのまま丸かじりしても食べられる種は非常に少ないと思う。熱帯・亜熱帯域でウミンチュがとっているラグビーボールくらいのサイズは干しナマコに加工すると面倒ではあるが食べられるが、そのままでは、かじるにかじれないくらいに硬いし、強い渋味があったりする。ちょっと前までマナマコ、アカナマコは同じマナマコだったが、よくよく調べると二人は他人だったらしく、別種になった。今回のものは色からするとマナマコだと思う。ただこの2種の味はほぼ同じである。よく赤っぽいのがうまいとか、青っぽいのがうまいとかいう人がいるが、そんな微妙な差がわかる人は不幸だ。どっちを食っても間違いなくウマスギである。差がわからない人の方、一概には言えないが幸せである。

流通の場にマイワシがなくなってもなんとかなりそうだが、最近では、マアジがなくなると大変なことになると思う。魚屋でよく「予定が立たない(正確な言い回しではない)」という人がいるが、マアジがないと予定が立たないどころの騒ぎではないはずだ。マアジの最大の産地は長崎県、島根県、愛媛県などの西日本である。この西日本の大産地があるので、関東の魚屋は安閑としていられる。宮城県・山形県以南の日本各地から入荷してきているが、この三大産地、今現在は関東近海もの、からすると桁違いに少ない。八王子総合卸売協同組合、舵丸水産で、久しぶりに宮城県気仙沼産を見つけた。別に宮城県のマアジが珍しいわけではなく、宮城県の荷(発泡の箱)、入荷が珍しいのだ。小アジではあるが、鮮度がいい。触ると身に張りがあり、脂もありそうである。マアジが愛されている理由は、大小にかかわらず味がいいことだ。このサイズのマアジを侮るなかれというか、大アジ以上の味であることが多いのである。

師走の朝のことである。「サヨリってやっぱり高いのね」「大丈夫だよ。1本が軽いからさ」市場人となんとなく不毛な会話をする。ときどき八王子総合卸売協同組合、舵丸水産でサヨリの拾い買い(いいものがあったら買うことで、計画性のない買い方のこと)をしている。サヨリが非常に高いことの利点は、ボクのような仲卸に対して情け容赦のない人間が、平気で一本買いできることだ。キロあたり4000円しても1尾40gなのでタバコを吸う人のタバコ1本くらいの値段ではないかと、久しぶりに市場でタバコを吸う人を見て無意味にも思った。味見は1尾で充分なのだけど、このところ連続してきている愛知県産があまりにもいいので、がんばって3尾かって食べてみた。当然刺身である。サヨリくらい料理していてきれいな魚はない。サヨリは日本中の内湾に普通にいる魚で、体が非常に細く、下顎が長くクチバシのように伸びている。水面を泳いでいるので紫外線対策で背中が黒く、下から敵に襲われないように腹部体側が銀色をして海面に溶け込んでいる。食べるのは海面近くにいる昆虫や甲殻類、海草などである。煮ても焼いてもおいしいが、やはりある程度の大きさになったら刺身にして食べたい。

師走になり、水温が下がってくると国内での水産物の漁獲量は極端に減る。それとは対照的に水産物が非常にうまくなる。漁で揚がる水産物(水産生物)の多彩さがなくなり動物学的な頭脳は喜ばないが、どれもこれもがうまいので、普通の生活人としての頭脳は喜びに満ちて踊り出したくなるほどである。1週間の内に食べた魚の種類は神奈川県小田原市小田原魚市場で見つけてきたものをも含めて20種あまり、軟体類である貝やイカなども7種食べているので、たくさんの料理を作り、うまいものずくめだった。一週間のこれが一番という一品が決めにくい。あれこれ迷ったが、すぐにでも、もう一度食べたいと、今まさに思っているのはアカヤガラの干ものである。味のインパクトが強くて食べたときの記憶が抜けない。素直に考えて、今週の1位はアカヤガラの干ものである。寒くなると、神奈川県小田原魚市場ではにまとまって揚がるようになるのが、大小とりまぜてのアカヤガラである。12月8日の最大は1.5kgもあった。基本的に買受人が狙うサイズは食べ頃で、買い頃の1㎏前後だ。今回手に入れた個体1.08kgはその点からしてもドンピシャリだった。1㎏を超えると値が跳ね上がるが、値段以上の味わいで、過去に買って後悔したことはまったくない。

金曜日の朝、探したのはサンノジ(ニザダイ)とメジナだった。箱根颪が体にじわじわと染みてくる。今夜こそは鍋だとだ決めたのは、メジナを連れて帰るつもりだったからだ。事実、日渉丸、ワタルさんのところに素晴らしいメジナがあった。これを競り落とした人に分けてもらおうと思ったら、ヤオマサのナイトウさんだったのだ。ついでにニザダイもナイトウさんが落としているではないか。ちょうどそこに漁協定置の草野さんが珍魚中の珍魚をくれた。まったく同定できない魚にメジナもニザダイも頭から吹っ飛んでしまったのである。このあたりがボクのダメなところだけど、それくらいの珍魚だったのだ。

明らかに温暖化のためなので喜んではいけないが、魚を買いイカも、と思いながらイカ選びに迷う日々である。ほんの10年くらい前、冬のイカと言えばコウイカ、ヤリイカ、スルメイカの3種でそんなに迷うことなく買えたのである。ところが今ときたら、ここにケンサキイカがあってアオリイカもある。冬のケンサキだけはだめだろう、とは思いながらもご飯のおかずなのだから、とまた迷う。舵丸水産に並んでいたのはスルメイカ、コウイカ、ヤリイカ、ケンサキイカだった。山口県産ダルマ(ケンサキイカ 外套長21cm・0.25kg)を選んだのはしかけているご飯のためである。ケンサキイカは関東では夏イカそのものだった。アカイカ釣り(関東ではアカイカ)というと夏で、寒くなるとヤリイカ釣りとなる。今現在では本州以南にいるけど、古くは日本海西部と千葉県外房が北限だったのだ。しかも年がら年中、ケンサキイカがとれる、こんな時代が来るとは思わなかった。「冬なのに夏イカ、を買うかなしさよ、家にご飯」なのだ。

国内で揚がる食用魚でもっとも不思議な姿をしているのが、棍棒のような形をしたアカヤガラとアオヤガラだ。両種は見わけがつかないくらいに似ている。両種を釣り上げた経験がある方ならわかると思うけど、アタリが変だ。魚が来ているのか、それとも隣とお祭りしているのか、それともジャミなのかわからない。なんとなくスーッと引き込まれるようなので、とても魚のアタリとは思えない。そのスーッと感じる時間が長いため、少しきき合わせると、抵抗して強く吸い込もうとするのがわかる。これこそが典型的なヤガラのアタリである。少し待って合わせると釣れていたりする。

近年、季節感を感じる魚は極めて少なくなっている。この弓形の列島に住み、できるだけ季節を感じて暮らしていきたいと思っている身には淋しい限りである。そこにヤナギムシガレイがやってきて、思わず手が伸びた。ヤナギムシガレイの凄いところは非常に醜いのに、うまそうだと感じさせることだと思う。下氷(発泡スチロールの箱に氷を敷き、上に魚を乗せる)の上のヤナギムシガレイはまるで古草履のようなのだ。八王子総合卸売センター、福泉にあったのは茨城県日立産である。福島県、茨城県の水産物を関東では常磐物という。昔、築地場内を歩いていたとき、「常磐物だよ」は、耳にタコができるくらいの聞かされたものだ。名古屋で三河とか伊勢、とか、大阪で紀州とか、山口で旧国名ではないが北浦とか。北九州で豊前浜とか、言う。この旧国名、地域名遣いは大切に残したい。今年も常磐からヤナギムシが来て、冬本番だな、と思うこの一瞬がいいのである。思わず、値段も見ずに買ったが、この時季はそんなに高くない。12月も中旬を過ぎたら、特に豊洲などで買うときは重々値段を気にして買わねば危険である。ちなみにヤナギムシガレイは最低でも250g以上がいい。ただし300gを超えると値段がガビョーンと上がることも忘れてはいけない。今回の270g前後は買い頃の大きさでもある。

ホウボウの鰾(浮き袋)のことを「鳴き袋」というかはわからない。出典が不明である。ボクの42年も前のカード(民俗学の)に、「鳴き袋とでもいうのかな?」として、以後あたかも出典があるかのように書き続けているが、その時点で手持ちの魚類学の書籍、総ての辞書、図書館で本草学の書籍を調べても載っていなかった。2000年には我がサイトのネット公開の初期段階が始まっているが、そのときにも鳴き袋を使っているはず。かなり不安だけど、呼び名としては悪くない気もするので使い続けていく。ホウボウ科の魚は浮き袋の外壁が分厚く、内壁についている筋肉が発達していて、厚みがある。コイ科オイカワなどの仲間は薄い風船のようだけど、ホウボウのは厚みがあって触るとモチモチしている。ホウボウはこの浮き袋を伸縮させ、グッグッと音を立てる。泣いているような、愚痴を言っているような音だ。たぶん海中でも鳴らしているのだと思うけど、釣り上げたときの鳴きっぷりなどはウシガエルの歌にも匹敵する。小振りのホウボウには小さな鳴き袋しかないので、軽く塩ゆでしてつまみ食いするのが常だけど、そのおいしさに1尾に1つしかないのが残念だと思っていた。煮つけを作るときも大切にとっておき必ず入れる。肝よりもうまいと思ったこともある。さて、このところホウボウを調べているので、大小いろいろ買い求めている。いちばん大きいのは600gもあって、鳴き袋も立派なのが出て来た。煮てばかりいて、焼いていないなと思ったので、下ろしながらていねいに洗い、水分をとって取り分けて置いた。

東京都内で暮らしている利点は全国の水産物が手に入ることだと思う。寒くなると産地別のマガキが仲卸の店頭に並ぶ。北は北海道から九州まで日本各地のマガキが手に入るので、寒くなるとお国巡りをするように、食べている。今年は岩手県産ばかりだったが、今週になり八王子総合卸売センター、福泉に北海道サロマ湖の小振りなものが来ていた。サロマ湖には天然での生育もあり、昔ボール状になったカキ礁の塊をいただいたことがある。サロマ湖も行かなければならない地だけど、当分無理だと思っている。サロマ湖産マガキを食べて、旅心をなだめるしかない。サロマ湖はオホーツク海に繋がっている。そんな光景を思い浮かべながら食べるのも、ボクの密かな楽しみのひとつだ。

スルメイカの高騰は温暖化のためだと思っている。ヤリイカ、ケンサキイカ、アオリイカの高級イカ3種は用途が刺身で同じなので総量で価値が決まるが、スルメイカはスルメイカでなければ作れない刺身以外の料理があるため、なければ1種だけで高騰する。近所の魚屋をとっつかまえては聞いていることだけど、普通の町の魚屋は最近、スルメイカを本単位(はい数が正しいかもだけど、魚屋はイカを1本、2本と数える人が多い)で仕入れているようである。20世紀末には八王子あたりの老舗だと4,5箱仕入れていたことを考えると隔世の感がある。市場では「日本海スルメイカ(下氷)の箱の山に魚屋の札」が普通だったのである。先日、知り合いの魚屋がヤリイカ3、スルメイカ3なんて仕入れていた。ヤリイカなどの高級イカは仕入れない庶民的な魚屋なので、「注文かい?」と聞くと、「最近こんな感じよ」と言う。要するにイカの需要はあるのだけど、イカの刺身が高級品になったので用途の違う2種を最低限仕入れているのだ。「最近ウチもね、アオリもケンサキも仕入れてるのよ、世の中変わったよね」マイワシがキロ単価で3000円以上したときは魚屋が大騒ぎしたけれど、スルメイカはそこまでの騒ぎにはならない。でも深刻だと考えている人は多いのだ。イカは目立たないけど地味に大変な状況にある。なんとなく仕入れていたスルメイカが1本大きいと700円もする世の中が来るとは誰も思わなかったはずである。ちなみに昔は立派なのが300円くらいで買えた。安いと100円なんてスルメイカもあったのだ。その100円サイズだって今じゃ450円はすることからして、スルメイカは高級イカとなってしまったことになる。念のために岩手県産ヤリイカと日本海(正確な産地は不明)スルメイカ両方を買って値段を比べてみた。ヤリイカはキロ単価(重さを量って買う)、スルメイカは1本売りなので買って調べるしかないのだ。正確なことは公表できないが、ほぼ同じキロ単価だった。だからスルメイカとヤリイカ両方を魚屋は仕入れていくのだ。ちなみに外套長(同の部分の長さ)が同じなら、頭と足が大きいスルメイカの方が重い。このあたりも両種の用途の違いを生むのだけど、これはまた別の機会に。

