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正月が明けて早々、地味な鍋だなと偽ビールをグラスにそそいたとき、テレビに茨城県鹿島沖の巻き網漁船の転覆事故が流れた。なんと今、ここで食べているマイワシをとっている船である。去年から銚子産マイワシが安くて、おいしくてと思って散々買っては食べている。暮れに、正月明けに、高値が続く中、ありがたいなと思っていたら、船が転覆するくらい豊漁だとは。喜びの止まる事故である。一人でも多くの漁師さんに助かって欲しいと祈るしかない。さて、1年振りに作った「いわしのつみれ」は、大和芋多すぎでゆるゆる柔らかすぎた。口の中に入れると溶けてしまう。溶けながら濃厚なマイワシの脂の甘さと、背の青い魚特有の強いうま味が口中の容積を超えてぱっと広がる。おいしいと思う前に、おいしさに圧倒される。大和芋多過ぎは失敗ではなく、大成功だったようだ。つみれを落とした昆布だしを鍋つゆにしたために、これを飲んだだけでもウマスギである。マイワシのつみれに、そのつゆと、スターが出揃ったと思ったら、主役は今現在、葉物野菜でいちばん安い白菜だった。マイワシのうま味に煮染まった白菜は、つみれ以上にうまい。西太后に生よりこっちの方がうまいぜ、と教えてあげたいくらいだ。汁一滴まで食べ尽くし、年の初めの地味鍋は、今年一年の計を占うが如くである。それにも増して、新年早々の漁師の死は悲しい。複雑な気持ちのつみれ鍋となる。
去年公開できなかったものです。「ひげだら(ヨロイイタチウオ)」はアシロ科唯一の流通する食用魚で、東京だけの高級魚である。ちなみに日本魚類学の父、田中茂穂がヨロイイタチウオなんて、ヘンテコリンな名をつけたのは、東日本には実際に使われている名がなかったからだと思っている。注/明治期以来、魚の標準和名は実際に使われていた名から採用していた。12月も半ばをすぎると気温がすとんと下がる。なぜか不思議と鍋になる。しかも白菜がやたらにおいしくなる。「ひげだら」の上品な白身であるところはタラ科の魚に似ている。ただ、タラ科のスケトウダラなどと比べると身がしっかりしている。身崩れしにくいのでぐつぐつ煮ても大丈夫だ。さて、今回はいきなり身(切り落とし)から食べる。いきなりうまい。柔らかすぎず、硬すぎず、身自体に甘味がある。さほどがんばらなくても筋繊維が舌の上でくずれてくれる。あとから甘味の増した白菜を食べたり、つゆを柚子醤油で味つけして飲んだりする。この忙しいところが鍋のよさだ。タラ科との違いは中骨周りの身がばらけないことである。鍋が汚れない。中骨をそのまま皿に取り、柚子と醤油を垂らして全部口に放り込んで、中骨だけぺっと出す。行儀は悪いが、これでいいのだ。中骨の身は淡泊な味、鰭際にある鰭を動かす身(鰭筋)には脂がたまり、こくのある味がする。マダラ同様においしい肝は、好きなときに食べてね、といって鍋で揺れている。ボクなどせっかちなので、鍋の半ばにならぬときに食べてしまう。肝の味だけは名状できない。ただ濃厚にうまくて、その割りに後味がいい。今回の失敗したな、もー、はつゆを具を食べながら飲み尽くしてしまったことで、トリをとる雑炊が作れなかったことだ。つゆをすくい、器に取り、柚子を振り、醤油を垂らし酒を飲む。高清水の普通酒、室温が変にうまい。後はシャワーも浴びず、ベッドに飛び込む。
鍋は孤独で不幸せな人間の生命維持に欠かせない。昔、群馬県松井田町で、「年取って一人っきりの男はすぐ死ぬ」と、食文化を聞き取っていたバアチャンに言われたことがある。本当はコイなど淡水生物の話を聞きたかったので、またバアチャンの脱線が始まったと、ヤな感じがしたが、たぶん本当だろうとも思ったものだ。ほんま一人っきりで不幸せな人間は健康のことを考えないとだめだ。先に戻るが、だから鍋で、鍋くらい身体にいいものはない。今回の主役はホウボウで煮えた味わいがすこぶるつきにいいし、つゆがまた矢鱈にうまい。こんなにおいしいだしを放出しても、ホウボウ自体がこんなにうまい。そこがホウボウのよさである。江戸の昔から上物で、非常に上品な味の魚なのである。そのくせおいしいのだから言うことなしだ。なにがおいしいのだろう、というと全部だ。皮に味があるし、身に甘味がある。硬い頭にだってちゃんと身があってしゃぶると、脳みそや皮などいろんな味がする。いいだしが出るので野菜や豆腐など脇役全部がおいしい。昔、鍋料理だと酒の出(売れ行き)が落ちると居酒屋オヤジが言っていたが、酒があまりすすなまいのも、よろしいなー。鍋疲れがしてきたら、ぜひ鰾に箸を伸ばすべし。ただの浮力調整器というにはおいしすぎるのである。二重になった袋に脂があり、ちょっとだけトロリンとしている。〆の雑炊もよし、麺もよしで、後はおぼろ〜♪ なのだ。
食べているときの絵を頭の中で想像して作った。アカヤガラは丸太ん棒にすると煮えるのに時間がかかる。その内にいいだしが出るし、身(筋肉)が柔らかくなる。ゆっくり急がずに食べる鍋だ。目の前で丸太がゆらゆらするのを見ながら、周りの野菜から食べ始める。比較的強い塩味(しおあじ)をつけているので、柑橘類を振るだけでいい。豆腐ですらちょっとだけ醤油をかけるだけだ。昆布だしの野菜や豆腐のうまさを堪能した後に、丸太ん棒を引き抜いて食べる。器に昆布だしと丸太ん棒をとり、くずしながら食べる。小骨がなく身離れがいいので、食べやすいところがいい。柑橘類(黄色いすだち)を搾りながら食べるだけで、実に味わい深い。丸太ん棒4個は凄いボリュームなのに、いつの間にか鍋は空っぽ。終いにはつゆ一滴もなきぞかなしき。
今回のマハタでは鍋、鍋、鍋、鍋だった。鍋らしい鍋に飽きたので、みそ仕立てにする。ことこと煮立てて、少し煮詰まったところをすくっては食べる。ものすごく温まる。白みそで煮ると、マハタの身が少しとろっとするくらい柔らかくなる。舌で潰れるくらい柔らかく、クリーム状のみそと一緒になって、ひとつの味を作りあげる。ポタージュのようだけど、油分を使っていないので軽い味だ。マハタの身とみそが一体化して口の中に広がる。
