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江戸時代の飲食店の出現は貨幣の歴史でわかる。特に高級な食べ物であったウナギが一般人にとって馴染み深いものとなるには貨幣の創銭・改鋳があってこそなのだ。先日から寛永通宝を探して骨董市を歩いた。寛永通宝は江戸入り後、特に徳川家光時代、渡来銭(当時銭は中国から輸入していた。12世紀の最初の輸入銭である宋銭と平家の関係は重要。明銭は江戸時代初期の小額通貨だった)からの脱却を目指して作られる。寛永通宝は後に幕府だけではなく各藩で鋳造されてより経済が発展する。ただし100文の買い物をするためにはこの重さ4gの1文銭を100枚(400g)持ち歩かなくてはならない。銭緡(ぜにさし)といって100文の銭を1まとめにする仕事があり、賃金が4文(銭緡をした人の取り分はこの何割か)だったので、実は1緡96文だった。割れ銭などを選別しながら数えて100文を緡(さす)のは以外に大変だったかがわかる。
明治三十三年(1900)十月十五、正岡子規は死の2年前であり、寝返りはおろか仰臥するか体を左に向けておくのが精一杯になる。そんな状態にあっても日光が窓に差し込んでくると、〈午時(正午)は近づきたり〉と飯を待つ気持ちが募るのが子規らしいところだ。ほどなく母、八重が長方形の膳に飯、一汁一菜をのせて来る。〈あたたかきやはらかき飯、堅魚の刺肉(さしみ)、薩摩芋の味噌汁の三種なり。皆好物なるが上に配合殊に善ければうまき事おびただし。飯二碗半、汁二椀、刺肉食ひ尽くす〉地獄のような苦しみを感じながら綴られる、正岡子規の文章の簡明さに恐れ入るしかない。さて、薩摩芋の味噌汁は学生時代に正岡子規の文章で知っていたことを、フロッピーを変換して判明した。記憶力が悪いのでいつもお初だと思ってしまう。ちなみに堅魚(カツオ)の刺肉と薩摩芋の味噌汁はとても合う。確かにこの組み合わせで食う飯はうまい。カツオは1900年にはまだ魚介類を氷で冷やしていなかったことからして、千葉県銚子産で舟運を使って一晩で日本橋の魚河岸に持ち込んだものだろう。このときすでに利根運河は完成しており、江戸時代以来の大動脈は関宿町まで北上しなくてよくなっている。ちなみに当時、新暦の10月は比較的涼しかった。群馬県や東京都多摩地区で初霜の降りる時季だ。相模湾からでも千葉県からでも、カツオを生の状態で運べる期間は春と秋に限られていたのである。秋のカツオを正岡子規が食べられるのは明治34年を残すのみ。『飯待つ間』(岩波文庫)
谷崎潤一郎(1886-1965)の短編、「東京をおもう」(1934)に、「(東京から)遠く離れているときには、馬鹿貝の附け焼が恋しくなったり柱の山葵醤油が無上にたべてみたくなっったりする」というのが出てくる。蛎殻町(現人形町)に生まれ、明治時代に幼少時代を送る。父親は生粋のとまではいかないが江戸っ子で、江戸前の魚を食卓に上げていたようだ。当然、「馬鹿貝の附け焼」も柱(バカガイの貝柱)も、江戸時代からの家庭の味である。東京の下町で食べられていたという「馬鹿貝の附け焼」とはいかなるものだろう? 作ってみれば谷崎潤一郎の、東京の味への思いがわかるかも知れない。【話の寄り道。東京でバカガイのことを「青柳(あおやぎ)」と呼ぶようになったのは、そんなに古い話ではないのかも知れないと考えている。もしくは呼び名として主流ではなかった。築地場内(現豊洲)においても貝屋では「バカゲェ」という言葉が生きていて、青柳は小物屋が使う言葉であった可能性がある】作り方といっても複雑なものではない。たて(剥き身)を買って来る。もちろん活け(殻付き)があればいいに越したことはない。薄い塩水のなかで砂などをていねいに落とす。水分をよく切っておく。これを強火で焼き、酒・醤油のたれを塗りながら仕上げる。