イサキとはひとりぼっちで悲しい魚だという話をしたい。本州、四国、九州にいる魚で、漁獲量は多獲性魚類(サバ類、マアジ、サンマなど)であるマイワシなどと比べると少ないが、決して魚全体からみると決して少なくはない。外洋に面した磯(岩などが多い浅いところ)にいる魚で、漁港や岩場などから海をのぞくと小型なら見られるくらい在り来たりの存在である。しごくおとなしい顔をしており、歯は小さく、エサは甲殻類や小さな軟体類であるイカタコなどで、食い殺すのではなく飲み込むタイプである。小エビなどにとっては優しい悪魔だ。ここまではイサキの解説だが、まずは食用魚イサキって知ってますか? から始めなくてはいけない。たぶんだけど、この国に住むほとんどの人は知らないだろう。昔、マスコミ関係の話し合いで、食の専門家ですらイサキを知らない人がいてビックリしたが、これが現実だろうなと思ったものだ。ちなみにこの国の料理研究家は最低限の植物(野菜)と、鶏肉と豚肉、牛肉だけ知っていて、ご飯が炊けて、パンでも焼ければなれそうだと思う。間違いなく水産物の知識はゼロでもやっていける。この国のほとんどの人が食べ歩きには興味があるが、料理にも食材にも興味がないのだから、仕方がないだろう。

本命中の本命が週間トップというのも恥ずかしい気がするが、迷うことなく週の大本命になりそうだと思って買った、五島産スマが突き抜けてうまかった。スマはサバの仲間で、古くはマグロ族というくくりがあり、いわゆるマグロであるクロマグロやメバチマグロと同じ仲間だった。身色も身の性質もマグロとあまり変わらない。インド洋、太平洋の熱帯域から温帯域を高速で泳ぎながらエサである魚を追いかけ回している。このところ長崎県五島から毎日のようにスマがやってきている。1.5kg前後と形が揃っている。粉砕氷の中に入っていて鮮度がいい。今や毎日のように市場で見かけるスマも、昔は西日本に多く、産地周辺で消費されて、めったに関東には来なかった。1ヶ月に1尾は食べているので、もうそろそろスマかなと思っていた。今回は小田原で探したいと思ったが、もろもろの事情で、今回10、11月初めと同じ八王子(八王子総合卸売センター、福泉)で買った。今回の個体は全長45cm・1.247kgで、近年、鹿児島県などでは大型化していることからすると手頃なサイズである。触って硬く感じるくらいなので、鮮度は抜群。しかもどう見てもデブである。

ヒゲダイがいるからヒゲソリダイがいる。ヒゲダイは立派なヒゲがあり、ヒゲソリダイはほんのちょっぴりのヒゲがあるだけ。だから鬚剃鯛となる。このヒゲダイ、ヒゲソリダイの名とか分類は長年混乱があって、それはそれで面白いのだけど、ここでははしょる。外房以南の浅場にいる魚で、相模湾でも昔からとれてはいたが、固体数が少ないのか、めったに見ることが出来なかった。とれても小型が多かった。それが最近では量的にも増えているし、大型が増えた。関東の市場でも昔は珍魚のたぐいだったが、流通量が増えて、普通の食用魚となってしまっている。温暖化が顕著に感じられる魚ではないが、確実に温暖化で増えている、そんな魚である。初めて見たときは、イサキ科なのにイサキのようなスマートな体形ではなく、鯛型(体高が高く)で身が厚く、どことなく鈍い感じのする魚だな、と思ったものだ。デジタルカメラでの初の撮影は2004年で、広島県倉橋島の日美丸さんという漁師さんにいただいたものである。体長25cmくらいだったけど、関東ではめったに手に入らない魚だったので、ハッスルして120画像も保存してしまっていた。以後、イサキ科の主流はイサキのようにスマートではなく、鯛型でやや左右に分厚いということを知る。

ボクのようにねっからの四国徳島人にとって、日常欠かせない調味料は醤油(しょうゆ)である。醤油がなければ一日たりとも暮らせない。醤油はなんでもいい。非常に若いときは、これだ!、というものばかり使っていたが、そんなこれだ!、と思う事のつまらなさを知り、これだ!、と思わなくなった。ちなみにボクの場合、九州や山陰にいけば甘い醤油を買い、千葉県利根川河口域にいけばキリリとした醤油を買う。東北・北陸のまったり系もいいと思うし、実際に買ってくる。旅で調味料を買うってことは矢鱈に楽しいことなのだ。ただし加減醤油を作るときは千葉県の大手や地醤油、東京都内の醤油の方が作りやすい。我が家の加減醤油は土佐醤油、めじか醤油、煮干し醤油(煮干しはカタクチイワシ、トビウオなどなど)、唐辛子醤油である。

コウイカ科のイカの特徴は「貝のような姿の動物」であった名残である、貝殻を体に有していることだ。貝殻は一般的には甲という。甲を持っているイカなので甲烏賊となり、科名(コウイカ科)種名(コウイカ)になっている。山間部に育ったボクに甲は珍しく、子供の頃、魚屋にお使いに行って、甲をもらって、うれしかった想い出がある。生物学者・谷田専治(1908年生まれ)は粉末にして歯磨き粉に用いる、…甲に彫刻して飾りものにする…止淋散と称して墨客に利用されると述べている。止淋散は不明。魚屋の中に乾燥して粉末にして血止めにするという人もいる。鯣(するめ)はイカの開いて干したもののことであるが、比較的大形の食用イカすべてで作られている。スルメイカは国内でたくさんとれ、鯣にもっともよく加工されるために、鯣烏賊と呼ばれるようになった。鯣に加工される主なイカは多い順にスルメイカ、ケンサキイカ、アオリイカのツツイカ類(体がスマートで貝殻がフィルム状)。シリヤケイカ、コウイカ、カミナリイカのコウイカ類である。ツツイカ類の鯣はスーパーなどでもよく売られているので、探せば手に入るが、コウイカ類の鯣を手に入れるのはなかなか難しい。コウイカ(ハリイカ)の干ものは徳島県鳴門市、阿南市で食べているのに、撮影し忘れるという失態をおかしているが、非常にローカルな食材である。そのコウイカ類の干ものに「甲つきするめ」がある。先に述べた谷田専治、軟体類学者・奥谷喬司の著書にあるし、塩乾加工の書籍にもある。長崎県雲仙市の佐藤厚さんはシリヤケイカ、コウイカで実際に作っていたとのことで、味はシリヤケイカの方がいいという。とすると「甲つきするめ」は主にシリヤケイカで作られていたのだろう。これは奥谷喬司がシリヤケイカは東シナ海でたくさんとれていた。「甲付するめ」にも製されていたということと一致する。

情報処理に追われているし、雑務事務作業もあり、送られてくる水産生物もある。たまに都心に出ると、探すものがある。食堂・洋食屋のカキフライだ。本来は10月の声をきくとそわそわしたものだが、今年はカキ自体が遅れている。当然、カキフライも11月になってからだと思い込んでいたのだ。カキフライを食べるなら、あの店、この店と考えて、いざ行ってみると閉店していたり、定休日だったり、「カキフライ売り切れました」の札が下がっていたり。このままでは一生カキフライが食べられないのではないか、と不安になる。じゃあ、自分で作ればいいじゃないか、と思う人は人生経験が足りないと思う。外食で食うカキフライと、自分で作って食べるカキフライは別物なのだ。記念すべきカキフライは外食でなければならぬ。本来、10月になり、厚手の上着に着替えて、食堂などでカキフライを食べてこそ、情け容赦のない時間とともに移ろう自分が感じられるのだ。3回連続、都心でカキフライに振られ、ボクのカキフライ人生暗いなと思っていたら雑用で行った隣町の肉屋になんとカキフライがあった。でも3個しかない。通りがかりの肉屋なので、恐る恐る、「カキフライこれだけですか?」と聞くと、「今、揚がるところですよ」という。地獄で仏ならぬ、地獄で可愛らしいオネエサンが微笑んだ。大急ぎで帰宅して、今季初カキフライを食べた。今季初カキフライは肉屋の、となってしまったが、これでいいのである。実際、このカキフライが非常にうまい。まだ温もりが残っている内に大急ぎで帰ってきて食べたのもよかった。それにしてもカキフライとはなんとうまいことか? カキの複雑うまいが、揚げたパン粉と一緒くたになり、余計に複雑うまいになる。柔らかく濃厚なのに後口がいい。10個ではなくもっと買えばよかったかも。ちなみに今はなき行きつけの店では、カキフライ+ヒレカツとか、+メンチカツをしていたので、ボクのカキフライ愛には不純なところがある。今回もいけないとは思いながらコロッケを+、した。

徳島県美馬郡貞光町(現つるぎ町貞光町)で「そろ」と呼ばれていた竹製の道具がある。同地では子供がジンゾク(カワヨシノボリ)などの小魚をとる道具であった。筆者が4、5歳くらいから小学校低学年くらいまで魚とりに使っていたが、これが同町では当たり前のことだった。また著者の家は荒物雑貨などを売る商店だったが、「そろ」も商品として売っていた。我が家の商圏は現つるぎ町と美馬町(現美馬市美馬町)なので、「そろ」という言語は最低でも美馬郡全域で使われていたのだと考えている。写真は大分県日田市で購入したものだが、「えびしょうけ」という。これが我が故郷の「そろ」だ。古く「笊籠」を「そうり」と呼んだという。北陸・西日本で「そうけ」、「そーけ」、九州で「しょうけ」、「しょけ」、沖縄で「そーき」、「じょーき」という。「そろ」は、北陸・西日本の「そうけ」、「そーけ」の変化のひとつだと思われる。以上は、すべて笊(ざる)の呼称で、竹で編んだ容器の総称でもある。丸いものを盆笊、とか四角いものを角笊とかいうし、大型の箕(み)もある。水を切ったり、作物を入れたり、運んだりする。「そろ」は非常に頑丈で1960年前後には土木作業のじゃりを運ぶのにも使われていた。手を入れる四角い穴があるのも特徴である。九州大分県日田のものは、貞光町のものとまったく同じものである。「えびしょうけ」は「エビをとるための笊」という意味だろう。貞光町では「そろ」というが、同鷲敷町(現那賀町)南川・中山川周辺では「つつみ」と言う。徳島県阿南市羽ノ浦町古庄では「米けんど」というのかも知れない。羽ノ浦町では盛んに淡水魚を食べていて、岸辺の葦の間にいる魚をすくうのに使用していたようだ。貞光町ではもっぱら子供の漁具であり、大人が魚をとるために使っていたという記憶がない。とった淡水生物は家庭によっては食べていたのかも知れない。「そろ」でとれる魚を鶏の餌にしていた家もある。羽ノ浦町では用水路のエビ(テナガエビもしくはスジエビ)、フナなど小魚をとり、食用としていた。子供が使う漁具でもあっただろうと思うが、大人が日常の食べ物である淡水魚をとる漁具でもあったのだ。参考文献/『民具の事典』(監修/岩井宏實、編/工藤員功、作画/中林啓治 河出書房新社 2008)、『聞書き 徳島の食事』(農文協)

イトヒキアジは本州が北限で、世界中の熱帯から温帯に生息している、真四角なアジ科の魚である。若い個体の背鰭と臀鰭は、ひらひらと新体操のリボンのように伸びている。銀色なので水中で見ると非常に美しい。成長するとだんだん鰭が短くなり、オッサン顔になるところなど、子役のときの輝きをなくした女優のようだ。イトヒキアジの糸引きはこの若い個体の呼び名だ。国内での呼び名をみてもとどれもこれも長い鰭に由来する。明治時代以来昭和になるまで、この国の動物学者・民俗学者は国内での生き物の呼び名をやっきになって採取したが、このオッサン顔の親からの呼び名は九州以北にはない。イトヒキアジは昔、成魚は九州以北にはほとんどいなかったのだ。鹿児島県島嶼部、沖縄では昔から1m近い成魚が普通にとれる。呼び名のソージガーラ、のソージは障子のこと、ユダヤガーラのユダヤーは涎のことだけど由来などはわからない。【余談だが、英名にPennant-fishというのがある。和訳すると旗、幟だと思う。国内の呼び名にも「幟さん」、「幟立て」があるのは和洋考え方が同じということだ】1985年に紀伊半島を回る旅をしている。大阪から南下して、野宿と民宿に泊まり、港を縫うようにして熊野市までの旅だった。紀伊半島でよく見かけたのが手の平大のイトヒキアジで、最初は珍しいので拾っては撮影していたが、あまりにもたくさん落ちているのでバカバカしくなった。湯浅あたりの漁師さんの話では「おかずにもならない」こまった存在だったようだ。2000年代から日本各地で定置網の水揚げだけではなく、網揚げの見学もさせて頂いている。相模湾平塚ではひとまわり大きいものが揚がっていたが、一日に数個体だった。ここでも手の平級はたくさん揚がることがある、という話だった。2010年くらいまでは九州南部はともかく、四国、本州とも本種はひらひら鰭が長い食うに食えない魚であり、網に大量に入ることがあるので迷惑至極な存在だった。これが最近、希に大型の成魚もとれるし、食い頃の重さ500g以上などたくさんとれるようになっている。今週、八王子総合卸売センター、福泉に並んでいったのは、体長30cm・0.6kgなので見頃(見て可愛い)・食べ頃(食べるに手頃)なサイズである。最近思う事はイトヒキアジはやっかいな存在から、普通の食用魚で、歓迎される存在に変心しつつあるということだ。問題はもう少しだけ知名度が上がることだろう。スーパーなどに切り身で並べれば身色もきれいだし、売れ筋になるのではないかと思う。