トラフグを食べるなら11月か、12月も前半までだぜ! といいたい。12月も半ばになり、数え日が近くなるとトラフグは高騰する。トラフグのキヨミズガイなどするもんじゃない。今ならちょっと贅沢程度で食べられる。目の前に煮えているのはトラフグだけが入った鍋。食べる直前に芹と壬生菜混ぜこぜを少し投入する。「ふぐちり」は単純な方がいい。昆布だしだけで、野菜も最小限がボク好みだ。初めはひたすら鍋の中の虎に集中すべし。なぜ、こんなに煮ながら食べる虎はうまいのか、今世紀中には解明出来ない謎だろう。やや水分が多い身は煮るとちょっとだけ膨らんで、ほろっと骨から外れる。舌に触れると甘いのは多種類のアミノ酸からくるのだろう。いちばんうまいのは唇、「うぐいす」だ。4枚の鋭い刃物状の歯をかみ合わせるための筋肉と、その周辺の皮だ。2人で食べるなら仲良く上下で分けるといい。魚類界最強の噛み切り力を誇る。そのパワーを生み出す筋肉は煮ると、他の筋肉よりもちょっとだけ硬く締まっている。他の部分以上に味がある。唇周りの皮だってぶるんぶるんとして甘く柔らかい。いつも「愛してるよ」、と言って食べる。ただし、今回はここに、hidden treasure が。今回の個体が抱えていた白子である。「うぐいす」と人気を二分するが、どっちが上なんて考えても無駄だ。温まった白子は濃厚なうま味があり、クリーム状にとろける。ある意味、美しすぎる味かもしれない。ジャングルを飛ぶ美しい蝶のようなもの。
今回のマハタでは鍋、鍋、鍋、鍋だった。さて、中骨の鍋を作るたびに思う事は、「不器用でよかった」だ。中骨にいっぱい身がついているので食べでがある。昆布だしに酒と塩だけど、漬け醤油はあまりいらない。ほんのちょっとだけの柚子と醤油で間に合った。今回の鍋は中骨は合いの手に食べて、野菜をだしを食べるものだ。このだしが煮るほどに素晴らしい味になるし、だしで煮た野菜だって、その野菜そのままの味とだしとからまった味とで二重に楽しめる。ついでに骨に付着した身(筋肉)とゼラチン質の部分が、やたらにうまい。箸で食べて、終いには手づかみでしゃぶりつくしても、まだ味がある。ちなみに今回は昆布だしを使ったが水・酒・塩だけでも充分満足すると思う。酒をおいてけぼりにしてしまったので、冷蔵庫をごそごそ、祭りの後は淋しいね。
頭が混乱するほど慌ただしい、何が何だかわからないし、外出するには忙しすぎるので何か買っておかなくてはいけない。ので、買った小ヤリである。小ヤリ4はいくらいを野菜に上に乗せて、ごま油を一回しかけて、鍋、ゴー! だ。火をつけるとだんだん野菜が沈んでくる。あっと言う間に鍋らしくなるので、スープごとすくっては食べる。ちなみ本当は豚肉でやるはずで、確か團伊玖磨の『パイプのけむり』の真似だったと思う。ある意味、なんでもかんでも、どうでもいい本でも必要な本でも手当たり次第に読んでいた遺産かも。
今回のマハタでは鍋、鍋、鍋、鍋だった。いちばん最初に作ったのは、野菜はなしでもいい、というすっぽ仕立ての鍋だ。養殖ラウスコンブのだしに酒塩で煮ながら食べる。徹底的にマハタの兜を隅から隅まで食べるためだけの鍋だ。すっぽん仕立てというのは、京都で食べた鍋の真似だ。最初に強く煮込み、煮込むことで、マハタのうま味が大量に昆布だしに出て生まれたつゆと、本体(兜)を食べるというもの。いつもながらに本体(兜)もつゆもウマスギなので、なかなか野菜を食べるに至らない。柑橘類と醤油を用意したが、充分塩味(しおあじ)が感じられたので、不要だった。彩りの悪い、実に地味な鍋だが、材料費が矢鱈に高いので、プロにはできない鍋だ。つゆがたっぷりならここで野菜を煮て食べてもいい。今回は滋賀県で買ってきた春菊を大量に投入して食べた。心底マハタのおいしさが堪能出来るし、皮、目、身、ゼラチン質の部分に別々の味があることがわかる。ボクがもし、好きな女性と食べていたら、皮とゼラチン質をとってあげると思う。いないけど。
滋賀の旅でなんとなくコカコーラを飲んでみたら、喉が飛び上がるほど痛い。痛いけど心地よかった。その痛心地よさに惹かれ、近所のスーパーで大量の乳酸飲料を買ったついでに、またコカコーラを買ってきた。この喉が痛がゆいコカコーラに合わせたのが鍋焼きアヒージョである。鉄鍋でソテーしながら表面は生、下は焦げ焦げを口に放り込む。カツオは強めの塩でマリネしているのでぱきっとした味で、ほんのり脂があってチョイトロで、後から酸味があって。同時に虎の尾が矢鱈に辛い。にんにくの香りが強くて腹の底までにんにくめいてくる。そこに激痛を呼び込むコカコーラで、微熱なのに情熱、な感じがする。不思議なものでコーラとかパンを飲んだり、食べたりすると喉が痛いが、気持ちいい。これでパンまで食べるとノックアウトされそうなので、コーラで通すけど、カツオの鍋焼きアヒージョとは最強タッグではないか。食べている時間が短いのが難点だけど、喉の風小僧くん、もう少しいてもいいよ。
11月14日、八王子綜合卸売協同組合、舵丸水産で買った、北海道釧路産が今季初白子(マダラの精巣)だった。白子はまだ蒸し暑い時季から市場に並ぶが、赤みがとれるまで待つ。釧路産の白子は触っただけで上々であることがわかる。食べ頃を外すとろくな事がないのが白子なのだ。不思議なことに、ここ数日、昼間は元気いっぱいなのに夜になると熱が出る。滋賀の旅の後始末と、連れ帰ってきた風小僧のせいで、気力は半分以下、疲れは夜になると蘇る。白子を見た途端、深夜の不調を鑑みて、今日は手間いらずの「白子鍋」を作るのだ、と決めたのもある。
