「歴史・文化」のコラム一覧 | 市場魚貝類図鑑

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歴史・文化

納豆の上にアジのたたきののっかっている肴

関連ページ・お昼ご飯は納豆なめろうぐちゃぐちゃ・納豆の上にアジのたたきののっかっている肴(▼本ページ)かなり前のことだけど、納豆と「マアジのなめろう(みそたたき)」を何気なくいっしょくたにして、ぐちゃぐちゃにしたら滅法うまかったということを書いた。さて、疲れたとき、テレビをザッピングして、脳みそを空にしているが、ボクと無関係のスポーツばかりやっていて、ザッピングしてもスポーツだし、ザッピングしてもスポーツなので、必要なとき以外はテレビのコンセントを外している。普段は枕元に100冊以上、トイレにも数十冊置の本を置いて、とっかえひっかえ読んでいる。「納豆なめろうぐちゃぐちゃ」を作ってほどなく、山口瞳のエッセイ、『男性自身 暗がりの煙草(1967-1968))』中の「考える人」を読んでいたら、以下の文章に行き当たった。〈あるとき、(居酒屋で)私は、納豆のうえにアジのタタキののっかている肴で飲んでいると、……〉以下、内容はどんどん料理から逸れていく。昔、築地場内の老人に「オリンピック(1964年/昭和39年)の後に、マアジの値段がぐんと値上がりした」、という話を聞いている。なぜか? それまで生で食べなかっマアジを生の、「たたき」で食べるようになったためだ。「たたき」は神奈川県小田原の郷土料理で、細かく切ったアジの身とねぎなどを和えて、包丁でとんとんとたたいたもの。小田原の人が都内に伝えて、一気に広がったのだと言う人もいる。大岡昇平『少年(1975)』にも戦前のエピソードに出てくるので、東京都内では「小田原に行ったらアジのたたき」だったのかも知れぬ。あくまでも関東周辺の都市部での話だが、山口瞳の文章の「アジのタタキ」は重要な文章記録でもある。
歴史・文化

ウナギの旅 貨幣について

江戸時代の飲食店の出現は貨幣の歴史でわかる。特に高級な食べ物であったウナギが一般人にとって馴染み深いものとなるには貨幣の創銭・改鋳があってこそなのだ。先日から寛永通宝を探して骨董市を歩いた。寛永通宝は江戸入り後、特に徳川家光時代、渡来銭(当時銭は中国から輸入していた。12世紀の最初の輸入銭である宋銭と平家の関係は重要。明銭は江戸時代初期の小額通貨だった)からの脱却を目指して作られる。寛永通宝は後に幕府だけではなく各藩で鋳造されてより経済が発展する。ただし100文の買い物をするためにはこの重さ4gの1文銭を100枚(400g)持ち歩かなくてはならない。銭緡(ぜにさし)といって100文の銭を1まとめにする仕事があり、賃金が4文(銭緡をした人の取り分はこの何割か)だったので、実は1緡96文だった。割れ銭などを選別しながら数えて100文を緡(さす)のは以外に大変だったかがわかる。
歴史・文化

正岡子規の「堅魚の刺身、薩摩芋の味噌汁」

明治三十三年(1900)十月十五、正岡子規は死の2年前であり、寝返りはおろか仰臥するか体を左に向けておくのが精一杯になる。そんな状態にあっても日光が窓に差し込んでくると、〈午時(正午)は近づきたり〉と飯を待つ気持ちが募るのが子規らしいところだ。ほどなく母、八重が長方形の膳に飯、一汁一菜をのせて来る。〈あたたかきやはらかき飯、堅魚の刺肉(さしみ)、薩摩芋の味噌汁の三種なり。皆好物なるが上に配合殊に善ければうまき事おびただし。飯二碗半、汁二椀、刺肉食ひ尽くす〉地獄のような苦しみを感じながら綴られる、正岡子規の文章の簡明さに恐れ入るしかない。さて、薩摩芋の味噌汁は学生時代に正岡子規の文章で知っていたことを、フロッピーを変換して判明した。記憶力が悪いのでいつもお初だと思ってしまう。ちなみに堅魚(カツオ)の刺肉と薩摩芋の味噌汁はとても合う。確かにこの組み合わせで食う飯はうまい。カツオは1900年にはまだ魚介類を氷で冷やしていなかったことからして、千葉県銚子産で舟運を使って一晩で日本橋の魚河岸に持ち込んだものだろう。このときすでに利根運河は完成しており、江戸時代以来の大動脈は関宿町まで北上しなくてよくなっている。ちなみに当時、新暦の10月は比較的涼しかった。群馬県や東京都多摩地区で初霜の降りる時季だ。相模湾からでも千葉県からでも、カツオを生の状態で運べる期間は春と秋に限られていたのである。秋のカツオを正岡子規が食べられるのは明治34年を残すのみ。『飯待つ間』(岩波文庫)
歴史・文化