昔、千葉県勝浦市へスルメイカ乗り合いに乗ったとき、荒天でなんと客はボク一人だった。今ではケータイがあるからドタキャンできるけど、海が荒れていると宿泊して翌日に出るということがあった。泊まっていろんな魚話を聞いたとき、ボクがクロダイ釣りで勝浦に通っていることを聞いて、「漁師はクロダイは食べない」と言われたことがある。千葉県保田で「ちんちん(クロダイの当歳魚)」を釣っていた人も「親は食べない」と話していたはず。当然、千葉県の広い地域で真子(卵巣)・白子(精巣)も食べないのではないかと考えている。
江戸時代以前から貝の世界には見立てるということがある。数寄者と言われる人達のネットワークの中から見立てた名前が生まれてくる。ハルカゼガイ(春風貝)などは台湾以南にしかいないもので、江戸時代に珍奇なものとして輸入された。これを大坂(大阪)四天王寺の西、有栖山清水寺そばにあった、浮瀬という貝の大杯で酒を飲ませることで有名な料亭で使われることで、生まれた呼び名である。本来の大杯は大型のアワビだが、ハルカゼガイなどの大型の巻き貝なども使われた。ラグビーボールのような貝で縞模様がある。なぜこの貝から春風を連想したのか、不思議である。サクラガイなども色合い、貝殻の形から桜の花びらに見立てたものだ。これなどは砂浜で拾ったことのある方なら、まさにそうだと思えるだろう。ウチムラサキは非常に無骨であるが、江戸時代の『目八譜』では内側の色が紫色で美しいので、「内紫」と名づけられた。また丹後宮津では貝殻の内側に貝柱や外套膜、軟体がついた痕を、天橋立と阿蘇海(与謝内海)の景色に見立てて「橋立貝」という。〈殻の内側の筋肉のついていたあとを見ると、外套膜のはしにあたるところは長くつき出ているので、与謝内海(よさうちうみ/天橋立の内側の内湖で、阿蘇海ともいう)では、この部分を天の橋立の風景に見たてて“橋立貝”と呼んでいる〉『原色・自然の手帳 日本の貝』(奥谷喬司、竹村嘉夫 講談社)ただ、この貝殻の裏側から天橋立の景色を思い浮かべられるのは地元の方だけかも知れない。画像から天橋立でもいいし、まったく違うものでもいいので見立ててみて欲しい。もちろん逆さまに見てもいい。
谷崎潤一郎は明治19年(1886年)生まれで、成人して文学者となるまで、明治時代の東京を生きた。生まれは下町、日本橋蛎殻町(在の中央区日本橋人形町)で豊かさと貧しさの入り交じった幼少期を送ったと述べている。ただし、祖父の代の財産、また伯父からの援助もあり食生活から見る限り、真の意味での貧しさとは無縁である。日本橋界隈に登場してきた中華料理店や洋食店、少し贅沢な和の外食もそれなりに楽しんでいる。明治時代の下町の食をある意味思い切り楽しんだ人と言ってもいい。幼少期の日常的な食に関しては、〈神茂のすじや半平(はんぺん)などの方が八百屋物(野菜料理という意味)よりはまだ有難かった……魚類は大体焼いたものよりは煮たものが多く、比目魚(ひらめ)、鰈(かれい)、鰺、鯡(にしん)、鮫(さめ)、生節(なまりぶし)等は皆煮つけで、焼くのは蒸し鰈、魴鮄(ほうぼう)、鰯、飛魚ぐらいであったが、煮魚は私は嫌いであった。〉『幼少時代』(谷崎潤一郎 岩波文庫 初版は文藝春秋社1957)これを徐々に追体験してみている。