ボクの一日は通常三等分なので、深夜に軽くなにかを食べて酒を飲む。今回は焼き穴子(マアナゴ)を使って、鍋仕立ての「温やっこ鍋」の天盛りにした念のために、「温やっこ」とは醤油味に煮込んだ豆腐で、温々の内に出されるので、この名がある。大阪で独り酒をやるときなど、あると必ずお願いするボク好みの酒の肴である。温やっこだけでもいいのだけど、華がない。華代わりの焼き穴子だ。別に「温やっこ」と焼き穴子を味で融合させようというのではなく、甘辛く煮つけた豆腐を食べて、合いの手に甘辛いつゆで温めた焼き穴子を食べると言うだけのものだ。普通鍋ものの具は何らかの関連性を持つ。例えば、湯豆腐にタラ(マダラ)などは一緒に煮ると、味に相乗効果が生まれるのだけど、今回のものは相乗効果を生まない。ただ、だしのきいた「温やっこ」はそれなりにおいしいし、温めた焼き穴子もおいしい。一鍋の中で2つの素材が別々のままだけど、単体で煮るよりは遙かに楽しい。この味を表現するのは難しいが、だしで煮た豆腐がうまいことはだれでもわかる。これだけで充分満足できるはずだ。焼き穴子は、みりんがきいてもともと少し甘い。これを甘辛いだしの中で温めただけだけどより味わい深くなる。先にも述べたように、鍋とは素材が鍋の中で結婚するものだと思いがちだけど、今回の鍋は2つの素材が結婚しないまま、ボクに食べられてまた別れ別れになる。これを「君の名は? 鍋」と名づけたい。「君の名は」は年代によって違うだろうけど。
資料を読み始めると時間が暴走する。気がついたら逢魔が時を過ぎ、つけっぱなりのテレビの音声を上げると、9時のニュースをやっている。そんな日々なので鍋鍋、鍋な日々となる。マガキとほうれん草は辻嘉一の表現を借りると、出合いのもの、だと思う。本当はこれに豚肉があるとよかったんだけど、小分けのパックがなかったので今回は断念する。沸いてきた割り下に大量のほうれん草を投入してマガキを散らして、あつあっつしながら食べる。偽ビールを飲む、あつあっつと食べて偽ビールで肌寒の旧暦10月3日も……、ワシントン広場の夜はふけて♪ なのだ。それにしても出合いのものを合わせた鍋はうまい。マガキの濃厚なうまさに、ほうれん草の青苦さ。ほうれん草には甘味もある。考えてみたら鍋は時間を楽しむものなのに、この鍋は時短しすぎかも。あとは空酒で正一合。
産地でもあるので、関東では盛んにムツを鍋に用いていた。昔は贅沢なものではあるが、ちょっとがんばれば庶民の手の届くものだったようだ。今ではあまりにも高価なので、特別な日の料理となってしまっている。当然、料理店で食べるなんて夢のまた夢だ。だから「ムツの鍋」はいつも自宅で作る。さて、ムツの鍋が煮えてきたら、まずは汁の味見から始めたい。ムツのあらからじわりと煮汁に染み出したうま味たるや名状しがたい。これだけで酒が飲める。黒くて薄くて地味だけれど、皮は柔らかく脆いものの、おいしさが凝縮されて存在している。ましてや身の甘さ、うま味の豊かさよ。ムツばかり食べていると興奮して過呼吸になりそうなので、豆腐も山東菜もしいたけも、食べる。名残の黄色い、すだちは香りこそ弱くなっているが果汁はたっぷりである。このすだちと醤油だけで食べると、ムツの脂がありながら上品な味が端的に楽しめる。酒も進むけど正一合のみで、我慢、我慢。
旅の前に最近作った鍋の総ざらいをする。今回は、みそ仕立てで、煮ると焼く(ソテー)の中間的なものだ。ゆっくり、みそをこがさないように焼くだけに神経を集中させる。鉄鍋は直径12㎝の小さなものなので、あくまでも酒を飲むための時間稼ぎの鍋ともいえそうだ。さて、長野県諏訪、「銀撰 真澄」の紙パックをコップに注いでスタートする。この時点ではサワラのサイコロにみそが覆い被さった状態でしかない。弱火で煮ると、だんだんみそとサワラが馴染んでくる。どこかしらでみそが焦げているな、と思ったら大量のねぎを山形に盛る。
サイト運営が危機的な状況にあるのに、ボランティアで面倒なことに時間を取られているのだから、我ながら悲しいものですね♪ なのであった。ということで夕べ、深夜に鍋を作ることが多い。ぶわったら(塩蔵タラ)の鍋を初めて食べたのは学生時代で、お茶の水駿河台・神楽坂など学校の縄張り的な場所の、安居酒屋の冬の定番だった。鍋材料の大方が豆腐の場合には「湯豆腐」といい、豆腐以外が多いと「たら鍋」、「たらの寄せ鍋」といった。ボクの生まれた徳島県美馬郡貞光町(現つるぎ町貞光)では「はげ(カワハギ)」、もしくはボラが鍋(水炊き)の材料定番だったので、ボクにとってマダラはまったく未知の存在だったが、学生時代は何を食べてもうまいし、楽しいので一時に好きになる。慌ただしいときなど、「たらの寄せ鍋」ほど重宝なものはない。また昆布だしとマダラがとても好相性なのだ。明らかに昆布の風味が勝っているけど、決してマダラも負けているわけではない。相乗効果のようなおいしさがある。おいしいし、糖質は少ないし、野菜も摂れて健康だし。腹が温まるのでよく眠れるし。親切なDにもらったチューリップを聴きながらなので、なんだか悲し、いし。
夜と昼の気温差に体がついていけない。夕方になると温かいものが食べたくなる。終日、ミクロな闘いをしており、しかもそのミクロなものは水産生物だけど食べるわけにもいかない。仕方なくショウサイフグを解凍して、「ふぐちり」にする。長い長い夏が去り、秋らしいと思う間もなく冬が来るなんていやだな、なんてことも思う。豆腐がなくて、愛知県の角麩があったのは奇跡である。9月の半ばにもらって忘れていた角麩である。この愛知県、岐阜県で食べられている麩はどれもこれも素晴らしい。これがフグのうま味とだしのうま味を吸い取っていいのである。合いの手以上、主役になりそうだ。塩で締まったショウサイフグに甘味があるのは、塩をした効果だ。身離れがいいので、食べやすく、またほどよいほぐれ感がある。フグってこんなにうま味豊かなんだというのも、単純なつゆで食べるからだ。水前寺菜を数秒つゆに沈めて食べると、また舌と脳みそが別の世界に持って行かれてしまう。このところ毎日のように市場に並ぶ、水前寺菜もまたうまし、だ。これから毎夜毎夜、独り鍋をつつくと思うと淋しいやら、諦観を感じるやらで、酒がすすんでしゃーない。