正岡子規、水戸紀行の「鮫の煮たると」

明治22年(1889)4月はじめに正岡子規(正岡常規・昇)は水戸に向けて歩行にて旅に出る。江戸川を渡って松戸駅(鉄道の駅ではなく宿と同じ)にいたり、そのまま足を伸ばして小金駅をこえる。12時近くになり草の屋で昼食をとる。〈我等を迎へしは身のたけ五尺五、六寸、体重は十七貫をはづれまじと覚ゆる大女なり。「菜は焼豆腐とひじきと鮫の煮たると也、いづれにやせんと問う。……」、さらば鮫にせんと……。一きれ食へば藁をくふが心地に吐き出したるに……〉場所は現、常磐線北小金駅あたり。サメの食べ方は東京都以北で煮つけ。三重県以南太平洋・瀬戸内海・九州で湯引き(ゆでる)だ。サメの種類も北はツノザメ科のアブラツノザメ、ネズミザメ科のネズミザメなど。南は主にドチザメ科のホシザメ・シロザメ・ドチザメ、カスザメ科のカスザメ・コロザメ、オオセ科のオオセ、エイになるがサカタザメ科のサカタザメ・コモンサカタザメなど多彩である。(日本海側や中国地方山間部のサメの食文化にはここでは触れない。)今現在も南北でサメの食文化が異なっている。常磐線開通前の水戸街道小金駅あたりで正岡子規が食べたサメは沖合いにいるネズミザメではなく、より岸近くにいるアブラツノザメと考えるべきだと思っている。
あじのたたき
歴史・文化

文学の中の「あじのたたき」

1970年前後、マアジの価値を上げたとされているのが、「あじのたたき」である。神奈川県小田原市周辺の料理で、「あじのたたきなます」ともいう。マアジを三枚に下ろし腹骨・血合い骨を取り皮を聞く。これを細かく切ったものである。「みそたたき」、「なめろう」との違いは、サイコロ状の形が残った状態であること、味つけしていないところだ。しょうが、ねぎやみょうがなどの香辛野菜を使うなど徐々に変化しているが、もともとは漁師が船の上で作っていたものだ。一説に釣りのとき、コマセ(寄せエサ)がなくなり、釣れたアジ(マアジ)を細かく叩いてコマセに使ったとき、つまんでみたら美味であったので、作るようになったとも。小田原と東京との繋がりは深く、この「あじのたたき」が東京でも作られるようになり、あっと言う間に都内全域に広がる。■写真はもっとも基本的な「あじのたたき」。
歴史・文化

谷崎潤一郎の馬鹿貝の附け焼

谷崎潤一郎(1886-1965)の短編、「東京をおもう」(1934)に、「(東京から)遠く離れているときには、馬鹿貝の附け焼が恋しくなったり柱の山葵醤油が無上にたべてみたくなっったりする」というのが出てくる。蛎殻町(現人形町)に生まれ、明治時代に幼少時代を送る。父親は生粋のとまではいかないが江戸っ子で、江戸前の魚を食卓に上げていたようだ。当然、「馬鹿貝の附け焼」も柱(バカガイの貝柱)も、江戸時代からの家庭の味である。東京の下町で食べられていたという「馬鹿貝の附け焼」とはいかなるものだろう? 作ってみれば谷崎潤一郎の、東京の味への思いがわかるかも知れない。【話の寄り道。東京でバカガイのことを「青柳(あおやぎ)」と呼ぶようになったのは、そんなに古い話ではないのかも知れないと考えている。もしくは呼び名として主流ではなかった。築地場内(現豊洲)においても貝屋では「バカゲェ」という言葉が生きていて、青柳は小物屋が使う言葉であった可能性がある】作り方といっても複雑なものではない。たて(剥き身)を買って来る。もちろん活け(殻付き)があればいいに越したことはない。薄い塩水のなかで砂などをていねいに落とす。水分をよく切っておく。これを強火で焼き、酒・醤油のたれを塗りながら仕上げる。
歴史・文化

クロダイの真子食べる? 食べない?