タレントのタモリではなく、魚のタモリの話だ。この魚のタモリには田中茂穂は「太母里」という漢字を当てているが、正しくは「田守」だという話でもある。田守は室町期には歴とした官職のひとつだった。それが時代が下り、江戸時代になると、野良で日がな一日、田畑を見守っている人という意味に変わる。ついでに言えば、田守という言語はダサイと同義語に成り下がる。無精髭を生やしたまま、パジャマの上に上着を羽織って市場に向かう自分などは典型的な田守である。田守は今や死語だけど、江戸時代には一般的な言語で、日常会話にも使われていたようだ。薄汚い、うらぶれ落剥した人とか、知的障害のある人を差す言葉といえばわかりやすそうである。ボクの生まれた高度成長期でも、このような人達の暮らしがなり立つようにそれなりの職業があてがわれていた。そのひとつが江戸時代には田守だったのだと思う江東区の聞取にしても、山本周五郎の世界にもそんな存在が出てくる。明治時代に宮城県仙台市にいた仙台四郎も同様な存在だったのだろう。今はなんでもかんでも差別だというが、むしろ露骨に田守のような差別用語を使っていた時代の方が人間的で温かみのある気がするから不思議である。先にも述べたように、田守は室町時代には官職名でデスクワークの人だったが、江戸時代には田に入ってくる害獣を追い払い、また畑仕事で助けが必要なときには呼ばれる、実労働者そのものを指す言葉になる。江戸時代の俳句では以下の2句がある。【稲塚の戸塚につゞく田守かな】 宝井其角 『最近俳句歳時記 秋』(山本健吉)【秋の夜をあはれ田守の鼓かな】 黒柳召波 『大言海』宝井其角は芭蕉門下で裕福な家の出であり、荻原重秀が作りだした華やかな元禄期を経験している。黒柳召波は蕪村の門下で、当然、蕪村の属していた京のサロンにも参加していただろう。蕪村、池大雅、伊藤若冲などがいて京がもっとも華やかだったときを生きている。句の意味合いは後者は落剥を思わせるが、前者は現代の言語訳ではよくわからない。稲塚は稲を杭にからめて干す形が塚(盛り土)に見えるための言語で、それを守る人が戸塚(多分東海道五十三次の戸塚宿のことで、京に上る最初の宿場。塚塚で韻を踏んでもいる)まで永遠と続く光景を詠んだのかも。ともに田守は侘しいとか淋しいとかで、決してきれいなイメージはない。田守には野良で衣類をかまわず、無精で不潔だというイメージがあるのである。

東京都内多摩地区、我が家の近所のスーパーに高知県産オオニベが丸ごとどでーんと飾られ、刺身用の柵が特売されていた。特売なので至極安い。オオニベはニベ科の中でも最大級の魚であるといってもわからないと思う。東京湾などでもたくさん釣れる、イシモチ(シログチ)に近い魚であり、西太平洋ではこのニベ科の魚たちは重要な食用魚であるとおぼえていてもらえるといいかも。東京湾のシログチがせいぜい全長30cm弱なのに1mを越える巨大魚で、大物釣り師の憧れの存在でもある。1980年代オオニベを築地場内で見つけたときはうれしかったが、8㎏以上あって、とても手が出なかった。21世紀になり築地の大手荷受け、大都魚類の競り場に大量の箱が置かれていて、すべて宮崎県で養殖されたものだった。宮崎県は当時、オオニベの養殖で有名だったはずである。当時、生息域内ではあるが、相模湾ではほとんど見られなかった。駿河湾にもいたとは思えない。個人的には、もっぱら九州から来る魚と思い込んでいた。それが今や、相模湾でもいたって普通の魚になっている。本種が相模湾で珍しい魚でなくなったのは2010年前後からだと思う。2023年現在、大きな個体が普通に見られる。宮城県気仙沼でも揚がっていて、温暖化で北上し、水揚げが増えた魚のひとつである。

八王子総合卸売協同組合、舵丸水産に愛知県篠島産のみごとなサヨリがきていた。山梨県上野原の料理店、桜扇さん(市場では屋号で呼ぶのが普通)に「吉永サヨリって言う人が少なくなりましたね」というと、忙しい最中なのに「ボクたちが最後でしょうね」と返してくれた。久しぶりに会った魚屋さんにも同じ話をしたが、「最近の人はわからないだろ」という。築地に通い始めたとき、頻繁に行けないので、できるだけ少量、多種類を嫌がられないように買っていたことがある。嘴の赤いサヨリをできれば2本買いたかったのだけど、「4くらいは買いな、サヨリちゃんはよ」と言われたことがある。閂(かんぬきは全長30cm以上で80gから100gある)とまではいかなかったが、かなり大きい個体なので4尾だと200gくらいになるな、と躊躇していたのだ。ちなみにそのときボクは「サヨリちゃん」で、ちょっとニヤッときた。そのものずばり、「吉永サヨリちゃん」という人もいた。「吉永サヨリちゃんきれいだよ、おいしいよ」なんて言葉に、1980年前後に30歳以上だった人(今なら70歳以上)なら、吉永小百合の姿が浮かんできてわくわくしたのだろう。今年の冬に去る業界の仕事中に、バスの中で魚のレクチャーをしながら「吉永サヨリちゃん」と言ったら無反応だった。周りにいたのは30代、40代であるが、考えてみたら「魚のサヨリで吉永サヨリ」など理解できるはずがない。

連日のように北海道道東からマイワシがやってきている。「もどりいわし」と書いてあったり、いなかったりするが、どれも中身は同じものだ。どの荷(市場流通するときの箱)にも太りすぎのデブイワシが入っていて、触ると硬いなかに脂の存在が感じられる。魚屋は、「火つけると燃えます」などと言うが、本当に燃えそうな手触りである。古く、5月くらいから10月がマイワシの脂が乗っている時季とされていたことがある。ただしこれは関東周辺とか太平洋沿岸域でのことで、全国的には当たらない。日本海側では明らかに数ヶ月遅れるし、最近では温暖化のせいで晩秋から冬にかけて、北海道とか三陸で、いちばん脂をため込んでいる、索餌回遊(エサを食べるために群れて移動する)の時季が遅くなっているようだ。北海道のマイワシは2021年から今年まで、11月からまとまって来ている。それにしても今年ほど脂が乗っていたかな? なんて過去の画像を確認して見ると、やはり昨年(2021年)の個体も厚い脂の層に覆われていたことがわかる。

多くの文学作品に出てくるのが東京都内、千葉県西部の佃煮である。山本周五郎の『青べか物語』などをみても、庶民にとっての基本的な菜(副菜)だったことがわかる。東京都をはじめ東京湾周辺には無数の海辺漁業(造語です)があった。汽水域ではたくさんの二枚貝が取れ、アミ類、シラタエビ、テナガエビ、スジエビなどに、アマノリ(アサクサノリ)、青のり(ヒトエグサやスジアオノリ)がとれていた。小魚としてはフナにモツゴや小型のハゼ類などもとる。これを江戸時代初期などは塩で煮て軽く干し、やがて醤油が使われるようになり、19世紀になると上等な品にはみりんが使われるようになる。東京湾周辺には汽水域や内湾の小型の水産生物を無駄なく使う食文化が生まれて、今に続いているのだ。この小魚文化の主役的な存在である佃煮屋が急激になくなってきている。佃煮好きとしてはゆゆしき問題だし、汽水域が暮らしの場から、自然保護とか自然観察だけの場になるのもイヤダネーと思う。だから今や貴重な佃煮屋めぐりをしている。台東区上野、下谷から浅草にかけては取り分け佃煮屋の多い地域で、ボクが上京したての頃には無数の佃煮店があったと記憶する。家族が浅草暮らしをしていたので、田原町を中心に念入りに歩き回っているが、佃煮屋は普通の町に溶け込んでいた。それが今や2軒、3軒と数えるほどになっている。今回台東区北上野、『湯葢』で買った佃煮は、あみ、あさり、雑魚佃煮、昆布、おまけのスジエビ(テナガエビ)だ。どれもいい炊き加減で保ちがよい割りにそれだけを食べても、箸が止まらなくなるほど味わい深い。無意味に、この店、22世紀まで残したいと思ったほどだ。

魚のご飯や、ご飯のとり方は口の形から想像できるのではないかと考えている。魚の口には様々な形がある。歯がない魚もいるし、歯がある魚もいる。魚は、吸い込む、つつく、かじり取る、丸呑みにするなどいろんな方法でエサ(ご飯)を食べていて、それぞれに最適な口の形に進化しているのだ。11月26日、まずは眼の前おかれた魚、ホウボウの口を見ていろいろ考えてみたい。

ある寒い朝、ちょっとアニキ(数日前に仕入れた)のモンゴウイカ(カミナリイカ)が解体されて無造作に店頭に置かれていた。八王子総合卸売協同組合、舵丸水産のクマゴロウに、ど・こ・の? と聞こうとしたが、忙しいのでとりあえず確保する。中途半端によけておくと危険なので袋に移し替えて、持ち歩いたので、まるで万引きみたいだと思いながら市場歩きを続ける。結局産地はわからず終いだったが、ものはよしで、これはこれでいいのである。モンゴウイカはちょっと大きいと2㎏くらいはある。このばらばらになったのだって、内臓を抜いて0.7kgもあるので、もとは1㎏以上はあったはず。東京は典型的なスミイカ(コウイカ)圏であって、他にはツツイカ類(体が筒状のイカで貝殻である甲がフィルム状に退化している)のヤリイカ、スルメイカが冬のイカだった。馴染みの薄いイカであるモンゴウイカは、春になると入荷してくるもので量的に少なかった。それが年がら年中入荷しており、東京の前浜といってもいい相模湾でも揚がっている。これなども温暖化のせいだと思っている。ついでに、水産物は新鮮な方がいいなんて、単純なことを恥ずかしげもなく言う人間がいるが、愚かなり! と言ってあげたい。水産物は料理法によって、種によって最適な鮮度のものを買うべきなのだ。塩焼きなど鮮度がいいからうまいとは限らないし、日々の総菜材料など懐具合の方も考えて買うべし、だ。モンゴウイカは鮮度保ちもいいし、揚げても、煮ても、焼いてもうまい。ご飯との相性もいいのである。作る料理によっては危険な飯どろぼうであったりする。こんな出物こそが市場の宝物だといいたい。

昔、釣り雑誌と関わっていたとき、たぶん読者の方から、「スミイカの11cmはありえないでしょう?」というメールをもらったことがある。その方が釣った東京湾のスミイカのサイズは総て30cm近いとして、写真も添付してあった。それもそのはず、触腕をわざわざピンと伸ばして測っていたのだ。触腕は小魚などに狙いをつけて急激に突き出して吸いつき取るためのもの、例えて言えばウミンチュの水中銃のようなもの。このような特殊な腕まで加えるとイカの長さは、やたらに長くなる。ときどき底曳き網などにシシイカという貝殻(甲)のあるイカが入るが、これなど第2腕(目のある方を正面に向け、いちばん前の小さな2本の第1腕の両脇の腕)が信じられないくらいに長い。軟体類学者・頭足類(イカやタコ)の父といってもいい佐々木望(まどか 1883〜1927年)はこの長い腕を歌舞伎連獅子の髪の毛と見立てて「獅子烏賊」と名付けたのだと思っている。これなど胴(刺身にする部分)の4倍の長さの足が生えていることになり、小さいイカなのに全長で測ると35cmくらいになる。見た目の大きさは全長では表せない。

