
関連ページ・お昼ご飯は納豆なめろうぐちゃぐちゃ・納豆の上にアジのたたきののっかっている肴(▼本ページ)かなり前のことだけど、納豆と「マアジのなめろう(みそたたき)」を何気なくいっしょくたにして、ぐちゃぐちゃにしたら滅法うまかったということを書いた。さて、疲れたとき、テレビをザッピングして、脳みそを空にしているが、ボクと無関係のスポーツばかりやっていて、ザッピングしてもスポーツだし、ザッピングしてもスポーツなので、必要なとき以外はテレビのコンセントを外している。普段は枕元に100冊以上、トイレにも数十冊置の本を置いて、とっかえひっかえ読んでいる。「納豆なめろうぐちゃぐちゃ」を作ってほどなく、山口瞳のエッセイ、『男性自身 暗がりの煙草(1967-1968))』中の「考える人」を読んでいたら、以下の文章に行き当たった。〈あるとき、(居酒屋で)私は、納豆のうえにアジのタタキののっかている肴で飲んでいると、……〉以下、内容はどんどん料理から逸れていく。昔、築地場内の老人に「オリンピック(1964年/昭和39年)の後に、マアジの値段がぐんと値上がりした」、という話を聞いている。なぜか? それまで生で食べなかっマアジを生の、「たたき」で食べるようになったためだ。「たたき」は神奈川県小田原の郷土料理で、細かく切ったアジの身とねぎなどを和えて、包丁でとんとんとたたいたもの。小田原の人が都内に伝えて、一気に広がったのだと言う人もいる。大岡昇平『少年(1975)』にも戦前のエピソードに出てくるので、東京都内では「小田原に行ったらアジのたたき」だったのかも知れぬ。あくまでも関東周辺の都市部での話だが、山口瞳の文章の「アジのタタキ」は重要な文章記録でもある。

渋谷西部B館地下に反応する人が今やほとんどいなくなった。ほとんど通っていた、ごとき場所だった。ある日、雑誌『話の特集』のコーナーに、和田誠のイラストがいくつも飾られていた。好きといったら、山口瞳か和田誠か、というボクなので学校の行き帰りに寄り、絵本を一冊買った覚えがある。そのとき流れていた曲は今でも覚えている。山口百恵の「夢先案内人」(1977年)でボク以上の唐変木な相棒(深刻な活字中毒者)が曲名を知っていたのでビックリしたんだった。新曲として流れていたので、和田誠展のようなものが行われていたのは、間違いなく1977年だ。前置きが長くなったけど、そんなボクなので今回の本、和田誠『銀座界隈ドキドキの日々』は単行本で買い、文庫本で買い、それをなくしてまた買い、と3度も買っている。そして今回が4読目だ。

ボクは常々、気になる歴史上の話をテキスト化している。知らないと思ったときは、知らないことを調べて、どこまで知らないのかを知る、のがボクのモットーである。両国についてのボクのメモ。現在、隅田川の西の中央区東日本橋と、東の墨田区横網町にかかる橋を両国橋という。隅田川には頼朝が下総から江戸に渡るときには湿地帯で進軍が難しく、当たり前だが橋がなかった。橋が架かったのは徳川家が江戸入りしてからだ。江戸に最初に出来た橋は江戸時以前、徳川家康が江戸入りしてすぐかけられた千住大橋。次に作られたのが万治2年(1659)の両国橋だ。作られたとき隅田川の右岸、江戸と、隅田川の左岸、下総に架かる橋だったので、両国に架かる橋という意味で両国橋となる。このとき両国という地名も生まれる。現在、国技館のある方は有名な両国ではなく、東両国で、江戸時代は両国というよりも本所と考えられていたのではないか。本来の両国は東日本橋と地名変更されてしまっている隅田川の右岸である、意外にこちらこそ両国なんだと知る人は少ない。