昔、千葉県勝浦市へスルメイカ乗り合いに乗ったとき、荒天でなんと客はボク一人だった。今ではケータイがあるからドタキャンできるけど、海が荒れていると宿泊して翌日に出るということがあった。泊まっていろんな魚話を聞いたとき、ボクがクロダイ釣りで勝浦に通っていることを聞いて、「漁師はクロダイは食べない」と言われたことがある。千葉県保田で「ちんちん(クロダイの当歳魚)」を釣っていた人も「親は食べない」と話していたはず。当然、千葉県の広い地域で真子(卵巣)・白子(精巣)も食べないのではないかと考えている。
クモヒトデ
歴史・文化

関東では昔懐かしい味のキンキ

八王子綜合卸売協同組合、舵丸水産に岩手県宮古からキチジ(岩手県ではメイセンともキンキともいう)がきていた。漁業的には千葉県銚子以北の太平洋、オホーツク海で揚がる魚である。水深200m以深に多いので正真正銘の深海魚だ。甲殻類や棘皮動物、特に深海底にいるクモヒトデを飽食している。口に入れるとじゃりじゃりするクモヒトデで、なぜあの上質の脂が身につくのか、不思議でならない。
松屋のにしんそば
歴史・文化

にしんそばと北前船と琵琶湖舟運と菜種と

年明けに、愛知県人なのに先島諸島住民で、しかも京言葉を使う若い衆にいただいたものの中に京都市、『松葉』の「しんそば」があった。初めて京都に行ったときは、まだ市電があった。家族にお金を渡せされて、京都で頼まれた買い物をして帰郷した。『いずう』でやたら高い「さばずし」を買い、デパートで漬物を買い、四条下がって南座横の『松葉』で「みがきにしん」のたいたものを買い、ついでに『松葉』で「にしんそば」を食べた。東京の黒い黒い醤油のつゆでもなく、徳島・香川のしゃきっとした塩味がちなつゆでもない、丸みのある味に驚いた。「みがきにしん」は弱冠二十歳のボクにはよさがわからなかった。ここ15年ほど、京都の夜は居酒屋ではなく、西陣のそば・うどん店で酒を飲み、しめに「にしんそば」と「にしんうどん」を食べることが多い。「みがきにしん」はうどんには合わないことを知り、西陣の『えびや』の「みがきにしん」は京都でもいちばんうまいなんて思っていたのだ。2018年にもういちど『松葉』に立ち寄って恥ずかしげもなく「にしんそば」を食べたら、つゆの味が西陣の馴染みのそば・うどん店よりも丸味があることに驚いた。それに「みがきにしん」もおいしいではないか?そして今回、いただいたお持ち帰り用の「にしんそば」が、思った以上に南座隣のあまりにも普通の店である『松葉』そのものの味であることに、これまたもっと驚いた。お持ち帰りなのにここまでの味とはさすがに老舗である。
歴史・文化

天橋立に見立てて橋立貝

江戸時代以前から貝の世界には見立てるということがある。数寄者と言われる人達のネットワークの中から見立てた名前が生まれてくる。ハルカゼガイ(春風貝)などは台湾以南にしかいないもので、江戸時代に珍奇なものとして輸入された。これを大坂(大阪)四天王寺の西、有栖山清水寺そばにあった、浮瀬という貝の大杯で酒を飲ませることで有名な料亭で使われることで、生まれた呼び名である。本来の大杯は大型のアワビだが、ハルカゼガイなどの大型の巻き貝なども使われた。ラグビーボールのような貝で縞模様がある。なぜこの貝から春風を連想したのか、不思議である。サクラガイなども色合い、貝殻の形から桜の花びらに見立てたものだ。これなどは砂浜で拾ったことのある方なら、まさにそうだと思えるだろう。ウチムラサキは非常に無骨であるが、江戸時代の『目八譜』では内側の色が紫色で美しいので、「内紫」と名づけられた。また丹後宮津では貝殻の内側に貝柱や外套膜、軟体がついた痕を、天橋立と阿蘇海(与謝内海)の景色に見立てて「橋立貝」という。〈殻の内側の筋肉のついていたあとを見ると、外套膜のはしにあたるところは長くつき出ているので、与謝内海(よさうちうみ/天橋立の内側の内湖で、阿蘇海ともいう)では、この部分を天の橋立の風景に見たてて“橋立貝”と呼んでいる〉『原色・自然の手帳 日本の貝』(奥谷喬司、竹村嘉夫 講談社)ただ、この貝殻の裏側から天橋立の景色を思い浮かべられるのは地元の方だけかも知れない。画像から天橋立でもいいし、まったく違うものでもいいので見立ててみて欲しい。もちろん逆さまに見てもいい。
歴史・文化