今年は何もかもが遅れている。自然界もそうだが、自分自身も季節に置いて行かれている気がする。立冬過ぎに買うはずが、11月20日にやっとセコガニが買えた。ズワイガニの雌を日本海各地で、コウバコガニ(香箱ガニ)、コッペガニ、オヤガニ、メスガニなどと呼ぶ。今回のものは兵庫県但馬新温泉町浜坂で揚がったものなのでセコガニだ。今夏、噴火湾のオオズワイガニ豊漁で、本場日本海のズワイガニがやってきてもどことなく気持ちが乗らなかったという感じだったが、11月のズワイガニ漁解禁は日本海に冬を告げるといった感があっていい。季節を待つ大切さは年々忘れ去られようとしている。自然破壊をしても周年うまいものを食いたい、というのが今どきの主流だが、たまには待てをしてもいいのではないか。ちなみに決して豊かではない我が家の財政からすると、今年中は雌ガニで我慢して、来年春に値が下がってから松葉カニ(雄ガニ)を買うつもりである。

久しぶりに付着物たっぷりなホタテが荷に混ざっていた。めったにないことなので、欣喜雀躍、わざわざ買うのは生き物好きの性というものだ。昔はアズマニシキがついているのなど当たり前、キヌマトイガイやフジツボ類、環形動物がはいはいしている、などにぎやかなホタテがうんと入荷してきていて、市場通いの楽しみのひとつだったのだ。ときどきこんなものが来て欲しいとは思うが、産地の人の努力からすると失礼かも知れぬ。

今では高級魚として、プロの間では認知されている八角(トクビレ)も1990年前後くらいまでは、だれも知らないといった魚だった。もちろん今でも一般的な知名度は極めて低い。ちなみにプロでも標準和名のトクビレを知っている人は少なく、関東ではもっぱら八角(ハッカク)で売られている。本種は広い意味でのカジカの仲間であると言っても、カジカ自体が超がつくほどマイナーなので、無意味だろう。トクビレ科は北太平洋・太平洋にいる体長50cm前後の魚で、特徴は鱗が硬い板状になり、棘が無数にあり、細長いことだ。背鰭・臀鰭の大きい雄など正面から見ると怪鳥そのもので、見た目は不気味だが、脂が豊かで最近の嗜好に合致している。一度食べたら病みつきになる、そんな味の魚でもある。種としてのトクビレを知ったのは学生時代だが、食用魚として認知したのは1978年の『北の魚歳時記』(達本外喜治 北海道新聞社)によってだ。昔は漁で揚がっても廃棄されていた。著者は大正2年(1913)生まれで生家は魚屋だった。本種は売れない魚のひとつで、子供の頃から食べていたともあるので、細々とは食用になっていたのだと思う。本書の出た1970年代後半に、酒亭で本種が食べられるようになり、軍艦焼きも登場していたとある。1980年年代後半に築地場内で手に入れたときは、まさか都内で食用として売られているとは思わなかったので、飛び上がって喜んだ記憶がある。こう言った点では東京市場築地(現豊洲)は早いのである。流通するトクビレ科は基本的にトクビレだけで、後はイヌゴチとサブロウが流通するが非常に希である。基本的にはトクビレ科唯一の食用魚だ。ただしイヌゴチ、サブロウはとてもおいしい魚だ、ということもお忘れなく。

八王子の市場には広島県産、宮城県産、岩手県産の剥きガキが並ぶ。今年もやっとカキの季節が来たのだと感じる。たぶん東京都豊洲市場に行けばもっとたくさんの産地の剥きガキ、殻ガキが並んでいるに違いない。最近では三倍体のマガキがあり年がら年中生ガキが食べられるし、冷凍物もある。なんならオーストラリアあたりからの輸入ものもある。ただ高度成長期の始まりに生まれたボクは、寒い時季だからこそマガキを食べたい。水産と関わりのないボクだからこそ言えること、摂氏40度近い外気温の日にマガキは食いたくない。三倍体の水産生物は例えばアメリカのドナルドソンニジマスが現在の海水養殖ニジマスのはしりであり、世の中に出回るみんな大好きなサーモンも人工的に作り出されたものだったりする。できるだけ人工的なもの、養殖されたものを取りあげないのがボクの厳密な範囲感なので、是非は問わないが、歓迎もしない。

11月13日から11月19日の1週間で食べた、水産生物のなかでもっとも印象深かった、ウマスギをば。今回は非常に地味ものとあいなる。秋になると日本各地でボラ漁が始まる。お目当てはボラ自体ではなく卵巣である。唐墨を作るためにとるボラだが、このボラサイズ、トドサイズのボラは非常に脂が乗っていておいしいのである。ボクはこの本体の行方が気になって仕方がない。昔、相模湾平塚などでは産卵個体をとる刺網があり、本体は安く買えたが、今はどうなんだろう。高度成長期以来、売れない魚の代表的なボラではあるが、江戸時代など上物でもありながら、庶民にも手が届くものでもあり、老若男女に好まれて引っ張りだこだった。今や、秋から初春にかけての産卵回遊する個体をとる専門の漁はあるが、周年日本周辺を泳いでいる近所のボラをとろうなんて人はいないはずである。昔は千葉県浦安の沖合いで養殖まで行われていたのに、今では東京都内では水路を群れ泳ぐ謎の魚とかしている。東京都中央区日本橋から日本橋川を泳ぐボラを見る大勢の人の何人ぐらいが、この魚を食べたことがあるのか、と思ったことがあるが、まずいないと思う。さて、秋になると卵巣、白子、ときどき「へそ(臼/うすとも)」が市場にやってくる。残念ではあるが本体はまったく姿を見せない。さて、八王子総合卸売センター、福泉にボラの「へそ」がやってきていた。唐墨材料である卵巣にも秋を感じるが、副産物である「へそ」にだって秋、もしくは冬近しを感じる。

毎日、若いムツ科の魚とにらめっこしている。その数、12個体で、分解したりしているので、もったいないがそのまま捨ててしまうこともある。捨てないにしても食べきれないので、保存性を考えて、やや強めに塩をして焼いては冷凍保存する。ムツ科の魚は何種類か? その姿形の違いはどこにあるのか? こんなことを魚類学者は100年以上にわたって議論している。DNAで調べてみると国内には3種類いることはわかっているが、それでは見た目でどのように区別するべきなのかがわからないのだ。当たり前だが、ボクはまるでドンキホーテのごとき、である。塩焼きを解凍しては焼き直して食べる。小ムツの塩焼きは飽きの来ない味なので、ずくめでも一向に苦痛を感じない。むしろ毎日1尾くらいずーっと食べていたいくらいだ。

現在、流通しているマガキには三倍体の人工的に作りだした種苗を養殖したものと、二倍体の天然そのままの個体がある。三倍体は周年出荷でき、カキ養殖業者にとっては素晴らしい存在ではあるが、ボクのように切に季節を感じたい人間にはよくわからない存在でしかない。昔ながらの人間なので、カキフライも生ガキも10月の声をきいてからだ。まあ温暖化で季節が消滅しそうなので、三倍体養殖は致し方ないのかも。ただ、ここ数年の間はまだ年間を通してカキが食べたい人のものだと思う。年を取り、季節の大切さ、重み、そして消え去りつつある季節感を考えると個人的に三倍体は、ボクの後の世代のものと考えたい。さて、今季初の殻ガキは岩手県大船渡赤崎産である。大船渡市の大船渡湾赤崎は殻ガキ(活け)で有名なところで好んで使う料理人も多い。赤崎は岩手県のカキ養殖発祥の地でもある。岩手県は殻ガキの出荷量の多いところで南から広田湾、大船渡湾、山田湾、釜石、大槌と続く。八王子総合卸売協同組合、舵丸水産で岩手県産殻付きガキを見たのは今季初めてだ。例年は10月には入荷をみていることを考えると、やはり遅れているようだ。広島のカンカン(剥き身)が小さいのに驚いたが、それでは岩手はどうだろう? ということもある。宮城県北部から大船渡にかけてのマガキは殻が大きいのが特徴だ。今季の個体もなかりの長さで持ち重りがする。ちなみに殻の大きさと軟体の大きさは正比例するが、この正比例の度合いは小さく、大きな殻にしては軟体が小さいのが一般的である。赤崎のものも殻に比べると軟体はさほど大きくはないが、品質というか味的にはとても安定感がある。迷ったら赤崎というすし屋がいるが、その気持ちわかる気がする。ある意味、赤崎産は岩手県の代表と言ってもいい。

知り合いに趣味は競馬・競輪・競艇という人がいる。ときどき「テッパン」とという言語を使う。レースの予想に関することで、確実にとれる、という意味らしい。「鉄板」は女性誌でもよく使われる言語である。「鉄板コーデ」などという使われ方をするが、隙のない完璧なコーディネートという意味だ。「テッパン」、「鉄板」は確実に、手堅い、外れようがない、という意味だ。それでは魚界の鉄板的存在とはなにか? カイワリではないだろうか? 他の魚はどんなに高い魚でも大小や、季節や漁獲方法によって当たり外れはある。その点、カイワリは絶対に存在しないとされる4割バッターのような、特殊な存在ではないかと思う。手のひらサイズでもいい味をしているし、かなりいじめ抜いた漁獲方法で揚げてもそこそこにおいしいし、季節による変化もさほど大きくない。ちなみに海水魚の勉強は学生時代で、図鑑を丸暗記することから始めたので、個々の魚に関してはなにも知らなかった。初めて本種のことを心に明記したのは、下世話な話だけど、大橋巨泉のイレブンフィッシングでの、「こんなにうまい魚はない」だった。大橋巨泉は伊東に住んでいたこともあって、本種をよく知っていたのだと思う。アジ科の中では珍しく浅場に来るのは稚魚期くらいで、成魚は沖合いの水深100m前後にいる。近所の鮹さん(岩崎薫さん)が通っているのは相模湾をのぞむ伊豆半島東岸の漁港であり、当たり前だけど釣り場は相模湾である。いつもは本命ではなく、あまり人気のない、釣り人をして外道とされる魚を分けてもらうのだけど、カイワリだけは本命ながらいただくことが多い。今回もいろいろ持って来てくれたなかに、カイワリが入っていたので、思わず頬が緩む。うれしいが顔に出ていた気がする。同じカイワリながら、とりわけ相模湾のカイワリは特別うまい気がする。特に蛸さんの持って来てくれるカイワリは釣って半日以下なので、鮮度の問題もあって抜群にうまい。ちなみにカイワリの競り値が国内でいちばん高いのも小田原魚市場をはじめとする相模湾周辺である。今回の個体は全長22cm・重さ200gである。カイワリはこれで大人である。

10月になってもやって来ないマガキの剥き身の入荷の遅さにやはり異常気象のせいかな? なんて思っていた。市場で荷を見ているだけで、様々なことがわかるが、温暖化の足音が急激に大きくなったのもそのひとつだ。市場で見えてくるものは、温暖化が水産生物とか野菜に及ぼす影響だけではなく、人間が受けるダメージも見えてくる。今年は本来9月の後半にくるはずのパックの剥き身が10月の後半に来て、10月になって入荷が始まるはずのカンカンが11月になってやってきた。八王子という非常にローカルな地域とはいえ、今年のマガキは遅すぎる。関東の市場人はカンカンといえば広島、広島と言えばカキの剥き身が思い浮かぶ。考えてみると四国の人間であるボクなどは日常的にカンカンという言語を使うが、関東では、あまり聞かない。漢字にすると缶々かもしれないが、単純に缶ではない。ジュースなどを入れるのは缶で、煎餅や乾物を入れる大きいのがカンカンである。ジュースの缶は投げてもカンと音を立てるだけだけど、大きな缶はかんからかんと大きな音を立てる。その音を表しているのだと考えている。この本来西日本の言語が、関東でマガキの剥き身と同義語となっているのだ。カンカンの蓋を開けると、やけに小粒である。カンカンにも上中下があって、上の部類ではないのかも知れない。ただ小粒にも関わらず左程安くはない。剥き身には、少量を海水入りのパックにしたもの、透明の円盤条のプラスティックケースに入ったもの、そしてカンカン入りがある。個人的にはカンカンに惹かれてしまう。懐かしい感じがするからだ。八王子総合卸売協同組合、舵丸水産に来ていたのは『米田海産(広島県中央区江波の)』のもの。この会社のある江波は広島市の繁華街から遠からぬところにある。広島市のすごいところは大都市なのにマガキの産地でもあるところだ。考えてみると広島県のマガキが大阪市内に送られて、大阪の冬の風物詩、「かき船」が生まれている。広島のカキの歴史はやたらに面白そうである。カンカンからできるだけ大振りのものを選んでいたときには、すでにどのように食べるのか、決めていた。