●本ページは改訂を繰り返します。ボクは常々、気になる歴史上の話をテキスト化している。知らないと思ったときは、知らないことを調べて、どこまで知らないのかを知る、のがボクのモットーである。さて、最初は吉良上野介から。吉良上野介(義央)は、高家旗本(儀式や典礼などを司る家)で、先祖は足利一族で源姓である。官位は高いが禄高は低いのも特徴かも。赤穂事件(殿中刃傷事件)は元禄14年(1701)、徳川綱吉のとき、江戸城松の廊下で浅野内匠頭(長矩)が吉良上野介(義央)に切りつけたという事件である。朝廷からの勅使をもてなす宴の最中であって、浅野内匠頭は勅使饗応役を努めていた。浅野内匠頭は不届きとして即日切腹させられる。高家(吉良家は上杉家とともに、足利時代以来の名家で高家はこの名家から選ばれる)はこの饗応の指南役であり、いうなれば勅使饗応役を補佐していたことになる。翌年元禄15年(1702)旧暦の12月14日に赤穂浪士(浪人)47人に本所松坂町の屋敷に押し入られ、吉良上野介は多数の家来とともに殺される。吉良上野介は1641年生まれなので59歳、浅野内匠頭は1661年生まれなので39歳であった。間違いなく事実だと確認できることは以上だけである。ついでにもうひとつ、事実をつけ加えると、徳川家康以来、家綱あたりまで、新年の登城を始め、幕府の儀礼が極端に細密化されていたことである。浅野内匠頭はこの幕府が意図して複雑にした儀礼についていけなかったのではないか。これが憶測が憶測を呼び、デマが飛び交う。刃傷に及んだ原因は吉良上野介が浅野内匠頭にさまざまな嫌がらせをしたからである。製塩技術に関してのいさかい。以上は事実としてどこにも残っていない。歴史上のデマである可能性が強い。一連の事件に対し喧嘩両成敗の方に反する。これを決するのは徳川綱吉と幕閣であり、すべての騒動に当てはまるわけではない。幕閣の意向に反して吉良上野介ができることはない。長男である三之助の上杉家への養子での陰謀説。吉良家と上杉家は血縁ではないが同族とみなしてもいいので、婚姻などは良識の範囲である。しかも当時、上杉家との関係を深くして得する部分はほとんどない。長男を上杉家に行かせるなど、火中栗を拾うといったもので吉良家にとって負の方が大きい。現在の考え方からすると、吉良上野介はどこから見てもただの被害者である。その上、吉良家は取り潰しになり跡継ぎの義周は事件のあとに悲惨な運命をたどる。この大量のデマのもとは仮名手本忠臣蔵が当たり狂言となったためだ。忠臣蔵のもとになった仮名手本忠臣蔵のエピソードはすべてフィクションでしかない。無関係な宝井其角が登場するなんて、バカらしくて笑う気にもなれない。それでも忠臣蔵が持てはやされるのは面白いからだろう。面白ければ無実の人間を悪人にしてもいいのか? と問いたい。

小説など活字となった文章の中の「カキフライ」を見つけてはつけ加えていく。できるだけ時代順に並べる。まずはカキフライとは?カキフライが生まれたのは日本だと思っている。海外にカキフライもしくは似た料理があるのかどうかはこれからの課題。カキフライはカキの剥き身(マガキ)にパン粉をつけて揚げたもののことだ。同様の料理にはエビフライ、とんかつ(カツレツ)などがある。「カキ(マガキ)」はわかるが、「ふらい」は揚げるという意味。揚げるは、英語で「Fry」、フランス語で「frire」でここから音をとったと思うべきだろう。「とんかつ」の「かつ」はフランス語のコートレット(côtelette)からきているとされている。コートレットが「カツレツ」にも変化する。なぜか、マガキのフライを「かきかつ」とは言わない。海産物は、エビフライにアジフライ(マアジ)、魚のフライ(切り身)とフライ。陸上動物はトンカツ(豚肉)、牛カツ(ビーフカツとも)、チキンカツとカツである。フライもカツもパン粉をつけて揚げるという意味で同じだが、料理店で使い分けることにしたのだろうか。カキフライを最初に作ったのは、今銀座で健在である『煉瓦亭』だとかの説がある。『煉瓦亭(明治28年/1895)』は「とんかつ(カツレツ)」発祥の店だとされている。そしてマガキを使った「カキフライ」も、である。ボクもカキフライは大好きで日本橋周辺で仕事をしていたとき、10月になると高嶋屋裏によく通ったものだ。ちなみに徳島県美馬郡貞光町(現つるぎ町)生まれの田舎者が、カキフライを初めて食べたのは上京してからのことだ。あまりにもおいしいのでショックを受けた記憶がある。