1960年代半ばまで貞光川で子供がやっていた「そろ」を使った魚とり

徳島県美馬郡貞光町(現つるぎ町貞光町)で「そろ」と呼ばれていた竹製の道具がある。同地では子供がジンゾク(カワヨシノボリ)などの小魚をとる道具であった。筆者が4、5歳くらいから小学校低学年くらいまで魚とりに使っていたが、これが同町では当たり前のことだった。また著者の家は荒物雑貨などを売る商店だったが、「そろ」も商品として売っていた。我が家の商圏は現つるぎ町と美馬町(現美馬市美馬町)なので、「そろ」という言語は最低でも美馬郡全域で使われていたのだと考えている。写真は大分県日田市で購入したものだが、「えびしょうけ」という。これが我が故郷の「そろ」だ。古く「笊籠」を「そうり」と呼んだという。北陸・西日本で「そうけ」、「そーけ」、九州で「しょうけ」、「しょけ」、沖縄で「そーき」、「じょーき」という。「そろ」は、北陸・西日本の「そうけ」、「そーけ」の変化のひとつだと思われる。以上は、すべて笊(ざる)の呼称で、竹で編んだ容器の総称でもある。丸いものを盆笊、とか四角いものを角笊とかいうし、大型の箕(み)もある。水を切ったり、作物を入れたり、運んだりする。「そろ」は非常に頑丈で1960年前後には土木作業のじゃりを運ぶのにも使われていた。手を入れる四角い穴があるのも特徴である。九州大分県日田のものは、貞光町のものとまったく同じものである。「えびしょうけ」は「エビをとるための笊」という意味だろう。貞光町では「そろ」というが、同鷲敷町(現那賀町)南川・中山川周辺では「つつみ」と言う。徳島県阿南市羽ノ浦町古庄では「米けんど」というのかも知れない。羽ノ浦町では盛んに淡水魚を食べていて、岸辺の葦の間にいる魚をすくうのに使用していたようだ。貞光町ではもっぱら子供の漁具であり、大人が魚をとるために使っていたという記憶がない。とった淡水生物は家庭によっては食べていたのかも知れない。「そろ」でとれる魚を鶏の餌にしていた家もある。羽ノ浦町では用水路のエビ(テナガエビもしくはスジエビ)、フナなど小魚をとり、食用としていた。子供が使う漁具でもあっただろうと思うが、大人が日常の食べ物である淡水魚をとる漁具でもあったのだ。参考文献/『民具の事典』(監修/岩井宏實、編/工藤員功、作画/中林啓治 河出書房新社 2008)、『聞書き 徳島の食事』(農文協)
アオギス脚立釣り
歴史・文化

東京湾のアオギスの脚立釣り

東京湾(江戸湾)ならではの脚立釣りは江戸時代より続く伝統釣法である。昭和38年7月(1963)、海苔、貝の漁場である十万坪(現浦安市今川・高洲で東京ディズニーランドの東)でのアオギス脚立釣りの光景。脚立は今ではアルミ製だが、この時代までは木製で、大阪では「クラカケ(鞍掛)」というと、魚類学者の田中茂穂は述べている。船宿で釣り人はよい釣り場を確保するためにクジをひく。釣り場が決まれば、港から脚立と釣り人を乗せて沖に向かう。次々に釣り場を巡り、脚立を設置して、釣り人を下ろしていく。昼になると船宿から弁当を取り寄せるなど、長々と海の上での釣りを楽しんでいた。(写真は浦安市郷土博物館 所蔵のものをお借りした)浦安の沖の十万坪といえば、山本周五郎の「青べか物語」にも登場する。東京湾の豊かさを感じる場所(浅瀬)でもあった。アオギスは、今一般的なキスであるシロギスと比べると長さで倍以上もある大型魚であり、引きが強いので釣りの醍醐味を味わえた。脚立釣りは食べるための釣りではなく、スポーツフィッシングといったものだったようだ。脚立釣りが好きだった、三代目三遊亭金馬(1894年(明治27年)〜1964年(昭和39)は著書で〈食べちゃ青ギスより白ギスのほうがうまい。職業釣り師は青ギスにめをつけない。だから町の魚屋には青ギスは売ってない。白ギスばかりだ〉『江戸前の釣り』(三代目三遊亭金馬)音に敏感なアオギスは船では釣れないので、海に脚立を立てるようになったという。脚立周りを1本の竿、道糸ハリスで釣り上げるので、アオギス専用の船釣りと比べると長い竿を使い、魚籠も網の部分が非常に長い独特のものだった。シロギスがやや外洋性であるのに対して、アオギスは川の河口域である汽水域や内湾を好むので、東京湾はアオギス釣りのメッカであったことがわかる。江戸時代や幸田露伴の明治には大川(隅田川)で行われていた脚立釣りが、昭和になると江戸川の向こう側、浦安などが主流になってくる。本種がいかに環境の変化に弱いかが、この事実からもわかる。脚立釣りは高度成長期にアオギスの減少とともに行われなくなり、やがてアオギスは東京湾から姿を消す。
歴史・文化