小田原から帰って数日してがくんと気温が下がった。外で鳴いているアオマツムシも寒そうである。このところ鍋で深夜酒することが多くなったのも、秋の入り口にたどり着いたからだろう。さて、大阪の「魚すき」もしくは割り下鍋が、日本各地に飛び火していろんな名前で作られている。要するに「煮食い」でも、「じふ」でもいいが、今現在『がしんたれ』を読み直しているだけの理由で、大阪風に「魚すき」とする。アイブリは、アジ科よりもどちらかというとマナガツオ科に似た味である。くせがなくて上品、しかも煮ても硬くならない。煮えばなを食べては野菜、豆腐、ときどききのこ(シイタケ)だったり、きのこばかりを食べて、アイブリだったり。この身勝手な食べ方こそが「魚すき」の「好き」に通じると思っている。好き好きに食べろという意味である。このあたりの食べ方などフリージャズに似ておりまする。煮えばなのアイブリの切り身は柔らかく、下の上でほろっと脆弱である。しかもしっかり魚らしいうま味が感じられる。本当は食べ終わったらうどんでも、といきたいが、我慢して箱の高清水を正一合だけ。
「ぽんだら」の鍋は関東では郷土料理に近いものではないかと思っている。江戸川区の魚屋などでも秋も深まると、鍋用に調理されて並べられていたものだ。安くてそれでいながら満足度が高い、「ぽんだら」はいの一番に鍋がいい。ということで埼玉で買った「ぽんだら」をさっそく水洗いして適当に切る。もちろんこの時季の個体で、このサイズなので真子も白子もない。肝だけを取り分けておく。湯通しして冷水に落としてぬめりや残った鱗を流す。水分をよく切る。これを昆布だしに酒・塩の味つけで煮ながら食べる。野菜などはお好みで。今回は山東菜を使ったが、最近安くなってきたロケット菜(ルッコラ)、レタスなどもいい。きのこは欲しいけど、これもなんでもいい。栽培ものの種類が増えたのもあり、特にこの時季、きのこ買いが楽しくて仕方がない。あとは豆腐でもいいし白滝でもいい。鍋は無法でなければならない。それにしても今季初鱈鍋はやたらにうまいものだな、と思う。あっさりとして柔らかく、ほろほろと舌の上で脆弱にくずれる。上品ななかにも味があるところもいい。マダラは小さくてもおいしい魚なのである。最近、魚界にも強烈な色物が増えて、このスタンダードなおいしい魚にスポットライトが当たらなくなっている。取り分け魚に無知な人に限って、普通の日常的な魚を知らないのはなぜだろう?水産生物はできる限り多種多様に食べて欲しいが、至って日常的な地味でおいしい魚も忘れてはならぬ。今年もみそ仕立て、韓国風とひとり鍋をつつくのだろうなー。
うるさいくらいのアオマツムシを聞きながら、湯豆腐をつつくと汗が出てくる。9月最後の日なのに、まだ完全に秋になりきっていないのである。大好きなので、これからは何度も何度も作る。その幕開けでもある。さて、養殖だけれども羅臼昆布(養殖でも高くなっている)は実力ありだ。最近、天然と養殖を比較しているが、比較しなければ養殖でも充分おいしいだしが出る。湯豆腐は豆腐を食べるためにある、と思っているので、平凡な豆腐であるが、1丁丸々ヘダイと羅臼昆布のだしで温めて食べる。これがやたらにおいしい。癒やしを感じる。ヘダイの中骨は塩蔵しておいたものなので、湯通ししても、煮ても、しっかり塩気を感じる。中骨にくっついた身をせせり食べると、ほんのり甘く、こくりと脂の存在を感じる。やはり秋のヘダイは偉大である。ついでに、相変わらず葉物野菜の少ない状態が続いている。この時季に青ツルムラサキ(東南アジア原産)を使っているのは不思議な光景だが、来年も同じだと思う。
島根県西部、石見地方で「煮食い」という、同じく出雲地方では「へか焼き」である。もとは大阪の「割り下鍋」が基本で、「すき焼き」ともいい、要は伝播したものだと思っている。滋賀県の「じゅんじゅん」、兵庫県の「じゃう」、三重県尾鷲市の「じふ」など、名は違うが、ほぼ同じ物である。「煮食い」とが最後の猛暑日の鍋となる。熱波と相次ぐ災害で9月後半になっても葉物野菜が揃わない。せめて、ベかな(矮性山東菜)でもあるとありがたいのだけど、今回冷蔵庫で見つけたのは神奈川県秦野市、「じばさんず」で買った水前寺菜(沖縄ではんだま、石川県で金時草)だけだ。いきなり煮え立てのオキアジから食べ始める。このサイズはやや水分が多いが、身質がきめ細やかで煮ると縮まずふんわりと柔らかくなる。アジ科ならではの豊かなうま味もある。オキアジの小型は熱を通すと、非常に上等の魚に大変身するのである。半身ずつ鍋に投入して、食べ尽くすのがボクのやり方である。割り下で煮ると、最後まで味が落ちない。ボク個人としては、最後にうどんが食べられなくなって久しいが、おすすめである。なんとこの日の夜の外気温は36度であった。最後までとっておいた煮染まったこんにゃくを食らいながら、パンツ一丁で食う熱々の鍋も、今年はこれにて終いであろう、なんて、独りごちる。
若いとき、体は木製だった。年を取ると、体はコンクリート製になる。若いときは昼間の熱がすーっと去って行くが、年を取ると体の熱がこもってぜんぜん去りはしない。年寄りが、熱がこもって死にそうなとき、逆療法がいいんじゃないか?暑いときには涼やかな冷たいものではなく、濃厚かつ非常に辛くて熱々のものを食った方がいいんじゃないかな。ブリの腹身とこんにゃくだけなので、交互に食べる。いちばん脂のある部分なので切り身を舌に乗せると脆弱で、しかもとろっとしている。甘いと感じるのは脂のせいだろう。このとろっと柔らかいところに、こんにゃくのごく熱く、強く歯に抵抗感を感じるのがとてもいい。なぜだかわからないけど、最近、辛すぎると食べられない。本当はコチュジャンの辛さに追い唐辛子をするのだけどやめた。それでも汗がぽちぽちと落ちてくる。ぽちぽちふうふう鍋。辛さの中に見えてくる人生儚し、だ。ここに沖縄のハブボールを2缶は飲み過ぎかな? 逆療法なのでこれもよしかな?