ボクの生まれた徳島県美馬郡貞光町(現つるぎ町)には、何軒もの「食堂」があった。小学生だったボクが歩いて行ける範囲にも4軒あったのではないか?家族だけではなく町内の人で、「食堂」という人はほとんどいなかった、もっぱら「うどん屋」である。例えば「飯田食堂(写真の)」という名があっても、「飯田のうどん屋」だった。同級生の「食堂」の子供は「うどん屋の子」と呼ばれていが、これはボクが「からっちゃ(唐津屋)の子」と呼ばれてたのと同じだ。この「食堂」を「うどん屋」というのは大阪も同じだったようだ。宮本輝が1977年デビュー作「泥の河」で太宰治賞を受賞し、1978年「螢川」で芥川賞を受賞する。単行本『螢川・泥の河』が出たのは1978年で、東京都千代田区神保町、東京堂書店に積まれていたのを、すぐに手に入れた。当時は大阪というところが今以上にわからなかった。「泥の河」の舞台は淀川が毛馬水門から枝分かれして南流する。大川と名を変えるが、実はこちらの方が本来の淀川である。流れは堂島にぶつかり一度分かれる。北を流れるのが堂島川、南が土佐堀川だ。その両川が再び1つになり、安治川になる。このひとつになるところの南岸が「泥の河」の舞台である。ここは大阪に行くたびに寄る野田の大阪中央市場の南であり、過去に大阪中央市場から船津橋をタクシーで渡って、この舞台の近く、 江之子島の雑喉場魚市場跡碑まで行ったことがあるが、コンクリートだらけで灰色の世界がまさか「泥の河」の舞台だとは思わなかった。主人公、信雄が自分の家、「やなぎ食堂」を指差して、「僕の家、そこのうどん屋や」と言うのである。きんつばを焼き、うどんもあるし酒のつまみもある、多様であることが「食堂」の定義だとされているが、これは東京だけの話だ。大阪では今でも、中華そばがあってもオムライスがあっても、「食堂」ではなく「うどん屋」なのかも。「泥の河」で重要な、土佐堀川にかかる端建蔵橋(はたてくらばし)のたもとに行ってみたい気がしてきた。ただし、端建蔵橋は工事中らしい。

『越後名寄』は非常に重要な書であるが、水産生物もしくは地誌、歴史の豊富な知識を持たない人間には意味のないものである。ただし、本書を丹念に紐解くと、江戸時代の越後という土地柄がもちろんほんのわずかだが見えてくる。また本書に関してはネット上での閲覧が可能である。著者の丸山元純(天和2/1682-宝暦8/1758)は越後長岡藩(牧野家)内の医師の家に生まれ、越後寺泊で医師として暮らす。徳川綱吉から吉宗、家重と比較的安定した時代を生きる。『越後名寄』(宝暦6年 1756年)は越後の地誌である。江戸の文化史としては平賀源内以前であることも重要であるし、化政期以前になったことにも意味があると思われる。明らかに本草綱目の影響下にある『和漢三才図会』(正徳2年 1712)に習って、越後という地域の地誌を網羅したものと言えるだろう。全三〇巻の大著だが水産生物的には、巻二四、二五だけとみていい。また呼び名などでは、『物類称呼』(越谷吾山著 安永4/1775)以上に重要である。■本コラムは、じょじょに改訂していく。本書の重要性を教えていただき、閲覧を許可していただいた、上越市公文書センターには大いに感謝。

七番日記(文化一二年/1815)ゑぞ鱈も御代の旭に逢にけり〈訳/蝦夷地で獲れた鱈もこのありがたい御代の旭に逢えたことよ。年/文化十二(1815)。解/蝦夷地の鱈も、ありがたい御代に会えたよ、と誇らしげ。……〉玉城司(国文学者。1953〜)現代語訳。小林一茶(宝暦13年/1763〜文政10年/1828)は信濃柏原(長野県上水内郡信濃町)に産まれる。安永六年(1555)、15歳で江戸へ奉公のために出る。文化十一年(1814)、52歳で生家の2分の1を相続する形で柏原に戻る。中農ということから自作農であり、田畑土地建物を所有したと考えていいだろう。「ゑぞ鱈」は蝦夷地で獲れた鱈なのでマダラだろう。当たり前だが乾物の棒だら、もしくは塩蔵ものとなる。北前船で松前、蝦夷地から送られて来た。なぜ、小林一茶はこれを「ゑぞ鱈」としたのだろう。柏原生まれなので、小林一茶にとって鱈といったら近い産地、越後で上がった介党鱈(スケトウダラ)のことだ。これは新潟県上越地方から現在の長野県北信地方までが、スケトウダラ食文化圏であることからも間違いないことだと思われる。