東京湾(江戸湾)ならではの脚立釣りは江戸時代より続く伝統釣法である。昭和38年7月(1963)、海苔、貝の漁場である十万坪(現浦安市今川・高洲で東京ディズニーランドの東)でのアオギス脚立釣りの光景。脚立は今ではアルミ製だが、この時代までは木製で、大阪では「クラカケ(鞍掛)」というと、魚類学者の田中茂穂は述べている。船宿で釣り人はよい釣り場を確保するためにクジをひく。釣り場が決まれば、港から脚立と釣り人を乗せて沖に向かう。次々に釣り場を巡り、脚立を設置して、釣り人を下ろしていく。昼になると船宿から弁当を取り寄せるなど、長々と海の上での釣りを楽しんでいた。(写真は浦安市郷土博物館 所蔵のものをお借りした)浦安の沖の十万坪といえば、山本周五郎の「青べか物語」にも登場する。東京湾の豊かさを感じる場所(浅瀬)でもあった。一般的なキスであるシロギスと比べると長さで倍以上もある大型魚であり、釣り味を楽しんだ。脚立釣りは食べるための釣りではなく、スポーツフィッシングといったものだったようだ。脚立釣りが好きだった、三代目三遊亭金馬(1894年(明治27年)〜1964年(昭和39)は著書で〈食べちゃ青ギスより白ギスのほうがうまい。職業釣り師は青ギスにめをつけない。だから町の魚屋には青ギスは売ってない。白ギスばかりだ〉『江戸前の釣り』(三代目三遊亭金馬)音に敏感なアオギスは船では釣れないので、海に脚立を立てるようになったという。脚立周りを1本の竿、道糸ハリスで釣り上げるので、アオギス専用の船釣りと比べると長い竿を使い、魚籠も網の部分が非常に長い独特のものだった。シロギスがやや外洋性であるのに対して、アオギスは川の河口域である汽水域や内湾を好むので、東京湾はアオギス釣りのメッカであったことがわかる。江戸時代や幸田露伴の明治には大川(隅田川)で行われていた脚立釣りが、昭和になると江戸川の向こう側、浦安などが主流になってくる。本種がいかに環境の変化に弱いかが、この事実からもわかる。脚立釣りは高度成長期にアオギスの減少とともに行われなくなり、やがてアオギスは東京湾から姿を消す。

今年は魚が少ない上に、それ以上に野菜がダメだ。いい野菜を手に入れるための切り札的な存在、直売所に行っても、これぞという野菜にはお目にかかれない。特にダメなのがねぎを含めた葉物だ。水耕栽培であるはずの芹だっていいものは高い。香りのある葉物が好きなので、八百屋の店先で妥協に妥協をして、それでも納得がいかないので、ぼーっとつっ立っていることが多い。そんな中、八王子総合卸売センター、八百角の社長が「今日の春菊いいですよ」と声をかけてきた。ボク好みの大葉ではなく中葉だが、確かに上物である。葉に厚みがり、葉の表面に微小な粒立ちが見てとれる。

山陰でホソトビウオを「ニュウバイトビ(入梅飛)」などという。ツクシトビウオの角飛と同じ、6月くらいからまとまってとれるもので、産卵を控えて生殖巣を膨らませている。山陰などでは真子をパック詰めで売っていたりする本州日本海側は青森県くらいまでで産卵回遊の2種のトビウオが揚がる。まとまって揚がるので煮干しや焼き干しなども作られている。島根県松江市の名物「あご野焼(焼き竹輪)」などもあるし、各種練り製品の原料にもなる。国内のトビウオの食文化といえば昔はこの、産卵回遊群がもたらすものだとばかり思っていた。この考え方は鹿児島屋久島に行くまで心の隅から離れなかった。屋久島行以前には鹿児島市内で「七島とび(トビウオの塩干)」を発見している。干ものというよりも塩の塊のようで、明らかに冷蔵庫以前の時代からの加工品である。屋久島では種類の多さに圧倒され、当然のことだが、日常的にトビウオが食べられていることにも驚かされた。今年は、長崎県平戸市の漁師、福畑敏光さんに夏から秋の「小トビ漁」のトビウオ類を送って頂き、長崎県でのトビウオの世界の、幅の広さに驚かされた。漁の後半にさしかかったときに送ってもらったところ、すべてが小振りで、ホソアオトビ、バショウトビウオ、シロフチトビウオ、アリアケトビウオの4種類が入っていたのだ。8月25日から10月半ばの漁期にはもっと多彩な種の比較的若いトビウオ類が入る模様である。これを平戸市では練り製品を作り、干ものにし、焼きあごにする。いろいろ試してみたいが、まず今回は煮干しを買ってみた。実はこの煮干しこそ、カツオ節を生む母体であり、国内水産加工業のなかでも重要な鍵となるものだと考えている。ボクは子供の頃から煮干し文化圏にいたので、いい煮干しを見るだけで嬉しくなる。今回の林水産の煮干しなど香りからして素晴らしい。同定してみると、ホソアオトビとシロフチトビウオまではわかったが、あとは同定不能だった。想像になるが、ツクシトビウオとホソトビウオの若い個体、ホソアオトビ、シロフチトビウオ、アリアケトビウオが平戸の煮干し原料だと思うのだが、できれば加工前に確かめたい。

八王子総合卸売センター、総市に富山県氷見産のメジナが来ていた。日本海側を冬に旅をするとわかることだが、寒い時季、定置網に大量に入って、網が揚がらないなどということがある。能登半島などでは寒くなるとスーパーなどでよく特売するという。太平洋側では食用魚でもあるが、釣りの対象魚としての方が有名である。日本海側では寒くなるとやたらに目につく、単なる食用魚でしかない。日本海側ではクロダイ(チヌ)と比べると、釣りの対象魚としてはあまり人気がない。これは主な産地が日本海であるせいだ。もちろん太平洋側でも揚がるし、食用ともなっているが量的に大きな開きがある。島根県松江市、松江魚市場では寒くなって海が荒れると、「クロアイ(クロヤとも)」が競り場を覆い尽くす。仲買の方が「クロヤを買うのは義務だな」などと言っていたが、メジナだらけの市場を見て競り人、仲買のあうんの呼吸のようなものが感じとれる。山陰でメジナは冬の風物詩だ。富山県、能登半島、京都府では「ツカヤ」、「ツカエ」という。初めて能登半島を旅したとき、この呼び名の意味がまったくわからなかった。わかったのは渋沢敬三の『魚名集覧』を手に入れてからだ。ボクが初めて能登半島を旅した1980年代初め、元々の長々とした呼び名は省略されてしまっていたのだ。本来の呼び名は「サケノイオノツカエダイ」、「サケノツカエダイ」だ。漢字にすると「鮭の魚の使い鯛」、「鮭の使い鯛」である。定置網にメジナが入るようになると、サケの水揚げが始まる。また、メジナがたくさん揚がる年はサケが大漁だ、という意味もありそうだ。北陸でメジナは秋を感じるものであり、冬の風物詩でもある。今、富山湾や能登半島でサケが大量にとれているとは、とても思えないが、この地域でもサケが重要な漁業対象であった時代があった証拠だ、とも言えそうである。サケと関連性の高い呼び名と、島根半島以西の体色での呼び名の境となる地域も明確にあるはずで、鳥取県西部ではないかと想像している。

谷崎潤一郎は明治19年(1886年)生まれで、成人して文学者となるまで、明治時代の東京を生きた。生まれは下町、日本橋蛎殻町(在の中央区日本橋人形町)で豊かさと貧しさの入り交じった幼少期を送ったと述べている。ただし、祖父の代の財産、また伯父からの援助もあり食生活から見る限り、真の意味での貧しさとは無縁である。日本橋界隈に登場してきた中華料理店や洋食店、少し贅沢な和の外食もそれなりに楽しんでいる。明治時代の下町の食をある意味思い切り楽しんだ人と言ってもいい。幼少期の日常的な食に関しては、〈神茂のすじや半平(はんぺん)などの方が八百屋物(野菜料理という意味)よりはまだ有難かった……魚類は大体焼いたものよりは煮たものが多く、比目魚(ひらめ)、鰈(かれい)、鰺、鯡(にしん)、鮫(さめ)、生節(なまりぶし)等は皆煮つけで、焼くのは蒸し鰈、魴鮄(ほうぼう)、鰯、飛魚ぐらいであったが、煮魚は私は嫌いであった。〉『幼少時代』(谷崎潤一郎 岩波文庫 初版は文藝春秋社1957)これを徐々に追体験してみている。

スルメイカと比べると昔は遙かに高かったアオリイカが、スルメイカの高騰で安く感じる。近年、ツツイカ4種であるヤリイカ、スルメイカ、ケンサキイカ、アオリイカが並ぶという不思議な光景が見られるが、極端な値段の差がみられない。あえて挙げると近年、ヤリイカがいちばん少なく、値も安定的に高い気がする。さて、アオリイカの水揚げが多くなり、取り分けやすい時季でもあるため、刺身は当然のこと、煮つけにしたり和え物にしたり、揚げてみたりしている。数日ごとに買っているので、一部冷凍保存しているが、揚げ物にするなら冷凍した方が味はともかく、間違いなく揚げやすい。げそは流水解凍して、頭部に切れ目を入れて、足(腕)にもとんとんと切れ目を入れる。それでも油はねが恐いなら軽く湯引きするといい。水分をよくきり、小麦粉をまぶし、硬めの衣をつけて中温で揚げる。終いに煙が出るほどの高温にまで高めて揚げきる。(念のためにここまで油温度は高温にしなくてもいい)イカ類のいいところは冷凍してもあまり劣化しないことだ。ちょっとだけ何か欲しいときにすぐに使える。しかもアオリイカの「げそ天」はイカ類ならではアデノシン一リン酸や各種アミノ酸からくる甘味が豊かである。柔らかくほくほくとして、ちゃんとイカらしい風味もある。このウマスギのげそ天は1尾分ではもの足りなくなるほどだ。これでノンアルコールビールは味気ないけど、そろそろアルコール解禁といきますかてな気持ちになる。

佃煮の発祥を佃島(東京都中央区)と考える人は、最低限研究者には絶対いないと思うが、一般の人は常識としてそう思っているようで恐い。16世紀末、現大阪府大阪市西淀川区佃の漁師と徳川家康との関係とか(これを「なんでも弘法大師的という」)、その特権とかいろんなドラマが作りあげられて、いつの間にか、「佃」は、小型の魚貝類の醤油煮の一般名称に使われ、食品学的な分野名ともなっている。これは水産物のすり身を揚げたものを「薩摩揚げ」というのと同様、由来からして変である。加工食品の標準和名としては失格である。一般的だとしてボクも使っているが、その佃煮の発祥を佃島にもとめる根拠はまったくないと言っていい。ついでにいうと魚貝類を醤油で調味するのが一般的になるのは、江戸時代前期ではない。江戸の街に「下らない醤油(関東の醤油)」が入ってきたのは、天才、荻原重秀が登場した元禄期くらいからだと思っている。ちなみに江戸の街に毎朝来ていたのが納豆売りである。多くの人が1945年以前には毎朝くる納豆売りのことを証言している。この納豆は江戸時代の前期には、現在のように醤油をかけて食べていたのかなども疑わしい。たぶん納豆入りのみそ汁だったのだと思う。ちなみに瀬川清子は戦後になっても醤油は地域によってはハレの日だけのものとしている。横道に逸れるが、江戸城に江戸前の魚を献上していたのが、佃島とか対岸の猟師町の人達であったとして。江戸城に献上するので、特別あつらえで江戸時代前期に貴重だった下り物(関西で作られていた)の醤油を使い小魚を調理していた。だから江戸城勝手方では自然発生的に「佃煮」と呼んでいた可能性はある。でもこんなもので納得していたのでは、佃煮の深い深い歴史的なところが見えてこなくなる。とれた魚を塩水(海水かも)で火を通すということは非常に原始的なことだ。そこに醤油で味つけするという佃煮は日本列島のどこかで、淡水域・汽水域周辺で発祥し、すぐに爆発的に全国に広がる。現在の醤油味の魚貝類の加工品、「佃煮」の原型は霞ヶ浦、土浦市に残っている。ワカサギ、テナガエビなどの「煮干し」である。霞ヶ浦で揚がるエビや小魚類を塩水で煮て軽く干したものだ。また利根川から西の関東平野、渡良瀬遊水地・霞ヶ浦の北でも塩ゆでが行われていたはずだけど、魚貝類の種類がまったく違っていたと思われる。ちなみに関東の川漁師の間でも苦味が強いのでタナゴ類はあまり食べなかったようだ。また群馬県の水郷地帯での聞取では流れのある流域にいるウグイ、アブラハヤ、オイカワなども食べなかったという。関東でよく食べていたのは、河川ではなく湖水と用水路に繁殖する魚やエビたちである。これを選別しないで煮るのが関東風である。「煮干し」で始まった佃煮の原型が関東周辺で醤油が使われるようになるが、関東では平野部特有の魚貝類が使われている。種類は違うが平野部系としては木曽三川流域や岡山県などでも同じである。福岡県筑後川流域でも同様かも知れない。この様々な魚貝類を使った佃煮を東京都、埼玉県、茨城県、栃木県、群馬県で「雑魚煮(「ざっこに」、とも、「ざこに」とも)」、「雑魚佃煮」とも「小ざかな煮」ともいう。これこそがもっとも原始的な「佃煮」のひとつだが、作る店が激減している。1951年の『佃煮便覧』をみると国内には佃煮屋が信じられないくらいにたくさんあり、日本各地に分布していた。流域を考えない河川改修が横行して雑魚が激減している上に、雑魚をとる漁師が激減しているから仕方がないのかも知れない。