長崎県平戸はあごの国、あご煮干しでうどん

山陰でホソトビウオを「ニュウバイトビ(入梅飛)」などという。ツクシトビウオの角飛と同じ、6月くらいからまとまってとれるもので、産卵を控えて生殖巣を膨らませている。山陰などでは真子をパック詰めで売っていたりする本州日本海側は青森県くらいまでで産卵回遊の2種のトビウオが揚がる。まとまって揚がるので煮干しや焼き干しなども作られている。島根県松江市の名物「あご野焼(焼き竹輪)」などもあるし、各種練り製品の原料にもなる。国内のトビウオの食文化といえば昔はこの、産卵回遊群がもたらすものだとばかり思っていた。この考え方は鹿児島屋久島に行くまで心の隅から離れなかった。屋久島行以前には鹿児島市内で「七島とび(トビウオの塩干)」を発見している。干ものというよりも塩の塊のようで、明らかに冷蔵庫以前の時代からの加工品である。屋久島では種類の多さに圧倒され、当然のことだが、日常的にトビウオが食べられていることにも驚かされた。今年は、長崎県平戸市の漁師、福畑敏光さんに夏から秋の「小トビ漁」のトビウオ類を送って頂き、長崎県でのトビウオの世界の、幅の広さに驚かされた。漁の後半にさしかかったときに送ってもらったところ、すべてが小振りで、ホソアオトビ、バショウトビウオ、シロフチトビウオ、アリアケトビウオの4種類が入っていたのだ。8月25日から10月半ばの漁期にはもっと多彩な種の比較的若いトビウオ類が入る模様である。これを平戸市では練り製品を作り、干ものにし、焼きあごにする。いろいろ試してみたいが、まず今回は煮干しを買ってみた。実はこの煮干しこそ、カツオ節を生む母体であり、国内水産加工業のなかでも重要な鍵となるものだと考えている。ボクは子供の頃から煮干し文化圏にいたので、いい煮干しを見るだけで嬉しくなる。今回の林水産の煮干しなど香りからして素晴らしい。同定してみると、ホソアオトビとシロフチトビウオまではわかったが、あとは同定不能だった。想像になるが、ツクシトビウオとホソトビウオの若い個体、ホソアオトビ、シロフチトビウオ、アリアケトビウオが平戸の煮干し原料だと思うのだが、できれば加工前に確かめたい。
人形町界隈
歴史・文化

谷崎潤一郎にみる明治の魚食事情 塩焼き編

谷崎潤一郎は明治19年(1886年)生まれで、成人して文学者となるまで、明治時代の東京を生きた。生まれは下町、日本橋蛎殻町(在の中央区日本橋人形町)で豊かさと貧しさの入り交じった幼少期を送ったと述べている。ただし、祖父の代の財産、また伯父からの援助もあり食生活から見る限り、真の意味での貧しさとは無縁である。日本橋界隈に登場してきた中華料理店や洋食店、少し贅沢な和の外食もそれなりに楽しんでいる。明治時代の下町の食をある意味思い切り楽しんだ人と言ってもいい。幼少期の日常的な食に関しては、〈神茂のすじや半平(はんぺん)などの方が八百屋物(野菜料理という意味)よりはまだ有難かった……魚類は大体焼いたものよりは煮たものが多く、比目魚(ひらめ)、鰈(かれい)、鰺、鯡(にしん)、鮫(さめ)、生節(なまりぶし)等は皆煮つけで、焼くのは蒸し鰈、魴鮄(ほうぼう)、鰯、飛魚ぐらいであったが、煮魚は私は嫌いであった。〉『幼少時代』(谷崎潤一郎 岩波文庫 初版は文藝春秋社1957)これを徐々に追体験してみている。
上野,湯葢,雑魚佃煮
歴史・文化