〈目黒不動尊の参拝をかねて、鷹狩りに出かけた松平出羽守(出雲松江藩藩主)。「下総の下人どもが食(しょく)いたします俗に下魚(げうお)と唱えまするものゆえ、高位の君があがるものではございません」という進言を無視して、近所の百姓家でさんまを食べたのだが、さあその美味さが忘れられない。翌日、殿中の溜の間で諸侯を前にこのはなし。これをきいた黒田筑前守(筑前国福岡藩主)が早速に家来に申しつけ、房州の網元からさんまを取り寄せたのだが、御膳奉行が「塩の強い、油のはなはだしきものをあがりつけないお上ゆえ」と、塩と油気をすっかり抜いてさし出したから美味いわけがない。あくる日、出羽守をつかまえると、「まるで木をゆで、かんでいるようなもの」「まずいとおっしゃるが、ご貴殿さまはいずれから……」「家来に申しつけ、房州の網元から」「黒田候、それは房州だからまずい。さんまは目黒にかぎる」〉『目黒のさんま』矢野誠一の『落語長屋の四季の味』(文春文庫)に出てくる。先月なくなった矢野誠一のエッセイや評論はすべて我が家にある。落語はそんなに好きではないというか、時間がないのでじっくり聞いていられないのだけど、矢野誠一の文章は好きでならない。矢野誠一の死で「東京やなぎ句会」は全員が冥土に旅立ったことになる。ひとつの時代が終わったのだ。■銚子産の丸干し。少し黄ばんでいるが、江戸時代、明治時代にはもっとくすんだものだったはず

〈鰯こしらいとくれ、鰯を。南風が吹いてるんだよ、ぽかときているんだよ、腐っちまうよ、い、わ、しッ〉五代目、柳家小さんが得意としていた、『猫久』という話の一説である。ここに出てくるのが、「鰯のぬた」だ。矢野誠一の『落語長屋の四季の味』に出てくる。先月なくなった矢野誠一のエッセイや評論はすべて我が家にある。落語はそんなに好きではないというか、時間がないのでじっくり聞いていられないのだけど、矢野誠一の文章は好きでならない。矢野誠一の死で「東京やなぎ句会」は全員が冥土に旅立ったことになる。ひとつの時代が終わったのだ。さて、時代は不明だが、「猫久」には髪結床が出てくるくらいなので、江戸時代を設定としているのだろう。昼飯のおかずに、亭主の熊さんが鰯をおろして、女房がみそをすり鉢ですり、酢みそを作るのが「鰯のぬた」だ。髪結床から帰って来たばかりの熊さんに女房が早く鰯をおろせとせっつく。言われた熊さんが、髪結床で聞いた話を話している隙に、猫がやって来て鰯をくわえていく。落ちはわかりにくいが長屋の風景が浮かんでくるようである。せっかくなので鰯(マイワシ)を買って来て、手開きにする。振り塩をして少し寝かせ、酢で一度洗ってそのまま少し置く。水分をきり、酢みそをかけてご飯ではなく、酒を一合。鰯のぬたで酒を飲みながら矢野誠一のエッセイを読む。

1944年、『松尾食堂』での話である。鎌倉に河岸(魚河岸?)があったらしいということも、非常に興味深い。〈……たまに麺米や平貝が俵で配給された時は、「平貝丼」——貝殻を割って取り出した生のままを5ミリ位の厚さに切り、煮立ったお醤油の中に、さっとくぐらせ、麺米の丼飯の上にならべる——を昼食に出しました。……平貝は現在出廻っているくにゃくにゃとやわらかい物と違い、逗子や鎌倉でとれた物でしたから身がこりこりと硬くしまっていて、大きな真黒な貝を割るのは大変でしたが、それはとてもおいしいものでした。〉「麺米」は資料ではみたことがあるが、実際には知らない。乾麺を細かく切って米粒のようにしたものとある。ゆでてご飯代わりにしたのだろう。それにしても逗子、鎌倉で平貝(タイラギ)が俵に入れて配給するくらいとれたというのは、信じられない話でもある。この湘南の海が今では開発が進み、いかに生き物の棲めない窮屈な海となっているかがわかる。タイラギの貝柱を取り出して、5ミリ前後に切る。これを煮立った生醤油につけて、炊きたてのご飯にのせる。さすがに麺米は探す気にもなれなかった。現代版「平貝丼」である。日本列島すべての人が不幸であった戦時中のことを思うと、申し訳ない気持ちになるが、ご飯に乗せて作る「平貝丼」は素晴らしい味である。みりんや酒を使わずにタイラギだけなのに、強い甘味が醤油にも感じられるのは、貝柱からにじみ出てきた甘味である。酢飯ではなく、ご飯というのがいい。