八王子綜合卸売協同組合、舵丸水産、クマゴロウはフグ調理師である。時季にはいつもフグを在庫として持っている。4月になれば、フグも終い、終いのフグと言えばヒガンフグである。関東で庶民的なフグの代表格はショウサイフグで、例えば松尾芭蕉が魚河岸の弟子達に分けてもらい(想像です)、「ふぐと汁」にしたのも、ショウサイフグである。ヒガンフグはショウサイフグよりも少しだけ上等なもの、と考えるとわかりやすい。余談になるがフグ科で高級といえるのはトラフグだけで、丸のままだと比較的安い。もちろん誰でも下ろせないということもあるが、安いけど安くないのは以下を読んでもらうしかない。未成熟な個体がお買い得で、成熟が進むと割高になる。ちなみに典型的なフグといえば、フグ科トラフグ属(の仲間)のフグである。トラフグは皮が無毒だが、ほとんどのトラフグ属のフグの皮は有毒だというのもおぼえておくといい。取り分け、トラフグ属のヒガンフグは毒が強く、可食部分は筋肉だけだ。また、関東でヒガンフグを「赤目フグ(あかめふぐ)」と呼び、同じトラフグ属のアカメフグと混同しやすいのも要注意だ。定期的にヒガンフグを買うのは歩留まりを見るためだ。丸のままのフグの多くの値段は平凡だが、可食部分からすると明らかに高級魚である。今回の個体は雌1.4kgで可食部分は680gなので、歩留まり50パーセント弱だ。
一般的に「たら」といったらマダラとスケトウダラの2種のことを指す。両種とも北太平洋の冷たい海域に生息、普段は深海にいるマダラは非常に大きくなり、全長1m以上20㎏ぜんごになる。スケトウダラは大きくなっても60cmどまりで1㎏くらいにしかならない。マダラは雄が高く雌が安い。スケトウダラは雌が高く、雄が安い。両種とも産卵前に盛漁期を迎え、マダラは白子が非常に高く、真子が安いからだ。スケトウダラの雌が高いのは真子が「たらこ」で、真子が非常に高いからである。ちなみにスケトウダラの白子はとてもうまいし、マダラの真子も工夫次第ではおいしいことも明記しておきたい。数年前、青森県陸奥湾入り口にある牛滝漁港に「入りだら漁(12月に陸奥湾に入ってくるマダラをとる)」を見に行ったが、雄はていねいに1入りの専用箱に入れられるが、雌はいきなりタンクに放り込まれる。だいたい地元の人も「雌は食わないな」、なんて親戚に分ける雄を選んでいたものだ。さて、やっと本題、今回は白子の話なので、マダラのことになる。青森県産マダラの白子を八王子綜合卸売協同組合、舵丸水産で買った。今季は非常に忙しくて驚いたことに、これが遅すぎる初白子であり、終いの白子となる。しかも買った日は、都心で打ち合わせなどをし、気がついたら深夜2時になっていたことだ。いつもは塩水で洗い、食べやすい大きさに切り、根元にある皮膜と血管をとるのだけど、今回は塩水で洗ってそのまんま昆布だしに酒・塩の中でことこと煮ながら食べた。切り分けないで放り込んだので、昆布の上で韓国風焼肉のように調理バサミで切っては食べる、なんて無風流な食べ方になった。でも口に入れば同じなので許していただきたい。ちなみに本体よりも、白子の方が流通上では主役というのはマダラだけだ。それほど白子は味わい深く、舌の上で脆弱に崩れてとろんと甘い。
神奈川県小田原魚市場、二宮定置にイシダイをわけていただく。ありがとう!イシダイは時季になると食べ頃サイズ、1.5kgから2㎏の同級生が大きな群れを作って定置網に入ってくる。イシダイは漁の盛期を迎える。春はイシダイの食い頃、かつ旬なのである。とまでは何度も述べている。3月半ばのイシダイ料理の続きだ。さて、三月後半になっても寒暖差が激しく、寒さが温かさに勝る日々、あたりの桜は蕾を一層硬くしている。とても寒くて、深夜などエアコンをつけてしまうことすらある。この寒さ故に作る鍋もそろそろ最後かなと思う頃となった。
八王子総合卸売協同組合、舵丸水産で、青森県産のホッキガイ(ウバガイ)を買った。なぜか? 色が面白かったためだ。ホッキガイは黒くて大きい方が高い。茶系は比較的安くて小さいのである。そして今回の青森県産は白だった。真っ白ではなく形態学(生物の形や構造などを主に扱う)の世界でよく使う、青灰色というのが当たっていると思う。青灰色で1個350g前後なので立派なホッキガイである。この色は撮影していないと思っただけでも買うのが、図鑑造りの臣の性なのである。青森県北浜は、本来は八戸あたりからむつ市までの太平洋側のことだが、ホッキガイ漁では八戸市から三沢市までの海岸線をいうようだ。前回、このあたりを寺山修司を思い浮かべながら車で走ったことがあるが、なんとなく暗いイメージだった。この白っぽい貝殻を見ている内に、もう一度行きたくなる。
この料理名を初めて聞いたのは、1980年前後のことだ。まだおんぼろシビックに乗っているとき、滋賀県安土あたりで大迷いに迷っていたとき田園のど真ん中で、地獄で仏、若い夫婦にやっと出会え、道を聞くことができた。二人は、弁当をつかっていた。ナビのない時代ならでは行き着いた人気のまったくない畑、もしくは水抜きした田んぼの周りは実にのどかだったし、きれいなところであった。「昼ご飯が食べたいので店を探している」と言ったら、近江八幡市の食堂の場所を教わり、少しだけ話し込んだ。ついでに梅干し入りのお握りを恵んでくれたのは、懐かしい想い出である。そのとき、「●●●なんとか入りの方がいいけど、もうない(意訳)」という話だった。この「●●●」が気になってしゃないけれど、やや塩加減のきついお握りのうまかったことの方が印象に残っている。それから30年後に、滋賀県長浜市余呉川で魚取りをしていたときに会った、聞いたことにはぜんぜん答えてくれない、語りまくるバアサマ達が、その「●●●●●●」のヒントをくれたのだ。要するにすき焼きの残りである。たった2名から聞いた話で判断してはいけないけど、このユニークな料理名が日常的に作られていて、残ったものをお握りの種に使うのは1人だけではない、ようだ。滋賀県ではすき焼きのことを「じゅんじゅん」という。牛肉で作ることが多いようだが、湖魚のイサザ(ハゼの仲間)、ナマズ、モロコ(ホンモロコ)、ウナギなどでも作る。「じゅんじゅん」と知り、自分でもで作り始めたのは、1991年に『聞書き 滋賀の食事』(農文協)に作り方が載っていたからだ。滋賀県の素晴らしいところは、この聞書きシリーズの後にも、日常的な食事の歴史と現状を調べ続けたことである。