台東区『湯葢』の雑魚佃煮を同定する

佃煮の発祥を佃島(東京都中央区)と考える人は、最低限研究者には絶対いないと思うが、一般の人は常識としてそう思っているようで恐い。16世紀末、現大阪府大阪市西淀川区佃の漁師と徳川家康との関係とか(これを「なんでも弘法大師的という」)、その特権とかいろんなドラマが作りあげられて、いつの間にか、「佃」は、小型の魚貝類の醤油煮の一般名称に使われ、食品学的な分野名ともなっている。これは水産物のすり身を揚げたものを「薩摩揚げ」というのと同様、由来からして変である。加工食品の標準和名としては失格である。一般的だとしてボクも使っているが、その佃煮の発祥を佃島にもとめる根拠はまったくないと言っていい。ついでにいうと魚貝類を醤油で調味するのが一般的になるのは、江戸時代前期ではない。江戸の街に「下らない醤油(関東の醤油)」が入ってきたのは、天才、荻原重秀が登場した元禄期くらいからだと思っている。ちなみに江戸の街に毎朝来ていたのが納豆売りである。多くの人が1945年以前には毎朝くる納豆売りのことを証言している。この納豆は江戸時代の前期には、現在のように醤油をかけて食べていたのかなども疑わしい。たぶん納豆入りのみそ汁だったのだと思う。ちなみに瀬川清子は戦後になっても醤油は地域によってはハレの日だけのものとしている。横道に逸れるが、江戸城に江戸前の魚を献上していたのが、佃島とか対岸の猟師町の人達であったとして。江戸城に献上するので、特別あつらえで江戸時代前期に貴重だった下り物(関西で作られていた)の醤油を使い小魚を調理していた。だから江戸城勝手方では自然発生的に「佃煮」と呼んでいた可能性はある。でもこんなもので納得していたのでは、佃煮の深い深い歴史的なところが見えてこなくなる。とれた魚を塩水(海水かも)で火を通すということは非常に原始的なことだ。そこに醤油で味つけするという佃煮は日本列島のどこかで、淡水域・汽水域周辺で発祥し、すぐに爆発的に全国に広がる。現在の醤油味の魚貝類の加工品、「佃煮」の原型は霞ヶ浦、土浦市に残っている。ワカサギ、テナガエビなどの「煮干し」である。霞ヶ浦で揚がるエビや小魚類を塩水で煮て軽く干したものだ。また利根川から西の関東平野、渡良瀬遊水地・霞ヶ浦の北でも塩ゆでが行われていたはずだけど、魚貝類の種類がまったく違っていたと思われる。ちなみに関東の川漁師の間でも苦味が強いのでタナゴ類はあまり食べなかったようだ。また群馬県の水郷地帯での聞取では流れのある流域にいるウグイ、アブラハヤ、オイカワなども食べなかったという。関東でよく食べていたのは、河川ではなく湖水と用水路に繁殖する魚やエビたちである。これを選別しないで煮るのが関東風である。「煮干し」で始まった佃煮の原型が関東周辺で醤油が使われるようになるが、関東では平野部特有の魚貝類が使われている。種類は違うが平野部系としては木曽三川流域や岡山県などでも同じである。福岡県筑後川流域でも同様かも知れない。この様々な魚貝類を使った佃煮を東京都、埼玉県、茨城県、栃木県、群馬県で「雑魚煮(「ざっこに」、とも、「ざこに」とも)」、「雑魚佃煮」とも「小ざかな煮」ともいう。これこそがもっとも原始的な「佃煮」のひとつだが、作る店が激減している。1951年の『佃煮便覧』をみると国内には佃煮屋が信じられないくらいにたくさんあり、日本各地に分布していた。流域を考えない河川改修が横行して雑魚が激減している上に、雑魚をとる漁師が激減しているから仕方がないのかも知れない。
ショウサイフグ
歴史・文化

秋深し、ショウサイフグでふくと汁

松尾芭蕉(青桃)が延宝5年(1677)冬に吟じた【あら何ともなや昨日は過ぎてふくと汁】は江戸で行われた句会のときのもので、『江戸三吟』として出版されている。「三吟」は松尾芭蕉、山口素堂、伊藤信徳である。江戸時代にフグは「ふくと」、「ふくべ」などと呼ばれていた。この句はフグという魚の危険性を表すときによく引用されるが、むしろ杉山杉風など魚河岸にも弟子がいた芭蕉なので、普段からフグを食べつけていたのではないかと思われる。江戸時代は今よりも寒冷だったので江戸湾をはじめ周辺海域では秋から冬にはショウサイフグ、春にはヒガンフグがとれていたはずである。今現在のように相模湾でしばしばトラフグが揚がるような状況ではなかった。トラフグは昭和になっても西の魚で、江戸の魚河岸には並ぶことは希だったと思われる。中でも取り分けショウサイフグは江戸湾にたくさんいた魚なので江戸前の魚そのもので、この「ふくと汁」は決して上等なものではなく、下手なものではなかったか? だから芭蕉は微かにはにかんで句を吟じ、一緒にいた山口素堂などもそのあたりがわかっていた。ちなみにあっさり薄味ではなく、濃厚な塩辛いみそを溶き込んだ、フグ類のみそ汁はやたらにうまいし、体が温まる。「ふくと汁」が最初に出てくるだけで、座に温か味が生まれたのではないか、と思う。また、江戸時代前期、江戸の街で醤油は一般的ではなかった。民俗学者、瀬川清子は昭和になっても地方で醤油は高級だったとしている。とすると調味料は塩かみそだ。直感でしかないがみそと考えた。江戸時代前期から江戸の街で冬に食べられていた「ふくと汁」は、ショウサイフグのみそ汁で間違いないと考えている
歴史・文化