『松竹大船撮影所前 松尾食堂』(山本若菜 中公文庫)は単行本としては1986年のもの。神奈川県鎌倉市大船、撮影所前にあった『松尾食堂』の歴史でもあるが、ここには松竹大船撮影所の歴史というか映画の歴史がある。食堂という場所でなければ見られない映画監督、俳優の、地の部分が垣間見えるのも面白い。文章の中に少ないながら料理の変遷や料理名の変化が見て取れる。

(五月×日)……「少女」と云う雑誌から三円の稿料を送ってくる。半年も前に持ち込んだ原稿が十枚。題は豆を送る駅の駅長さん。一枚三十銭も貰えるなんて、私は世界一のお金持ちになったような気がした。———詩集なんてだれもみむきもしない。間代二円入れておく。おばさんは急に、にこにこしている。手紙が来て判を押すと云う事はお祭のように重大だ。三文判の効用。生きていることもまんざらではない。急にせっせと童話を書く。みかん箱に新聞紙を張りつけて、風呂敷を鋲(びょう)でとめたの。箱の中にはインクもユーゴー様も土鍋も魚も同居。あいなめ一尾買う。米一升買う。風呂にもはいる。大正13年(1924 元号は嫌いだけどわかりやすいので)に林芙美子(明治39〜昭和26年)が本格的に上京して、関東大震災をへて、昭和初期までに書かれた文章である。昭和3年(1928)、長谷川時雨(明治12年生まれ)に見出される以前と以後数年の話だと推測する。

作家、山口瞳(1926-1995、東京生まれ)の文章にしばしば登場するのが「鰹の中落ちの煮つけ」である。山口瞳は行きつけの東京都国立市、国立駅前の『繁寿司』で土産にもらうのも「中落ち」だし、銀座の『鉢巻岡田』で食べるのも「中落ち」である。「鉢巻岡田の鰹の中落ちを食べなければ(私にとっての)夏が来ない」小説家以前にコピーライターだった山口瞳らしい文章だが、正直そう思っていたのだと思っている。また『繁寿司』でもらった中落ちは自宅で奥様が料理していたことなどから、本当にこの素朴な料理が好きだったのだと思う。

『私の浅草』(沢村貞子 1976初版 暮らしの手帖社) は主に大正時代の話である。関東大震災以前の東京市浅草猿若町での実生活を垣間見ることが出来る、非常に貴重な書籍だと思っている。町奉行遠山金四郎は天保12年に水野忠邦の芝居小屋廃止を受けて、廃止ではなく浅草猿若町への移転にとどめた。浅草猿若町は山谷堀に近く舟運があり、吉原に近い。江戸三座の移転場所をここに決めた、遠山金四郎のすごみを感じる。守田座、中村座、市村座があったが、昭和になり、守田勘弥などが、江戸下町(現中央区)に新たな芝居小屋を作る。有楽町にも多くの劇場が出来て、猿若町は廃れてしまう。芝居小屋が消えたあと、住宅と川魚店も含む商売屋の並ぶ町になる。やがてここに沢村貞子の父で狂言作家、加藤伝九郎と母、まつ、兄・澤村國太郎、弟・加東大介の一家が同浅草馬車道から移転してくる。それでも浅草に芝居小屋はいくつか残る。加東大介が子役として活躍した、宮戸座もそのひとつだ。また当時、浅草はオペラやレビュー、映画など芸能・歓楽の町であった。澤村貞子(旧姓加藤貞子(ていこ)→大橋貞子 1908-1996年/明治41〜平成8年) は浅草千束町生まれ。→2才のとき浅草馬車道→小学校に行くときに浅草猿若町(現浅草6丁目)に引っ越す。非常に見た事をそのまま、なんのてらいもなく明解な言語で表現している。ある意味、天才的な文章家といっても過言ではない。林芙美子、武田百合子、沢村貞子の文章にはどことなく共通点がある。ともに資料的な価値もある。おふくろの味 鰻 〈背中合わせの川魚屋でメゾッコという小さい鰻が格安の日は、バタバタと七輪でいい匂いをさせて、鰻どんぶりの大ご馳走になる。母の財布がペシャンコの日は、おからを脂でいためて、ソースをかけ……〉。文章の流れを読む限り猿若町の頃だろう。ここは隅田川に近く、北東に山谷堀がある。ここに川魚屋があり、メゾッコ(小さなウナギ)が売られていたことがわかる。(『私のあさくさ』(沢村貞子 平凡社 2016 P44))みそ汁 〈甘味噌と辛味噌を適当にまぜて、すり鉢でゴリゴリすって、味噌こしで濾して——だしは雑魚を放りこんで——〉。雑魚はカタクチイワシの煮干しと考えていいのではないか。(『私のあさくさ』(沢村貞子 平凡社 2016 P75))