佃煮の発祥を佃島(東京都中央区)と考える人は、最低限研究者には絶対いないと思うが、一般の人は常識としてそう思っているようで恐い。16世紀末、現大阪府大阪市西淀川区佃の漁師と徳川家康との関係とか(これを「なんでも弘法大師的という」)、その特権とかいろんなドラマが作りあげられて、いつの間にか、「佃」は、小型の魚貝類の醤油煮の一般名称に使われ、食品学的な分野名ともなっている。これは水産物のすり身を揚げたものを「薩摩揚げ」というのと同様、由来からして変である。加工食品の標準和名としては失格である。一般的だとしてボクも使っているが、その佃煮の発祥を佃島にもとめる根拠はまったくないと言っていい。ついでにいうと魚貝類を醤油で調味するのが一般的になるのは、江戸時代前期ではない。江戸の街に「下らない醤油(関東の醤油)」が入ってきたのは、天才、荻原重秀が登場した元禄期くらいからだと思っている。ちなみに江戸の街に毎朝来ていたのが納豆売りである。多くの人が1945年以前には毎朝くる納豆売りのことを証言している。この納豆は江戸時代の前期には、現在のように醤油をかけて食べていたのかなども疑わしい。たぶん納豆入りのみそ汁だったのだと思う。ちなみに瀬川清子は戦後になっても醤油は地域によってはハレの日だけのものとしている。横道に逸れるが、江戸城に江戸前の魚を献上していたのが、佃島とか対岸の猟師町の人達であったとして。江戸城に献上するので、特別あつらえで江戸時代前期に貴重だった下り物(関西で作られていた)の醤油を使い小魚を調理していた。だから江戸城勝手方では自然発生的に「佃煮」と呼んでいた可能性はある。でもこんなもので納得していたのでは、佃煮の深い深い歴史的なところが見えてこなくなる。とれた魚を塩水(海水かも)で火を通すということは非常に原始的なことだ。そこに醤油で味つけするという佃煮は日本列島のどこかで、淡水域・汽水域周辺で発祥し、すぐに爆発的に全国に広がる。現在の醤油味の魚貝類の加工品、「佃煮」の原型は霞ヶ浦、土浦市に残っている。ワカサギ、テナガエビなどの「煮干し」である。霞ヶ浦で揚がるエビや小魚類を塩水で煮て軽く干したものだ。また利根川から西の関東平野、渡良瀬遊水地・霞ヶ浦の北でも塩ゆでが行われていたはずだけど、魚貝類の種類がまったく違っていたと思われる。ちなみに関東の川漁師の間でも苦味が強いのでタナゴ類はあまり食べなかったようだ。また群馬県の水郷地帯での聞取では流れのある流域にいるウグイ、アブラハヤ、オイカワなども食べなかったという。関東でよく食べていたのは、河川ではなく湖水と用水路に繁殖する魚やエビたちである。これを選別しないで煮るのが関東風である。「煮干し」で始まった佃煮の原型が関東周辺で醤油が使われるようになるが、関東では平野部特有の魚貝類が使われている。種類は違うが平野部系としては木曽三川流域や岡山県などでも同じである。福岡県筑後川流域でも同様かも知れない。この様々な魚貝類を使った佃煮を東京都、埼玉県、茨城県、栃木県、群馬県で「雑魚煮(「ざっこに」、とも、「ざこに」とも)」、「雑魚佃煮」とも「小ざかな煮」ともいう。これこそがもっとも原始的な「佃煮」のひとつだが、作る店が激減している。1951年の『佃煮便覧』をみると国内には佃煮屋が信じられないくらいにたくさんあり、日本各地に分布していた。流域を考えない河川改修が横行して雑魚が激減している上に、雑魚をとる漁師が激減しているから仕方がないのかも知れない。