徳川家康と鯛の天ぷら

徳川家康が慶長20年、大坂夏の陣で豊臣氏を滅ぼす。その元和2年1月21日、鷹狩りに行ったときに、京都の貿易商・呉服商の三代目茶屋四郎次郎の話を聞いて食べたものが「鯛の天ぷら」だとされている。茶屋四郎次郎の話は近頃、鯛の天ぷら(興津鯛(アカアマダイとも))を榧(かや/イチイ科の木本植物で実は食用になり、食用油もとれる)の油で揚げて、韮(ニラ)をすりかけてかけて食べる」というものだ。同翌元和2年4月17日に数え年75歳で死去している。これが広がり「徳川家康が鷹狩りのとき天ぷらにあたって死んだ」という伝説が巷間に流布する。もちろん天ぷらと徳川家康の死は無関係だと思うものの、この天ぷらとはなんだろう?天ぷらの種は興津鯛(アカアマダイ)とも鯛(マダイ)ともされている。
歴史・文化

醤油以前、ワラサのみそだけ煮

瀬川清子は女性に関する民俗を調べた学者として有名だが、食に関する民俗学の基礎を作った人とも言えるのではないかと考えている。宮本常一や柳田國男にはない実際的な食文化の探求が見られるのだ。著書が少ないのが残念ではあるが、個人的な考え方かも知れないが、国内の民俗学の巨人のひとりだと思っている。いちばん有名な『食文化の歴史』(瀬川清子 講談社学術文庫 単行本は1968)に、1935年、千葉県久留里(現君津市)に近い山村で醤油は貴重品で、普段は「味噌一式で暮らている」、醤油は正月だけの贅沢なものだと報告している。当時、東京都内で醤油は日常的なものだが、千葉県の山間では貴重品だ、という地域による時代差があるのだ。それでは魚などはどのように煮ていたのか? 例えば佐賀県鹿島市ではみそを水でとき濾した「すめ汁」で煮る「ふなんこぐい」が今に残る。ただこの鹿島市の「すめ汁」も作るのに手間がかかるので、特殊なものに思えてならない。この久留里周辺での昔の煮魚はどんなものなのだろう?ワラサの切り身が残っていたので、みそと水だけで煮てみることにした。水にみそを濾さないでそのまま入れる。瀬川清子はこれを「オトシ味噌」としている。後は煮るだけである。今回のみそは京都府京丹後市『小野甚』のもので塩分濃度は普通で、ほんの少し酸味があるもの。8分ほど煮て、熱いまま食べてみたら。うまみは味噌と魚のアミノ酸だけなのに、汁はまるでだしを使ったように味わい豊かで、酒もみりんも加えていないのに甘みがある。ワラサの切り身は硬く締まらず柔らかい。
歴史・文化

節分に食べる・飾る魚貝類

節分とは雑節のひとつで、立春、立夏、立秋、立冬の前日のことだ。特に立春の前日は、立春を正月とする考え方をしていたときには大晦日にあたる。季節の変わり目に現れる鬼、怨霊などを払う儀式として宮中で行われたのに端を発する。今現在もっとも多くの地で行われているのが柊(ヒイラギ)の枝に鰯の頭を刺し、豆幹(大豆をとったあとの茎と豆のさや)などを合わせて門などに飾り、豆をまいて鬼を払うというもの。今や立春2月4日の前の節分に先立って煎り大豆、鬼の面がスーパーなどに並ぶ。
歴史・文化