〈お母さんは、子供にどんどん自己流のヘンなものを食べさせるべきだと、私は思う。〉『木皿食堂』(木皿泉 二葉文庫)が、好きで、この部分だけなんども読み直している。すごいな、とか、いい言葉だな、とかではなく、本当にそうだと思っているためだ。食通とかこだわりのある人は、ボクには異星人に思える。たぶん冥王星よりも遠い星の人、M78星雲のもっと遙か彼方の人かも知れない。別にいたとしても気にしなくていいと思うけど、そんな異星人に惑わされず、自分自身に立ち返れといいたい。自分自身が本当に好きなもののこと、本当に知っているんだろうか?だいたいボクの嗜好、好みはコロコロコロとローリングストーンなのだ。ぜんぜん一定の好みというか“好き”がない。辛いのが好きなときがあったが、今現在はちょっとだけ辛いくらいがいいし、煮つけは去年まではあっさり味つけていたのに、今年はこてっこってなのである。みりんと砂糖を両方使うと、たとえばみりんを2倍入れるよりも甘くなるので両方使いしている。去年のボクが食べたら、甘過ぎらいバカヤロウ! と思うくらいに甘い。最近、魚屋に言わせると、煮つけを敬遠してカレイが売れないそうだ。お客に聞くと上手に作れない、と答えが返ってくるという。バカ言ってんじゃネー。それでいいのだ。煮つけは失敗してこそ上手になる。上手にならなくても失敗は人生の糧になる。食べられないくらいまずい魚の煮つけを作れる人は、逆に考えると料理の天才ではないだろうか。木皿泉ではないが、ヘンな料理の方が心に残る。心に残る料理を作ろうぜ。

江戸時代の飲食店の出現は貨幣の歴史でわかる。特に高級な食べ物であったウナギが一般人にとって馴染み深いものとなるには貨幣の創銭・改鋳があってこそなのだ。先日から寛永通宝を探して骨董市を歩いた。寛永通宝は江戸入り後、特に徳川家光時代、渡来銭(当時銭は中国から輸入していた。12世紀の最初の輸入銭である宋銭と平家の関係は重要。明銭は江戸時代初期の小額通貨だった)からの脱却を目指して作られる。寛永通宝は後に幕府だけではなく各藩で鋳造されてより経済が発展する。ただし100文の買い物をするためにはこの重さ4gの1文銭を100枚(400g)持ち歩かなくてはならない。銭緡(ぜにさし)といって100文の銭を1まとめにする仕事があり、賃金が4文(銭緡をした人の取り分はこの何割か)だったので、実は1緡96文だった。割れ銭などを選別しながら数えて100文を緡(さす)のは以外に大変だったかがわかる。