宮城県気仙沼市、菅原宏志さんから小ムツ(若い個体で、体長19〜22cm ・140g前後)を送って頂く。気仙沼の小型の小ムツは非常に興味深く、気になる点がいっぱいある。まずは気仙沼小ムツ探求の第一歩である。返す返すも菅原宏志さんと定置網のみなさんに感謝します。重要な部分の計測をして、写真をとったら、博物館ではない我が家は、速やかに食べる。だいたい見るからにうまそうな個体たちである。ムツという魚の特徴は骨があまり硬くなく、しかもスズキ亜目という進化した魚類なので小骨がない。小さくても脂があり、筋肉に水分が少ない。若い固体では、アジ科のマアジに似た市場価値を持っているが、漁獲量は遙かに少なく、ある意味、レア(嫌いな言葉だが)である。ちなみに宮城県ではロクノウオという。これは江戸時代に伊達家代々が陸奥守(陸奥国で陸奥守というのは中世・近代史では非常に重要なのだ)であったことから憚かり、ムツ(六)とは呼ばず、六の魚としたためだという。明らかに作り話だが、作者は非常に優秀である。さて、小ムツだが、小ムツとしては大きめである。ムツは東シナ海あたりで産卵し、稚魚は海流にのって北上、日本各地で稚魚期・若魚期を送る。気仙沼周辺にいる小ムツはじょじょに深場に移動するはずだが、何処に行くのだろう。相模湾あたりまで南下するのだろうか?

八王子総合卸売協同組合、舵丸水産、クマゴロウが銭州で見事夫婦者のタキベラを釣り上げてきた、妻は1㎏ほど、夫は2㎏である。考えてみたら夫婦仲良く一荷で来たのだろうと勝手に合点して、実際にそうだったのかどうか聞き忘れた。鮮度抜群だし、色鮮やかだし、ここ数年手に入れたタキベラの中でも最高峰個体である。これをもとに改訂を進めているが、完全に改訂し終わるのはうーんと先の話になる。ということで改訂途中でウマスギた料理をとりあげていくつもりだ。さて、大型なので頭もでかい。しかも面の皮が厚いとなると、作る料理はアレである。熱帯域では大型ハタ類の乱獲に繋がったくらいにうまい料理で、しかもハタに限らず、どんな魚を使ってもこれ以上の料理はないのかも、という料理である。それを蒸し魚(清蒸)という。国内ではわからないが中国でも台湾でも熱帯の南太平洋でも、中華料理店の海鮮部門のメニューのトップに載っている。こんな料理、一般家庭で作れるはずがないと思っていたのは、1980年くらいまでだ。開高健の釣り本に作り方がでていて、そのまま作ったらいとも簡単にできた。以後、少々、タレの作り方などを変えたが、考え方はそのままである。水洗いして頭部にある咽頭骨(喉にある硬い骨)をまず最初に掘り出し梨子割りにする。ベラ科の頭部には皮膚に埋もれた鱗があるので熱湯をかけて浮き上がらせ、鱗を取る。これを15分ほど強火で蒸す。蒸し上がったらタレ(醤油・魚醬・紹興酒・砂糖・八角を一煮立ちさせたもの)をかけ、香りのある野菜を乗せて熱した油(本当はピーナッツオイルがいいが、高いので普通の太白ごま油)をかけ回す。今回は野菜に辛い唐辛子を加えている。このあたりはお好みで。油をじゃわじゃわとかけた時点で涎が口中にたまる。

もうずいぶん昔の話だが、静岡県焼津市、長兼丸の船上で富士山を眺めながら、元カツオ漁師の長谷川久志さん、長谷川さんの義理のお兄さんとカツオの話をしたことがある。たしか、長谷川久志さんが、お母さんのカツオの角煮の作り方は手が込んでいて、前夜から漬け込みをして煮る、という話だった。そーっと聞いて、以後真似しているが、前夜からなので12時間くらいかなと考えていて、漬け込んだ翌日に煮ていた。作ってみてびっくり、漬け込まないで作るものとは比べものにならないくらいにうまい。

淡水魚からはじめて海水魚にまで勉強の範囲を広げたとき、まず気になったのは魚名である。1970年代の末、東京都千代田区神保町で、彼の渋沢栄一の孫で、民俗学・魚類学の世界では祖父以上に偉大な渋沢敬三の『日本魚名集覧』というのを立ち読みしては、呼び名・標準和名の不思議に魅了される。ボクは王道的な知識よりも脇道の方に惹かれがちである。ちなみに生物の名は3種ある。一、学名(世界共通の名でラテン語表記)二、標準和名(国内で便宜的に決めたもので、特に魚類学も含めた生物学では必ず使わなければならないとするもので当然、日本語)三、地方名(日本各地で使われているもので、その地での魚に対する考え方や価値観が込められている)がある。時々、標準和名について正しい名とかいう人がいるが大間違いである。生物の名に正否はない。図鑑1冊を丸暗記することから始めたとき、真っ先に頭に収納できたのがタキベラである。なにしろ見た目がド派手だし、キャプションを読むと大きな魚らしいとくる。ちなみに数年後、いざ手にすると、ド派手な魚だとわかっていながら現物のファンキーさにビックリしたし、食べたらとてもおいしかったので、その姿と味のギャップにもビックリした。でもどうしても、なぜタキベラなのかはわからなかった。比較的生活環(一生)での生息範囲の狭い魚で、生まれた海域で一生を過ごし、国内では安定的に水温の高い海域にしかいない。2010年になって増えた沖縄の高級魚、アカジンミーバイ(スジアラ)は例えば伊豆諸島海域や紀伊半島にはいなかったが、今や明らかに北上して定着している。対するにもともと伊豆諸島で極めて普通であるタキベラはほとんど生息域が変わらないため、本来沖縄の魚だったスジアラにより北に生息域を広げられてしまいそうである。明治時代、動物学者(明治時代前半にはまだ動物学は分野化されていなかった。魚類学が独立するのは明治時代後期からだ)は日本中の動物の呼び名を集めることから、動物学の第一歩を踏み出す。呼び名がない物質(生物・動物)は存在しないためである。特に魚は相模湾周辺と日本橋魚河岸で呼び名を集め、そこから標準和名を決めた。

八王子総合卸売協同組合、舵丸水産、クマゴロウのところで島根県産アオリイカを買う。春に生まれたアオリイカが秋になると漁獲可能なサイズに成長する。この時季、たくさんとれる。このサイズを好むすし職人もいるくらいで、秋に取れるので秋イカという。全国的にみてもいちばん漁のある時を迎えている。当然、釣り物ではなく定置網ものなのでキロ単価も安い。それにしてもスルメイカ下氷が1ぱい500円のとなりに200gで500円のアオリがあると市場価格が近づいてきたな、と思ってしまう。このままスルメイカの不漁が続けば、値段では、下剋上なんてことになりそうである。昔は4倍以上の開きがあったので、相撲に例えるならアオリイカ=横綱とスルメイカ=十両くらいの開きだったのである。この十両が実力(?)をつけて関脇・小結になってきている。もちろん好みもあるので一概には言えないが、台頭著しいとはいっても刺身では、段違いにスルメよりもうまいと、あくまでも個人的には思っている。刺身用なら、値段が1.5倍まではいかないのなら、胴(外套膜)の大きいアオリを選んだ方が得だというのもある。しかも眼の前にあるのは島根県島根半島、笠浦漁港の定置網で揚がったものだ。最近、なぜかしら島根が恋しいので、ついつい島根産に手が伸びる。

10月後半から11月初めの今日まで、3日を置かずサンマの塩焼きを食べている。刺身よりも塩焼きが無性に矢鱈に食いたいから食うというか、サンマの塩焼きは麻薬のようだ、とまでも感じている。サンマの塩焼きのおいしさはその直球的な味に、ほどよい渋味と、例えばウニの味のような硫黄分(?)からくる玄妙な味わいが加わることだと思う。そのくせ後口がいいのである。やたらにご飯に合うところも、酒断ちの日には持って来いだ。

鹿児島県鹿児島市、田中水産さんにいろいろ送って頂いた中に、ツキヒガイがあった。ツキヒガイはホタテガイと同じイタヤガイ科の二枚貝である。イタヤガイ科の二枚貝は世界中で食べられている。国内ではホタテガイがいちばん多く、次いでアズマニシキの三陸型であるアカザラガイ、純粋なアズマニシキ、イタヤガイと本種である。この5種の中ではイタヤガイと本種がおっつかっつでいちばんうま味が豊かだと思っている。ホタテガイは貝柱が大きいために味のボリュームが大きいのであって、同じサイズを食べるとこの2種よりも落ちる。本種は一時島根県周辺でも盛んにとれていた、と思ったら激減したりと安定感に欠ける。唯一安定的にとれているのが鹿児島県である。鹿児島県の西岸、東シナ海には非常に長い砂浜がある。イタヤガイ科には栄養分豊かでいながら汚染されていない。健全な海岸線がなければ生育出来ない。この健全な海で育ったからこそ、のうまさかも知れぬ。

鹿児島県鹿児島市、田中水産からヤワラボウズイカがやってきた。鹿児島県の東シナ海側、阿久根のタカエビ(ヒゲナガエビ)漁に混ざるものでミミダコ、ミンダコなどと呼ばれている。このボウズイカと呼ばれる変な形のイカには、日本海や東北太平洋側で揚がる標準和名のボウズイカもいる。同じくらいの大きさで同じボウズイカがつくけど属の段階からして別のグループであり、ボウズイカは北にヤワラボウズイカは南にと棲み分けている。このだびょーんと柔らかいイカを料理するのは苦手である。手荒に扱うと墨まみれになるし、分解して墨袋を探しても見つからない。田中水産から送られていても邪険な扱いをし過ぎていたかも知れない。今回は個体数が少なかったので、宇宙人そっくりの面々を前にじっくり料理法を考えてみた。残念ながらまったく思い浮かばない。

1980年代に築地場内に怖々と足を踏み入れたときに、先ず目についたのが巻き貝類だった。奇妙なことに子供の頃から巻き貝が好きで、アサリに混ざってくるツメタガイや、故郷の水田にいるマルタニシやカワニナなどを採取し貝殻を集めていた。築地場内でも真っ先に巻き貝を採取して、少ない情報の中で同定していた。ちょうど森田誠吾が「魚河岸ものがたり」で直木賞をとる以前、築地で買い物は難易度が高かったのに、巻き貝にじっと見入っている一般人は怪しかっただろうと思う。ちなみにその当時、築地場内にあった主な巻き貝はミミガイ科のアワビ類にトコブシ、サザエ科のサザエ、エゾバイ科の「まつぶ(エゾボラ)」、ヒメエゾボラ、エゾバイ、「白ばい(エッチュウバイ)」、ツバイ、「とうだいつぶ(オオカラフトバイやシライトマキバイ)」、バイ科のバイなどである。日本橋魚河岸時代から築地時代にかけて場内に多かったのが貝屋である。船橋や浦安、佃島から日本橋に進出してきた貝を専門に扱う店で、店頭で二枚貝の「青柳(バカガイ)」やアサリ、アカガイを剥き、巻き貝も常に何種類か並べていた。この貝を主として扱う仲卸が豊洲に移ってから減ってしまっている。たぶん大正時代まで日本橋に魚河岸があったときはもっと遙かにたくさんの貝商があったはずだ。この中で基本的に煮るための巻き貝が小型のバイ(バイガイ)、エゾバイ、ツバイ、若い個体の「白ばい」、大きいのにも関わらずもっぱら煮てしまわれる「とうだいつぶ」などである。これにときどき富山湾などからカガバイが「白ばい」としてきていた。築地で最初に教わったのが、もともとはバイこそが煮るためのの巻き貝で、昔はこれが基本でこれがないと困る店が多かったという話だ。バイはべい独楽の起源とも言われ、江戸時代以前から江戸の街だけではなく、中京、関西、九州でも盛んに食べられていた。これが激減したことがある。船の船底塗装に使われる有機スズによるインポセックス化で雌が雄化して生殖機能をなくしたためためだ。完全にエゾバイや「白ばい」に主役の座を譲ったといった状態になっていた。それが復活してきたのは最近ではないか? 日本海側から黒みがかった個体が大量に来るようになったし、伊勢湾や三河湾、熊本などからも入荷してきている。ボクは貝家(貝の収集家)ではないが、少しだけその収集する気持ちがわかる。鱗翅目(蝶や蛾)の収集家がほんのわずかな羽の色や模様の違い、採取地での変化にこだわるように、巻き貝にも産地ごとの微妙な差があるからだ。バイは国内にはバイとウスイロバイの2種しかいない。小豆の粒のような斑紋があったり、キジの羽に似た斑紋のあるバイは市場に大量に入荷してくるが、ウスイロバイは長年探しているが一向に手に入らない。当然地域差はわからない。バイの模様は南に行くほど多彩になり、種類も増えるが、国内でも日本海のものと太平洋側では模様が違う。鱗翅目の昆虫や飛べない甲虫のように地域差があって楽しい。鹿児島県のものなど臺灣にいるタイワンバイそっくりだったりする。今回の伊勢湾産は日本海産と比べると明るい色合いをしている。