25日に、八王子総合卸売協同組合、舵丸水産で買った石川県金沢港から来たブリは、28日の時点でほぼ料理し尽くし、食べ尽くした。あとは、切れっ端と、保存食や漬け魚しか残っていない。余談だが、脂の乗った魚の切り身は保ちがいいのである。確かに表面は酸化して色変わりするが、そこを切り落とせば使える。もちろん保存温度にもよるが、チルドで保存すれば、鮮度のいいものなら下ろして4日後でも、K値(魚の筋肉内のアデノシン三リン酸の分解の度合いで、高いほど鮮度が悪い)はあまり高くない。昨夜は切り落としたブリの身で、「ねぎぶ鍋」を作った。江戸時代に江戸の町で流行りに流行った「ねぎま鍋」のブリ版である。1月下旬は1年でもっとも寒い時季だ。ちなみに東京都多摩地区は都心よりも2、3度気温が低い。新年早々、医者から高血圧だと言われ、眩暈という病気持ちなので、今年はやけに寒いのが辛く、年齢からして一年でもっとも苦しいときを迎えている。しかも寸暇がない。一日のデスクワークを3時間刻みにして、間に居眠りをし、撮影と料理をすると、午後8時くらいにぼんやりできるときがくる。1月のこの時間帯こそが、ボクの「鍋どき」である。
カナガシラは北海道から九州まで、東シナ海のやや沖合いに生息している。東シナ海や本州などの底曳き網でときにびっくりするくらいたくさん揚がることがある。胸鰭が翼状であるし、同じホウボウ科のホウボウと似ているなと感じる人も多いと思う。違いはホウボウの体がすべすべなのに対して、体がザラザラしていることだ。頭部など包丁をはじくくらいに硬い。魚の名前には意味のわからない、直感的に使われてきたものと、その姿を明確に現しているものとがあるが、本種は後者で「金属のように硬い頭」という意味である。流通の世界では荷(発泡の箱)に「イ」と書いてあることが多い。仮名の頭(最初)がイロハのイだからだ。こんな文字が日常的に使われるほど、本種は流通上では当たり前の魚である。今回のものは八王子総合卸売センター、福泉にあったものだ。ありふれた魚ではあるが、産地が神奈川県横須賀市東部だったので思わず手が出た。横須賀市は東は東京湾、西は相模湾に面している。たぶん山口百恵の「横須賀ストーリー」とかから連想するのは東の東京湾側で、相模湾側は自然豊かな真逆のところである。東京湾のカナガシラが復活してきているのかも知れない。魚体はみな25cm以上ありそうである。とするとノミの夫婦なので雌ばかりだろう。ここ数日、咳が出る。悪寒がして、熱もありそうだ。頭に浮かんだのは鍋で、それで無意識に手が出たのかも知れない。頭が非常に硬いためとてもいいだしがでる。このだしで野菜を食べるのが風邪には持って来いだろう。下ろすとオレンジ色がかなり膨らんでいる。産卵が近いようなのに脂が感じられるのは、本種が産卵期に旬を迎えるためかも知れない。
神奈川県小田原がアカヤガラだらけなのは毎冬のことだけど、千葉県でもたっぷりとれているみたいだ。駅前のスーパーでも、隣の県の大型スーパーにも特売で並んでいる。新宿のデパートのぞいても同じ。みな下ろす前の姿を飾ってあるのは、正しいやり方だと思う。これで不気味だから買わないと思う人と、面白そうだから買ったみようと思う人がいそうだけど、食べなきゃ損、損だと思う。アカヤガラは魚の冒険への入り口といってもいい。そのとき、我が家には頂き物の1個体があり、細部を撮影して、ていねいに骨をバラして個々に撮影し、捨てるわけにも行かないので、下ろし始めたらやたらに寒い。窓の外の温度計は摂氏4℃くらいに見える、ので地面は氷点下だろう。当然、鍋しかない。問題はここ一週間でアカヤガラの鍋は4度目だということである。韓国風、ちり、ちり、ときて、今回は割り下鍋にする。割り下は醤油・酒・みりん・水を合わせて好みの味に加減したものである。差し昆布をしてもいい、というか、ボクは必ず差す。アカヤガラは鍋にするのがいちばん簡単で、いちばんうまいかも知れない。市販の鍋つゆで鍋という人も多いらしいが、そっちの方が簡単なら、それはそれでいいと思うな。さて、今回のアカヤガラはバラバラ事件の死体のようなので、肝も鳴き袋(鰾)も見当たらない。適当に筒切りにして湯通しする。氷水に落として表面のぬめりを流し、水分を切っておく。冷蔵庫に、必須である玉ねぎを見つけてほっとする。割り下鍋にはコンニャク(今回は糸こんにゃく)と玉ねぎがあればいい。鍋材料を他にもないかと探して、割り下を煮立てて、材料を適当に放り込みながら食べる。アカヤガラのすごいところは、いいだしが出ることと、上品過ぎるように思えて、意外にうま味が豊かで、ほんのり甘味があることだ。ちなみに割り下鍋の醤油を多めにして砂糖を加えて甘辛味にすると、とてもご飯に合う。意外に一升瓶赤ワインにも合うけど、今はないのが残念でならぬ。仕方がないので、これで缶ビール1缶。
金曜日の朝、探したのはサンノジ(ニザダイ)とメジナだった。箱根颪が体にじわじわと染みてくる。今夜こそは鍋だとだ決めたのは、メジナを連れて帰るつもりだったからだ。事実、日渉丸、ワタルさんのところに素晴らしいメジナがあった。これを競り落とした人に分けてもらおうと思ったら、ヤオマサのナイトウさんだったのだ。ついでにニザダイもナイトウさんが落としているではないか。ちょうどそこに漁協定置の草野さんが珍魚中の珍魚をくれた。まったく同定できない魚にメジナもニザダイも頭から吹っ飛んでしまったのである。このあたりがボクのダメなところだけど、それくらいの珍魚だったのだ。
ヒゲダイがいるからヒゲソリダイがいる。ヒゲダイは立派なヒゲがあり、ヒゲソリダイはほんのちょっぴりのヒゲがあるだけ。だから鬚剃鯛となる。このヒゲダイ、ヒゲソリダイの名とか分類は長年混乱があって、それはそれで面白いのだけど、ここでははしょる。外房以南の浅場にいる魚で、相模湾でも昔からとれてはいたが、固体数が少ないのか、めったに見ることが出来なかった。とれても小型が多かった。それが最近では量的にも増えているし、大型が増えた。関東の市場でも昔は珍魚のたぐいだったが、流通量が増えて、普通の食用魚となってしまっている。温暖化が顕著に感じられる魚ではないが、確実に温暖化で増えている、そんな魚である。初めて見たときは、イサキ科なのにイサキのようなスマートな体形ではなく、鯛型(体高が高く)で身が厚く、どことなく鈍い感じのする魚だな、と思ったものだ。デジタルカメラでの初の撮影は2004年で、広島県倉橋島の日美丸さんという漁師さんにいただいたものである。体長25cmくらいだったけど、関東ではめったに手に入らない魚だったので、ハッスルして120画像も保存してしまっていた。以後、イサキ科の主流はイサキのようにスマートではなく、鯛型でやや左右に分厚いということを知る。