おはじき(お弾き)にして遊んだ貝

おはじき(御弾、お弾、オハジキ)は、大言海に〈細螺ノ介殻ヲ指先ニテ弾ク、小兒ノ遊戯〉とある。古くから浜の落ちている貝殻の美しい物を拾い、指ではじいて遊んだもの。本来日本各地で身近にある小型の貝などで遊んだものだが、今ではガラス製となっている。ガラス製のものは、1960年代くらいまではいたって普通の玩具で、夜店やおもちゃ屋、文具店などで売られていた。実際に女児、女性が指ではじいて遊んでいたのをおぼえている。今では100円ショップなどにもあるが、実際に遊ぶために売られているのかわからない。〈幾左古 正字は未詳 思うに幾左古は状蝸牛に似ているが、厚く堅くて彩文がある。殻の中には寄居虫(ごうな/ヤドカリ)のような虫がいる。伊勢・尾張および東海の諸浜に多くいる。土地の人は虫を取り去って洗浄し、これを玩具とする。〉『和漢三才図会』(寺島良安 正徳3年/1713 東洋文庫 平凡社)おはじきに使われた貝類は、〈シャゴ(キサゴ)《伊予大三島北部》 スヰビウシ(ハナマルユキ)《奄美》 ネコジャ(メダカラ、オミナエシダカラ)《千葉県安房郡鋸南町岩井袋》〉『日本貝類方言集 民俗・分布・由来』(川名興 未来社 1988)たくさんとれて小さいもので遊んでいたことがわかる。〈この頃のこどもはどうか知らないが、年配の方なら大てい小さいころ、キサゴ(標準和名のキサゴ)のおはじきで遊んだ記憶がおありだろう〉。『原色・自然の手帳 日本の貝』(奥谷喬司、竹村嘉夫 講談社 1967) 奥谷喬司は1930年福岡県北九州市門司出身である。
歴史・文化

大黒様の御歳夜に作られるハタハタの田楽

山形県庄内地方では、12月9日は「大黒様のお歳夜(大黒様の年取り)」といい、「まっか大根(二股大根)」、豆料理を大黒様に供えて、豆料理と「ハタハタの田楽」、「たらのこいり」を食べる。東北や新潟県では大黒様が嫁を取りの日ともされており、「大黒様の嫁取り」、「大黒様の祝言」ともいう。大黒は豊穣の神として民間信仰の対象である。豆や豆腐、大根などには五穀豊穣・子孫繁栄を祈るという意味があるのだろう。ちなみに庄内地方の「まっか大根」は二股になった大根のことで、お供えにする。膳には主に豆料理と大根を使ったなます、そしてハタハタの田楽が並ぶ。スーパーなどには数日前から「ハタハタの田楽」と豆料理、また「大黒様のお年夜」用のセットが売られる。古くは家庭で作ったものかも知れないが、今では鮮魚店・スーパーなどで買うものとなっている。■左上から「ハタハタの田楽」、「たらのこいり」、「黒豆煮」、中央中「黒豆のなます」、「豆腐の田楽」、下左「黒豆ごはん」、「納豆汁」。膳の右側にあるのが「こめいり(おこしともいう。これをを固めたもの、ばらのものもある)」。明らかに子孫繁栄をいのる祭事である。
歴史・文化

川路聖謨が食べたうなぎのみそ漬け

『島根のすさみ』(天保11年 1840)に、川路聖謨(旗本。御目見以下の御家人から大名格の勘定奉行にまでなった)が佐渡奉行につく旅の途中、渋川(群馬県)で〈うなぎのみそ漬也。珍敷き事〉とある。このみそ漬けとはどのようなものだろう。ウナギはみそ漬けにしてうまいのだろうか?いちばん簡単な方法で作ってみた。みそ・みりん(天保期なのであっただろうし、酒よりも古くから甘味に使われていた)で合わせみそを作る。みそだけだったかもしれないが、ウナギにはみりんがよく合うので、甘味を加えてみた。これに適当に切ったウナギの開いたものを漬け込む。丸のままであった可能性もあるが、天保期であること、江戸から遠くない渋川であることから開きを使った。比較的強火で焼き上げると、みその香ばしさ、ウナギの風味が相まって予想外にウマシだった。次回は丸で試してみよう。
歴史・文化

栃木県宇都宮市今里、梵天祭の料理

栃木県宇都宮市今里にある羽黒山神社の創建は平安時代康平年間(1060年頃)とされている。ここでで秋、11月の第3土曜日に行われるのが梵天祭だ。江戸時代の中頃に収穫を感謝して始まったもので、350年以上の歴史がある。15メートルほどの2本の長い竿竹の先に梵天という房状の飾りをつけたものを、今里の町を揃いの半纏をまとった若者が練り歩く。その後、一気に山上の神社まで運び上げ、境内に立て奉納する。
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