カツオの旬がだんだんわからなくなってきている。11月初旬には太平洋側の下りガツオもとれているだろうし、鹿児島県でも揚がっている。そして日本海だ。島根県浜田市などあの巨大な競り場にずらりとカツオが並んでいる。そして今回のものは若狭湾北部敦賀産なのだ。太平洋側のカツオは鹿児島県沖などの居続けのカツオもいるが、基本的に北上(上り)してまた南下(下る)してくる。下りの方が脂はのっていて旬がわかりやすい。個人的には日本海のカツオは回遊経路がわからないためもあって旬がいまだにわからない。ちなみに日本海で揚がるカツオを迷いガツオなんて変な言いかたするのは止めた方がいい。人間は迷うけどカツオは温かい海に沿って北上する。日本海の温暖化から回遊域が広がっただけの話である。さて、福井県は嶺南と嶺北でまるで別の県のようである。嶺南敦賀は若狭湾にめんし、滋賀県の真北であり、京都府の隣だ。嶺北が北陸なのに対して近畿とか畿内といった感じがする。あの敦賀からカツオがくるんだと思うと感慨深い。余談になるが市場流通の魚にはこのような【心の中での旅の時間】が持てるのがいいのである。

松尾芭蕉(青桃)が延宝5年(1677)冬に吟じた【あら何ともなや昨日は過ぎてふくと汁】は江戸で行われた句会のときのもので、『江戸三吟』として出版されている。「三吟」は松尾芭蕉、山口素堂、伊藤信徳である。江戸時代にフグは「ふくと」、「ふくべ」などと呼ばれていた。この句はフグという魚の危険性を表すときによく引用されるが、むしろ杉山杉風など魚河岸にも弟子がいた芭蕉なので、普段からフグを食べつけていたのではないかと思われる。江戸時代は今よりも寒冷だったので江戸湾をはじめ周辺海域では秋から冬にはショウサイフグ、春にはヒガンフグがとれていたはずである。今現在のように相模湾でしばしばトラフグが揚がるような状況ではなかった。トラフグは昭和になっても西の魚で、江戸の魚河岸には並ぶことは希だったと思われる。中でも取り分けショウサイフグは江戸湾にたくさんいた魚なので江戸前の魚そのもので、この「ふくと汁」は決して上等なものではなく、下手なものではなかったか? だから芭蕉は微かにはにかんで句を吟じ、一緒にいた山口素堂などもそのあたりがわかっていた。ちなみにあっさり薄味ではなく、濃厚な塩辛いみそを溶き込んだ、フグ類のみそ汁はやたらにうまいし、体が温まる。「ふくと汁」が最初に出てくるだけで、座に温か味が生まれたのではないか、と思う。また、江戸時代前期、江戸の街で醤油は一般的ではなかった。民俗学者、瀬川清子は昭和になっても地方で醤油は高級だったとしている。とすると調味料は塩かみそだ。直感でしかないがみそと考えた。江戸時代前期から江戸の街で冬に食べられていた「ふくと汁」は、ショウサイフグのみそ汁で間違いないと考えている

東京都台東区には昔、40軒の豆腐屋があったという。それが今ではなんと4軒だけに。江東区の老人は(戦前なので1945年以前でしかも戦時体制深まる前)横丁を曲がると、豆腐屋、納豆屋のどっちかがあったともいう。いずれにしても今や都内の豆腐屋は絶滅の危機に瀕している。ちなみに24区内、特に下町の納豆屋は墨田区毛利にあった四ツ目納豆が最後で、絶滅したのではないかと思っている。さて10月27日に台東区稲荷町に『伊勢源』という豆腐屋を見つけて、木綿豆腐を買って今季初湯豆腐を食べた。考えてみると、ほんの20年くらい前まで下町で木綿豆腐というと嫌がられたものだ。ましてや絹ごし豆腐なんて言うと、一昨日来やがれ、と怒鳴られたことすらある。下町で買うのは「豆腐」であって、木綿豆腐とさえ言わなかった。

自宅軟禁といった1週間だが、多種多様な魚がやってきた。どれもこれも素晴らしい味だったし、超高級魚もあったが、意外にも真夜中にノンアルビールの友とした地味なものが印象に残りすぎたので、これを1週間のトップとしたい。マンボウの腸の干ものである。マンボウは、千葉県外房に通っていたとき、千倉から千田に向かう舗装が一部剥がれているような道路の、道ばたにあった魚屋で初めて買っている。この道路沿いに「マンボウあります」の文字を見ての初マンボウである。腸の干ものはおまけにもらったと記憶している。外房の郷土料理である、肝と身をみそで和えたものと比べると食べやすいというよりも、端的にうまかった。この国道沿いの魚屋がいまや激減している。考えてみるとそのとき、ボクはてっきりマンボウを下手なものというか、珍味のたぐいだと思っていた。それが外房に通う内に身近なもの、普通の食用魚と思えるようになった。一時期、肝の味の虜になったこともある。今回の主役、マンボウの旬は秋から早春にかけてなので、時季のものともいえるだろう。巨大な魚なので流通の場に丸のまま来ることはない。解体しての流通だが、ほんの数年前まで身(筋肉)と肝のセットで入荷してきていた。これが最近では腸ばかりがくる。身と肝よりも保ちがいいのもある。腸は単に炒めても焼いてもうまいが、身と肝は食べ方が限られる。

トラフグはフグ類唯一といってもいい高級魚である。上物ともなると魚の値段とはとても思えない値がつく。それでも10月、11月はさほど高くなく、師走になるとぐんと急カーブを描いて値を上げる。今こそが虎の買い時なので、トラフグを見つけたら買って食べている。江戸時代から庶民の味方であるショウサイ(フグ)もあるけど、トラフグと並んでいると、阪神タイガースのファンでもないのに、ついつい虎磁石に吸い寄せられる。八王子総合卸売協同組合、マル幸、クマゴロウはフグ調なのでみがいて(毒の除去)もらえて便利。余談だが、釣りなどで、自分が釣ったフグ類は自分で下ろしている。地方にいって赤目(東京の呼び名でヒガンフグ)やコモンフグがあると、締めてもらって買って帰って自分で磨いている。オススメはしないがドクサバフグなどのフグの同定が完全にできるなら、筋肉だけを食べている限り危険はない。ちなみに、フグ類の多くが皮に毒を持つ、真っ先に捨てるべきなのは鰭と皮である。あくまでもオススメはしないが、なのだけれど。さて、初物ではなく、しかも野締めのトラフグなので料理は融通無碍、食べたいものを作る。やや小振りのものを天ぷらにしてみた。作り方は、三枚に下ろして身をペーパータオルでくるぐるまきにし一晩寝かせて水分を取る。揚げやすい大きさに切り、並べて振り塩をする。水分が出てくるので、拭き取り、小麦粉をまぶす。衣をつけて高温で揚げる。表面はややさくっと香ばしく、まるで鶏肉のように身が締まり、しかも魚らしいうま味がある。禁酒中なのでこれで飯を食ったら、なんと二はい。醤油4・だし2・みりん1の天つゆは辛口でどぼんとつけれれないけれども、とてもうまい。どぼんとつけたかったらだし4・醤油0.5・みりん0.5くらいがいい。我が家は丼つゆ兼用なので濃い。

八王子総合卸売センター、福泉に青森県産「ごり」が来ていた。間違いなく小川原湖で上がったジュズカケハゼである。今、この汽水域で揚がる小型のハゼは貴重な存在である。産地は青森県小川原湖と秋田県八郎湖であるが、秋田・青森両県でも漁師さんの老齢化が進んでいて、「ごり」の行く末が案じられてならない。今現在、淡水域・汽水域のハゼ科の魚は非常に水揚げ量が少なく、食用としてとっているのは秋田・青森両県、滋賀県の他には岐阜県、高知県がわずかに水揚げしているだけだと思う。さて念のために、青森県小川原湖産ならジュズカケハゼに違いないとは思うが、100パーセントそうかと言われると自信がない。ただ冬から春になると婚姻色がくっきり現れるので、間違いないようにも思える。そっくりさんには婚姻色が出ない。ここで念のために秋田・青森両県で揚がるのは汽水域に多いジュズカケハゼ、滋賀県で揚がるのは琵琶湖特産のイサザである。両種はウキゴリ属で、水底にへばりついて生活するのではなく、浮いて泳ぐ習性がある。岐阜県で漁が行われている「うろり」はヨシノボリ属のカワヨシノボリ、高知県などの「ごり」はチチブ属のヌマチチブと、カワヨシノボリである。ほかの県でもボウズハゼなど様々な漁が行われているが、非常に流通する地域が狭い。

スケトウダラは知らなくても「たら子」は知っています、は当たり前なのである。これぞ親不知子不知そのものだけど、丸のままのスケトウダラを見たことがある人は非常に少ないのが現状だろう。タラは国民的な魚といってもいいくらい重要であるが、そもそもタラにスケトウダラとマダラの2種いることすら多くの人が知らないと思う。スケトウダラは冷凍食品の「タラのフライ」の材料でもあるし、竹輪や蒲鉾など練り製品の原料でもある。「塩ダラ」とか鍋ものの「たらちり」とかに使うのがマダラである。少しは魚を知る人に限って、単にタラというとマダラを思い浮かべる人が多いので「たら子」をマダラの子と思っている人がいるのも事実である。スケトウダラの卵巣は卵粒(一つ一つの卵の大きさ)が小さくしっとりして味があるので、「塩たら子」や「明太子」などで抜群に人気が高い。対するにマダラの卵巣は卵粒が大きくて、少しパサつく上に1つの卵巣が非常に巨大なのでめったに小売店に並ぶことがない。念のために「たら子」はスケトウダラの子なのだ。タラ科の魚であるスケトウダラは普段は深海にいて、冬の産卵期になると浅場にやってくる。これをもともと日本海新潟県などでもたくさんとっていて、関東に送り出してきていた。これが徐々に北海道産がメインになる。また頭部を落とし、青森県産の真子と白子を抱いたドレスも最近あまり見かけないが、今年は来て欲しいものである。関東でもほんの20年くらい前まで、秋も深まると市場に小山をなすほどのスケソウダラ本体が見られた。当然、本来は副産物であった「たら子(すけ子)」なども消費地である東京で、普通に食べられていたはずだと思っていた。ところが関東の資料を読むと、やっと大正時代末(1920年代)くらいに「たら子」が登場してくる。比較的北国との繋がりが深い関東、特に東京でも「たら子」が身近になるのは昭和になってからかも知れない。スケトウダラ本体と「たら子」の逆転現象が起きた時代は不明である。想像でしかないが、スケトウダラのすり身加工が確立した高度成長(1955-73)期くらいからだと考えている。ちなみに高度成長期終盤に開催された大阪万博で国内の伝統的、かつ貴重な文化的財産が大大的に破壊、破却される。ばかやろう! 万博なのだ。

マサバという標準和名からは、明治になり、箕作佳吉などが西洋から取り入れた近代的な動物学をがむしゃらに学び始めたときの、息吹というか、明治の動物学者未満の人達の青春時代を感じる。この時代、北は北海道から南は琉球まで動物学者はあらゆる生物の情報、呼び名を集める。そして標準和名を決めていく。ボクが通っていた学校で「名前がないものは無なのだ」と教わったことがあるが、無から有を生み出す時代だったのだ。「真鯖」は、日本橋にあった魚河岸でのゴマサバと区別するための呼び名で、当時、教授としても若手だったり、学生だった箕作佳吉、石川千代松などは無我夢中でもめをとり、個体の採取をも行ったのだと思う。この時代、サバ属に関しては彼らにはよく理解できなかったのではないか? 例えば内村鑑三も石川千代松もサバ属の魚名を明確に採取していない。明らかにマサバ・ゴマサバの学名まではたどり着くが、タイプ標本のあるオランダは遠く、壁があったのだ。このあたりがボクには無性に面白い。