10月になってもやって来ないマガキの剥き身の入荷の遅さにやはり異常気象のせいかな? なんて思っていた。市場で荷を見ているだけで、様々なことがわかるが、温暖化の足音が急激に大きくなったのもそのひとつだ。市場で見えてくるものは、温暖化が水産生物とか野菜に及ぼす影響だけではなく、人間が受けるダメージも見えてくる。今年は本来9月の後半にくるはずのパックの剥き身が10月の後半に来て、10月になって入荷が始まるはずのカンカンが11月になってやってきた。八王子という非常にローカルな地域とはいえ、今年のマガキは遅すぎる。関東の市場人はカンカンといえば広島、広島と言えばカキの剥き身が思い浮かぶ。考えてみると四国の人間であるボクなどは日常的にカンカンという言語を使うが、関東では、あまり聞かない。漢字にすると缶々かもしれないが、単純に缶ではない。ジュースなどを入れるのは缶で、煎餅や乾物を入れる大きいのがカンカンである。ジュースの缶は投げてもカンと音を立てるだけだけど、大きな缶はかんからかんと大きな音を立てる。その音を表しているのだと考えている。この本来西日本の言語が、関東でマガキの剥き身と同義語となっているのだ。カンカンの蓋を開けると、やけに小粒である。カンカンにも上中下があって、上の部類ではないのかも知れない。ただ小粒にも関わらず左程安くはない。剥き身には、少量を海水入りのパックにしたもの、透明の円盤条のプラスティックケースに入ったもの、そしてカンカン入りがある。個人的にはカンカンに惹かれてしまう。懐かしい感じがするからだ。八王子総合卸売協同組合、舵丸水産に来ていたのは『米田海産(広島県中央区江波の)』のもの。この会社のある江波は広島市の繁華街から遠からぬところにある。広島市のすごいところは大都市なのにマガキの産地でもあるところだ。考えてみると広島県のマガキが大阪市内に送られて、大阪の冬の風物詩、「かき船」が生まれている。広島のカキの歴史はやたらに面白そうである。カンカンからできるだけ大振りのものを選んでいたときには、すでにどのように食べるのか、決めていた。
東京都台東区には昔、40軒の豆腐屋があったという。それが今ではなんと4軒だけに。江東区の老人は(戦前なので1945年以前でしかも戦時体制深まる前)横丁を曲がると、豆腐屋、納豆屋のどっちかがあったともいう。いずれにしても今や都内の豆腐屋は絶滅の危機に瀕している。ちなみに24区内、特に下町の納豆屋は墨田区毛利にあった四ツ目納豆が最後で、絶滅したのではないかと思っている。さて10月27日に台東区稲荷町に『伊勢源』という豆腐屋を見つけて、木綿豆腐を買って今季初湯豆腐を食べた。考えてみると、ほんの20年くらい前まで下町で木綿豆腐というと嫌がられたものだ。ましてや絹ごし豆腐なんて言うと、一昨日来やがれ、と怒鳴られたことすらある。下町で買うのは「豆腐」であって、木綿豆腐とさえ言わなかった。
「トラフグの鍋」というと、どことなくしっくりこない。仕事をしていたときは年に一度は下町のフグ専門店でフグを食べていたが、店の隣の部屋が住居という庶民的な造りの割りにはお高くついた。養殖フグは食べないので、東京でうまいトラを食べるともなると、エイヤー! なんて気合いを入れないと暖簾をくぐれなかった。古く、日本橋魚河岸(東京市場)で「まふぐ」と言えばショウサイフグのことだった。「真」はもっとも普通の、その地でもっとも食べられているという意味でもある。たぶん松尾芭蕉の「ふくと(ふぐと)」もこの江戸時代の「まふぐ」だったわけで、敷居の低い庶民的な味でしかなかった。長年東京に高級魚トラフグは不似合いだったといえる。昔、大阪は南の平凡な居酒屋で、「二人前作りましょか?」と「てっちり」が出て来た。確か1人前1500円くらいだったと思うが、最初から値段がわかっているので、銘々1人前追加して、ついでに雑炊まで食ったのが、ボクの「てっちり」の最高峰かも知れない。ちなみに「てっちり」のよいところは他にいろいろ頼まなくても仕上げまで完備されているところで、結局安く飲めたことになる。さて、そんなトラフグ地図が大いに変わりつつある。漁場が北上傾向なのである。昔は玄海灘とか東シナ海とか山陰だったものが、今や三重県、静岡県、神奈川県を通り越して福島県でもたっぷり揚がっている。トラフグはもう西のものではなくなっている。その上、トラフグの相場は関東の方が安いようなのだ。実際このところ、千葉県銚子から安い天然トラフグがやってきている。これが12月の声をきくと味が断然よくなるのはいいとしても、値段もグンと跳ね上がる。庶民の手の届かないものとなる前にトラを食うのが庶民の知恵である。東京ではフグ調理師にみがいてもらわないと、食うことさえ出来ない。なんの意味があるんだこんな馬鹿げたこと、とは思うが仕方がない。八王子総合卸売協同組合、マル幸のクマゴロウがフグ調理師なのでやってもらうが、フグの取り扱いはより実質的に「フグの同定と毒の区別と除去」だけできればいいと思う。行政も漁業の現状を見るくせをつけなよ、といいたい。
島根県で作られている鍋ものに「へか焼き」がある。「いり焼き」、「煮食い」とも言う。魚を主役とした醤油味の鍋で、大阪の「魚すき」にあたる。兵庫県日本海側但馬地方の「じゃう」、三重県尾鷲市の「じふ」なども基本は同じで、このしょうゆ味の鍋は、日本各地で作られているのだろうと思われる。2008年、島根県大田市和江では、底曳き網でとれたばかりの魚を夕方に競りにかけていた。これを夕市(現在は廃止)という。底曳き網には様々な魚がはいるが、売っても高値がつかない魚や、カレイ類の若い個体(小型)で作るのが、「へか焼き」である。カナガシラ、キダイ、ソウハチガレイ、ヤナギムシガレイなど、使われる魚の種類は日々変わり、多彩であった。これを福島県相馬市原釜産のミギガレイで作ってみた。大田市和江の元組合長であった月森元市さんに教わったやり方は、鍋に水と醤油を煮立たせて、そこにとれたばかり、水洗いしたばかりの魚を入れて、煮えたそばから食べると言ったもの。必ず入れるのはこんにゃくで、野菜はあるものを使い、豆腐も好みで入れるという鍋である。
流通の世界も、水産業に携わる人達も、軟体類の同定はまったく出来やしない、ということを照明するために、大嫌いなネットでの買い物をする。あらためてふるさと納税の闇というか、ふるさと納税は犯罪そのものであることがわかったりして、勉強にはなった。それなりに買い込んだ、ホンビノスガイの処分に困ったが、実は本種はやたらに歩留まりが悪い。アサリやバカガイと比べると重さに対して食べられる部分が極端に少ないのだ。余計なお世話かも知れないが、この点からすると現在の価格は高すぎると思っている。しかもそんなにうま味が豊かな貝ではない。実際、ボウル一杯のホンビノスを前に食欲が湧かないのだ。ちなみに今回、ホンビノスを買い求めたのは北海道などのビノスガイやエゾワスレなどと言語的に混乱が起きていそうだからだ。ホンビノスは在来種と比べて魅力はないとは思うが、例えば在来種のビノスガイと比べると数段上なのである。ネット社会の価値観の構築はまだまだ先のようだ。改めて、一般流通の世界の大切さを痛感する。