徳川家康が慶長20年、大坂夏の陣で豊臣氏を滅ぼす。その元和2年1月21日、鷹狩りに行ったときに、京都の貿易商・呉服商の三代目茶屋四郎次郎の話を聞いて食べたものが「鯛の天ぷら」だとされている。茶屋四郎次郎の話は近頃、鯛の天ぷら(興津鯛(アカアマダイとも))を榧(かや/イチイ科の木本植物で実は食用になり、食用油もとれる)の油で揚げて、韮(ニラ)をすりかけてかけて食べる」というものだ。同翌元和2年4月17日に数え年75歳で死去している。これが広がり「徳川家康が鷹狩りのとき天ぷらにあたって死んだ」という伝説が巷間に流布する。もちろん天ぷらと徳川家康の死は無関係だと思うものの、この天ぷらとはなんだろう?天ぷらの種は興津鯛(アカアマダイ)とも鯛(マダイ)ともされている。
瀬川清子は女性に関する民俗を調べた学者として有名だが、食に関する民俗学の基礎を作った人とも言えるのではないかと考えている。宮本常一や柳田國男にはない実際的な食文化の探求が見られるのだ。著書が少ないのが残念ではあるが、個人的な考え方かも知れないが、国内の民俗学の巨人のひとりだと思っている。いちばん有名な『食文化の歴史』(瀬川清子 講談社学術文庫 単行本は1968)に、1935年、千葉県久留里(現君津市)に近い山村で醤油は貴重品で、普段は「味噌一式で暮らている」、醤油は正月だけの贅沢なものだと報告している。当時、東京都内で醤油は日常的なものだが、千葉県の山間では貴重品だ、という地域による時代差があるのだ。それでは魚などはどのように煮ていたのか? 例えば佐賀県鹿島市ではみそを水でとき濾した「すめ汁」で煮る「ふなんこぐい」が今に残る。ただこの鹿島市の「すめ汁」も作るのに手間がかかるので、特殊なものに思えてならない。この久留里周辺での昔の煮魚はどんなものなのだろう?ワラサの切り身が残っていたので、みそと水だけで煮てみることにした。水にみそを濾さないでそのまま入れる。瀬川清子はこれを「オトシ味噌」としている。後は煮るだけである。今回のみそは京都府京丹後市『小野甚』のもので塩分濃度は普通で、ほんの少し酸味があるもの。8分ほど煮て、熱いまま食べてみたら。うまみは味噌と魚のアミノ酸だけなのに、汁はまるでだしを使ったように味わい豊かで、酒もみりんも加えていないのに甘みがある。ワラサの切り身は硬く締まらず柔らかい。
節分とは雑節のひとつで、立春、立夏、立秋、立冬の前日のことだ。特に立春の前日は、立春を正月とする考え方をしていたときには大晦日にあたる。季節の変わり目に現れる鬼、怨霊などを払う儀式として宮中で行われたのに端を発する。今現在もっとも多くの地で行われているのが柊(ヒイラギ)の枝に鰯の頭を刺し、豆幹(大豆をとったあとの茎と豆のさや)などを合わせて門などに飾り、豆をまいて鬼を払うというもの。今や立春2月4日の前の節分に先立って煎り大豆、鬼の面がスーパーなどに並ぶ。
『島根のすさみ』(天保11年 1840)に、川路聖謨(旗本。御目見以下の御家人から大名格の勘定奉行にまでなった)が佐渡奉行につく旅の途中、渋川(群馬県)で〈うなぎのみそ漬也。珍敷き事〉とある。このみそ漬けとはどのようなものだろう。ウナギはみそ漬けにしてうまいのだろうか?いちばん簡単な方法で作ってみた。みそ・みりん(天保期なのであっただろうし、酒よりも古くから甘味に使われていた)で合わせみそを作る。みそだけだったかもしれないが、ウナギにはみりんがよく合うので、甘味を加えてみた。これに適当に切ったウナギの開いたものを漬け込む。丸のままであった可能性もあるが、天保期であること、江戸から遠くない渋川であることから開きを使った。比較的強火で焼き上げると、みその香ばしさ、ウナギの風味が相まって予想外にウマシだった。次回は丸で試してみよう。
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