「トラフグの鍋」というと、どことなくしっくりこない。仕事をしていたときは年に一度は下町のフグ専門店でフグを食べていたが、店の隣の部屋が住居という庶民的な造りの割りにはお高くついた。養殖フグは食べないので、東京でうまいトラを食べるともなると、エイヤー! なんて気合いを入れないと暖簾をくぐれなかった。古く、日本橋魚河岸(東京市場)で「まふぐ」と言えばショウサイフグのことだった。「真」はもっとも普通の、その地でもっとも食べられているという意味でもある。たぶん松尾芭蕉の「ふくと(ふぐと)」もこの江戸時代の「まふぐ」だったわけで、敷居の低い庶民的な味でしかなかった。長年東京に高級魚トラフグは不似合いだったといえる。昔、大阪は南の平凡な居酒屋で、「二人前作りましょか?」と「てっちり」が出て来た。確か1人前1500円くらいだったと思うが、最初から値段がわかっているので、銘々1人前追加して、ついでに雑炊まで食ったのが、ボクの「てっちり」の最高峰かも知れない。ちなみに「てっちり」のよいところは他にいろいろ頼まなくても仕上げまで完備されているところで、結局安く飲めたことになる。さて、そんなトラフグ地図が大いに変わりつつある。漁場が北上傾向なのである。昔は玄海灘とか東シナ海とか山陰だったものが、今や三重県、静岡県、神奈川県を通り越して福島県でもたっぷり揚がっている。トラフグはもう西のものではなくなっている。その上、トラフグの相場は関東の方が安いようなのだ。実際このところ、千葉県銚子から安い天然トラフグがやってきている。これが12月の声をきくと味が断然よくなるのはいいとしても、値段もグンと跳ね上がる。庶民の手の届かないものとなる前にトラを食うのが庶民の知恵である。東京ではフグ調理師にみがいてもらわないと、食うことさえ出来ない。なんの意味があるんだこんな馬鹿げたこと、とは思うが仕方がない。八王子総合卸売協同組合、マル幸のクマゴロウがフグ調理師なのでやってもらうが、フグの取り扱いはより実質的に「フグの同定と毒の区別と除去」だけできればいいと思う。行政も漁業の現状を見るくせをつけなよ、といいたい。

熱帯域のバザールで危険を感じつつ地元のオバチャン、オッチャンたちの弁当を見て歩いた。ついでに同じものが売られていたので買ってみる。いくつか買ってみて、得体の知れないものもあったが、おかずの多くが魚の素揚げだった。これをキャッサバとかタロイモなどと一緒にビニールに包んで売っている。熱帯域でも観光地では醤油が売られてるためか、弁当を買うと醤油ベースのたれがついてくる。キャッサバ、タロイモはご飯と比べると味がなく、魚は水洗いがちゃんとしていないので、ところどころ苦くて、オマケに塩気がないなど欠点だらけだったが、じっくり味わいながら食べると捨てがたい味だった。また、アイゴは活け締めにすれば生で食べても矢鱈にうまいが、ニザダイ科は臭味が出るのが早い。取り分けサンゴ礁の小型種は下ろす前から臭いものもある。国内では、あまりとれない魚なので未利用魚としてはそれほど問題にならないが、手にいれたら、できるだけ食べたいので、片っ端から素揚げにしている。今回のヒレナガハギは観賞魚として人気が高い割りに、沖縄の競り場などでは十把一絡げの魚でしかない。同じくニザダイ科の小型種と一緒にトカザー(クスケー)として競られていることが多い。最近、沖縄の方からヒレナガハギは「トカザー(ニザダイ科の小型種の総称)の中でもっとも味がいい魚です」と教わり、再度食べてみたいと考えていた。ちょうどそんなときに鹿児島県鹿児島市、恵水産さんからヒレナガハギの画像が送られてきたのにはビックリした。あまりにもグッドタイミングなので、さっそく送ってもらう。

慣用句、「猫に鰹節」を小学生のとき教えられて、「いんじゃこ(いりこ)」と思ったことがある。ときどき家に巣くう猫にやる御馳走は「いんじゃこ」だったからだ。徳島県美馬郡貞光町(現つるぎ町)の商店街のボクの家に「いんじゃこ(徳島県西部では最低限いりこで、煮干しと言わないはず)」は常にあったが、カツオ節は見た記憶がない。寒い時季に教室に入ったらストーブがたかれていてとても温かかった。「杉玉鉄砲(細い竹とひごで作る水鉄砲のミニ版で杉の実を飛ばす。寒い時季のもの)」などの話をしていたら、同級生の息に「いんじゃこ」の匂いがした。ボクは典型的な学習障害児童だったので、好きなことしか興味がなく、勉強などはまったくしなかったが、やたらに食べ物のことが好きで興味があった。覚えていることも食べ物のことが多い。要するにボクの町の貞光小学校に通っていた家では、ほぼ「いんじゃこ」だったと思っている。今でもやたらに日常的に「いんじゃこ」を使っているので、ボクの体のかなりの部分が「いんじゃこ」で出来上がっていそうだ。去年暮れ、愛知県豊橋市で節類を大量買いしている。愛知県は「めじか節(マルソウダ)」の種類(節自体の大きさと削り節なので厚み)が多く、混合節にも「めじか節」比率が高い気がする。基本的に削り節は100g単位に分けて冷凍保存する。保存法としてはベストではないがあまり劣化しないと考えている。愛知県で買った「めじか節」と混合節をそろそろ使い切らないと、と思っていたら、今度は大阪市木津の市場で買ってきてもらった、和歌山県産(?)だという「いりこ」が底をついていた。「いりこ」がないと生きていけないので、八王子総合卸売センター、総市商事部で探したら、いちばん在り来たりな愛媛県伊予市の『ヤマキ』のものがあった。産地不明ながら、ボク好みの普通の煮干しで実際に使ってみたら、上々以上にいい感じだった。ちなみに「いりこ(煮干し)」は新鮮なものを、新鮮な内に鮮度管理も完璧な状態で作られたものの方がいい、という人が多いが例外も少なくない。かなり問題がある外見なのに素晴らしいものもあるし、見た目がいいのにダメなものもある。要するに買ってみないとわからない。例えば、千葉県産を悪く言う人に会ったことがあるが、なんて愚かなと思ったものだ。大きくて黒いけれど、だしの取り方によっては非常にうまいではないか。また、「いりこ(煮干し)」は大産地で大量生産するものももちろんいいが、むしろ狭い地域地域で地元で揚がったもの、自分の住まう地域の近くで作られているものを使うべきだと思っている。その地元産が切れたときに大産地で補えばいい。またこの地元の製造業者が消滅しているケースも多いだろう。今、国内の水産業において最大の問題は、地域地域で定置網などで揚がった魚を無駄なく使うシステムが崩壊しつつあることだ。干もの・乾物類だけではなく練り製品、缶詰など様々な水産加工業が漁港周辺になければならない。

17世紀、江戸の町で松尾芭蕉が食べた「河豚汁(ふくとしる)」はみそ仕立てか塩仕立てなのか? 種はなんだろう? とかいろいろあるが、そんなこととは関係なく、ボクはやたらにフグのみそ汁が好きだ。潮仕立て(塩味)の汁よりもみそがいいと思っている。ただし年齢ごとに替わっているので、どっちでもいいのかも知れない。今、愛知県の赤だし(みそ)にどっぷりはまっているので、今季初トラはトラフグの赤だしみそ汁にする。今季初トラフグは、八王子総合卸売協同組合、マル幸で見つけた銚子産である。のじ(野締めのことで、漁の間に死んだ個体)なのでお買い得である。最近、魚全体の値が上がってきているので安く感じるほどだ。

さすがに初めて食べるわけではない。1980年前後、都内にやたらに世界各国の料理店が出来たとき、メキシコ料理店でいきなり出て来たのがタコスだった。考えてみるとタコスは記憶に残っているが、メキシコ料理とはなんぞやと聞かれると出てこない。その頃、アボカドを都内スーパーで比較的よく見かけるようになり、なんとなくメキシコ・アボカド(トではなくド)をセットで記憶している。あまり食べ歩きをしないボクには遠い存在の食べ物で、食べたことはあるが、もちろん作ったことはない。ボクは人が作っているのをみると、真似したくなるたちだ。遠い先島諸島で夕べに一人淋しそうにタコスを作っているのを見て、タコスか! と思ったら、タコスに関しては何も知らないことに気づいて、無性に作りたくなる。タコスはトルティーヤという、印度料理のチャパティーのようなもので、餃子の皮の二倍くらいの半径のものでもある円形の物体で、さまざまなものを包んで作る。あとはタコスのソースだ。要するにトルティーヤとソースがあれば作れる。いろいろ調べて駅前までタコスセットを買いに出掛ける。まず最初のつまずきは、トルティーヤはトウモロコシのものと、小麦粉のものがあることだった。迷いに迷ってトウモロコシのものにして、迷っている間に目についたそのとなりのモンブラン大福まで買ってしまった。責任者出てこーい。もっとわからなかったのは、ソースだ。店員さんに不得要領に聞いたら、「鮹ソースですね」と言われて、「タコソース」って言うんだと知ったものの、何種類もある。いちばん普通の、を買う。

鹿児島県鹿児島市、タカスイからキアマダイ1.1kgがやってきた。アマダイ科で1㎏上はおしなべておいしい。過去に外れなしである。余談になるが築地場内が無法地帯のとき、アマダイ科の荷の前で、「白赤黄でなんとかかんとか……」といいながら、「黄はまずい」と家族に大声で話している大バカオヤジがいた。仲卸の店員が嫌な顔をしていたのは真ん中に黄があったためだ。こんなバカに限って㎏上の赤の値段を聞いてくるものの、買いもしない。1㎏1万円と聞き、素人丸出しに驚いたのかも知れない。ちなみに大型の赤と同じく大型の黄は、確かに少し安いものの、そのとき㎏あたり8千円だった。しかもアマダイ類の山の中に黄は1尾だけ。黄が混ざっているだけでも珍しいことから、意外に黄を食べたことのある人はほとんどいないはずなのだ。ちなみに黄を買ったのはボクで、土曜日だったので、思い切り値引きをしていただく。このような典型的バカは分かりやすくて罪がないので、仲卸も追い立てたりはしない。けど世の中、自分が食べてもいないのに、評価を下すバカが多くて困る。どんな食い物も食ってから評価せよ。

モンガラカワハギ科であまり大きくならない種類を沖縄では総称してフクルビなどという。今回の主役、メガネハギは本来は熱帯・亜熱帯の魚で、沖縄県を代表的するフクルビである。フクルビはどの種も同じようなところにいるのだろう。沖縄の漁港の競り場に、ツマジロモンガラなどなどとともに小山をなして並んでいる。昔から食用としている地域は沖縄県、鹿児島県の奄美、小笠原くらいだ。本種は東京都島嶼部で見る限り、本来の生息域、小笠原から伊豆諸島に北上してきている。これに困っている人達がいる。釣り師たちである。狙いはシマアジとかウメイロ、アオダイなのに真っ先に落とし込んだ餌にたかるのは、このメガネハギや同じくモンガラカワハギ科のナメモンガラなのだ。釣り師にとってもやっかいだが、普段モンガラカワハギ類など見たことのない料理人は、この硬い皮でぬめぬめしている魚に、もっと困っている。我がサイトでは、このモンガラカワハギ類(亜目)を「皮剥ぎ魚」としてまとめている。鱗を引くのではなく皮を剥くからだ。たとえば同じモンガラカワハギ類(亜目)カワハギ科のカワハギ、ウマズラハギも「皮剥ぎ魚」である。ただ、カワハギ科の魚の皮は剥きやすいが、モンガラカワハギ科の皮を剥くのはたいへんである。力がいる。4、5尾も剥くと頭部に血が上って顔が赤くなってくるほどである。昔、沖縄本島、泡瀬で巨大なゴマモンガラを一気にべりっと剥いている筋肉隆々の若い衆に出会っているが、要するに力がないと大型のモンガラカワハギ類はおろかフクルビすら剥けない。剥いたらそこにあるのはくせのない赤みがかった白身だ。ただ、見た目は悪くないが、身(筋肉)に味がない。おいしく食べるためには工夫がいる。