最近、魚を見てきゃーとか大騒ぎするヤカラとか、究極の美味なんて意味不明のことをいうヤカラがいるが、このあたりの人間が気持ち悪くて困る。食用魚はあくまでも食用魚で日常食べるものでしかない。こんなに大騒ぎするから魚の消費が伸びない気がする。この点、韓国東海岸は、例えば名物を出す食堂で、アベック(今どきはなんていうんだろう)が名物を食べていても、至って普通で、ただ単にうまいものを食いに来ているだけという感じがとてもよかった。しかも韓国の方達は魚を食べるのが、もちろん見た限りであるけどとても上手だ。今回はタケノコメバルで、その韓国東海岸風(ボクの勝手な思い込み)の鍋を作る。あくまでも「ボクは」ということだけど、姿造りが嫌いだ。刺身がこのイカニモ的な状態で出てくるとガッカリする。口には出さないけど、低級だとさえ思う。韓国東岸、三陟市でたまたま見つけた海鮮食堂 바다횟집(パダフェッチッ)で、刺身をお願いすると、勝手に鍋がついてきた。これは三陟市だけの事ではないだろう。その鍋が非常においしかったのである。海辺の普通の住宅地だったので魚の種類は少なかった。韓国の特徴は刺身用の魚はすべて活魚だということだが、ブリのイナダサイズとクロソイしか泳いでいなかったので、この2種を刺身にしてもらう。刺身の他に何にしようと考えていたら、あらが見事な鍋になって出て来たのだ。刺身との時差がほとんどないということは刺身を造りながらあらの処理を同時にやっていたことになる。ボクはかねてより料理は見た目も大切だけど、合理的でなければならないと思っているので、さもありなんと喜びすら感じた。あまりにもうまいので、ソジュを飲みすぎてしまったくらいだ。韓国東岸では臨院(임원)でタラの鍋も食べているが、明らかにだしと塩だけの非常に単純なつゆであった。だしは節ではなく煮干し系ではないか、韓国は魚と獣肉のだしを合わせる文化があるようだが、東海岸では獣肉系の味はしなかった。でも何か、気がつかないものが加わっているようにも感じる。こんなことだって、調べる価値が大、大にある。また行きたい韓国、なのだ。
スーパーで魚を見ない、買わない人は水産学者もしくは水産研究家としてはダメだろう。水産物の今は最低限都会ではスーパーにある。定期的に通っているスーパーに本マグロのあらがあった。新潟産だとある。豊洲市場で日本海産本マグロ(クロマグロ)をたくさん見たばかりなので当然だとはいえ、うれしくなった。刺身用の冊ではなく、びっくり値段のあらを買う。1パックのあらで料理を3つ作ったが、春めいてきたとはいえ、冷え込む夜に作るのは「ねぎま」である。江戸時代、クロマグロの1m20cm(4尺)前後までは高かったが、それ以上、すなわち「まぐろ」は上流の嫌う脂がのっていたので安かった。庶民が手軽に購うことが出来た。これで作り出された料理が「ねぎま」だ。大型のクロマグロは江戸時代、江戸の町には駿河湾や相模湾、外房、伊豆大島でとれ、押送船(手こぎの早舟)などで送られて来ていた。江戸の町だけではなく甲府(山梨県)にも「まぐろ」は送られていたようだ。今にみる山梨県のマグロ好きは江戸時代に源を発していたのだ。当然、「まぐろ」イカだけではなく、「まぐろ」も生でも食べていたと思っている。ただ、残念なことに江戸の書籍にカツオの生食である漬けやたたき(湯引き)、鱠はあっても、「まぐろ」は出てこない。「ねぎま」は醤油仕立てでネギ(葱)と「まぐろ」で作った汁、もしくは鍋だ。基本的に割り下で煮ながら食べる鍋、もしくは汁にする。寒い時季なので鍋にしたが温かくなると汁に替える、というのが江戸時代などの決まりだったかも知れぬ。割り下は今回は砂糖抜き(入れる入れないはご自由に)でみりん・酒・醤油・水をちょうどいい加減に合わせて一煮立ちさせたもの。あらは血合いの少ないところを適当に切り、ゆどうしして冷水に落として粗熱を取り、水分を切っておく。ねぎは鍋の深さに切るだけ。後はことこと煮るだけ。煮るとほろっと柔らかく、筋がぷるんとして滋味豊かな味がする。煮えたねぎがやたらにうまい。酒は菊正宗純米樽酒で、冷やさない冷やでやる、
千葉県内房竹岡産に味をしめたので、地元、八王子の市場で、こんどは活け締めのクロダイを買う。産地不明で1.5kgもある。刺身にして、煮つけにして、塩焼きにしてと食べて、おいしいにはおいしいものの、味ではひとまわり小さい竹岡産に軍配が上がる。やはり活魚がいいのか、もしくは卵巣の膨らみは今回の方が大きく、そこに味の優劣が出たともいえる。春のクロダイは生殖巣の成熟度で味が決まる。あまり成熟が進んだものはおいしくない。2月もあと数日という日である。昼間は暖かいが、朝夕は寒い。まだまだ冬の鍋がよいと、鯛は鯛でもクロダイで「鯛ちり」にする。「ちり」は関西の料理だろう。同じく山陽、四国の一部では同様の鍋を「水炊き」という。昆布だしに酒・塩の単純な味つけの汁で煮ながら食べる。素材そのものの味が楽しめる。「鯛ちり」の「ちり」は、汁に魚の切り身を落とすと、ちりっと縮むので「ちり」だというが、個人的には素材を「いろいろちりばめた」ので「ちり」だと考えている。
「じふ」は三重県西部・東紀州の、紀伊長島や尾鷲で作られている家庭料理である。地元の漁港で水揚げされる様々な魚で作られているが、言うなれば魚のすき焼き、大阪などの「魚すき」と同じものだ。尾鷲市の家庭で比較的使われる頻度の高い魚は、マサバ、ゴマサバ、サンマ、マンボウ、ブダイ、マダイ、ブリ、サワラなどだというが、あえて言うとなんでもいいのだという。季節季節に揚がる魚が、臨機応変に使われているようなので、鍋ものとはいえ寒い時季だけのものではないようだ。「じふ」という奇妙な名は、石川県金沢の「じぶ煮」や兵庫県但馬地方の「じゃう」に音が似ていて、料理法も「何かを煮る」、もしくは「煮ながら食べる鍋」という意味で共通している。また名前は違えど、同じ料理に大阪府や兵庫県などの「魚すき」、島根県の「へか焼き」、「煮食い」などがある。ともに水産物の産地だからこそ生まれる、料理だと考えてもいいだろう。協力/岩田昭人さん(三重県尾鷲市)
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