明治三十三年(1900)十月十五、正岡子規は死の2年前であり、寝返りはおろか仰臥するか体を左に向けておくのが精一杯になる。そんな状態にあっても日光が窓に差し込んでくると、〈午時(正午)は近づきたり〉と飯を待つ気持ちが募るのが子規らしいところだ。ほどなく母、八重が長方形の膳に飯、一汁一菜をのせて来る。〈あたたかきやはらかき飯、堅魚の刺肉(さしみ)、薩摩芋の味噌汁の三種なり。皆好物なるが上に配合殊に善ければうまき事おびただし。飯二碗半、汁二椀、刺肉食ひ尽くす〉地獄のような苦しみを感じながら綴られる、正岡子規の文章の簡明さに恐れ入るしかない。さて、薩摩芋の味噌汁は学生時代に正岡子規の文章で知っていたことを、フロッピーを変換して判明した。記憶力が悪いのでいつもお初だと思ってしまう。ちなみに堅魚(カツオ)の刺肉と薩摩芋の味噌汁はとても合う。確かにこの組み合わせで食う飯はうまい。カツオは1900年にはまだ魚介類を氷で冷やしていなかったことからして、千葉県銚子産で舟運を使って一晩で日本橋の魚河岸に持ち込んだものだろう。このときすでに利根運河は完成しており、江戸時代以来の大動脈は関宿町まで北上しなくてよくなっている。ちなみに当時、新暦の10月は比較的涼しかった。群馬県や東京都多摩地区で初霜の降りる時季だ。相模湾からでも千葉県からでも、カツオを生の状態で運べる期間は春と秋に限られていたのである。秋のカツオを正岡子規が食べられるのは明治34年を残すのみ。『飯待つ間』(岩波文庫)

明治22年(1889)4月はじめに正岡子規(正岡常規・昇)は水戸に向けて歩行にて旅に出る。江戸川を渡って松戸駅(鉄道の駅ではなく宿と同じ)にいたり、そのまま足を伸ばして小金駅をこえる。12時近くになり草の屋で昼食をとる。〈我等を迎へしは身のたけ五尺五、六寸、体重は十七貫をはづれまじと覚ゆる大女なり。「菜は焼豆腐とひじきと鮫の煮たると也、いづれにやせんと問う。……」、さらば鮫にせんと……。一きれ食へば藁をくふが心地に吐き出したるに……〉場所は現、常磐線北小金駅あたり。サメの食べ方は東京都以北で煮つけ。三重県以南太平洋・瀬戸内海・九州で湯引き(ゆでる)だ。サメの種類も北はツノザメ科のアブラツノザメ、ネズミザメ科のネズミザメなど。南は主にドチザメ科のホシザメ・シロザメ・ドチザメ、カスザメ科のカスザメ・コロザメ、オオセ科のオオセ、エイになるがサカタザメ科のサカタザメ・コモンサカタザメなど多彩である。(日本海側や中国地方山間部のサメの食文化にはここでは触れない。)今現在も南北でサメの食文化が異なっている。常磐線開通前の水戸街道小金駅あたりで正岡子規が食べたサメは沖合いにいるネズミザメではなく、より岸近くにいるアブラツノザメと考えるべきだと思っている。

1970年前後、マアジの価値を上げたとされているのが、「あじのたたき」である。神奈川県小田原市周辺の料理で、「あじのたたきなます」ともいう。マアジを三枚に下ろし腹骨・血合い骨を取り皮を聞く。これを細かく切ったものである。「みそたたき」、「なめろう」との違いは、サイコロ状の形が残った状態であること、味つけしていないところだ。しょうが、ねぎやみょうがなどの香辛野菜を使うなど徐々に変化しているが、もともとは漁師が船の上で作っていたものだ。一説に釣りのとき、コマセ(寄せエサ)がなくなり、釣れたアジ(マアジ)を細かく叩いてコマセに使ったとき、つまんでみたら美味であったので、作るようになったとも。小田原と東京との繋がりは深く、この「あじのたたき」が東京でも作られるようになり、あっと言う間に都内全域に広がる。■写真はもっとも基本的な「あじのたたき」。

谷崎潤一郎(1886-1965)の短編、「東京をおもう」(1934)に、「(東京から)遠く離れているときには、馬鹿貝の附け焼が恋しくなったり柱の山葵醤油が無上にたべてみたくなっったりする」というのが出てくる。蛎殻町(現人形町)に生まれ、明治時代に幼少時代を送る。父親は生粋のとまではいかないが江戸っ子で、江戸前の魚を食卓に上げていたようだ。当然、「馬鹿貝の附け焼」も柱(バカガイの貝柱)も、江戸時代からの家庭の味である。東京の下町で食べられていたという「馬鹿貝の附け焼」とはいかなるものだろう? 作ってみれば谷崎潤一郎の、東京の味への思いがわかるかも知れない。【話の寄り道。東京でバカガイのことを「青柳(あおやぎ)」と呼ぶようになったのは、そんなに古い話ではないのかも知れないと考えている。もしくは呼び名として主流ではなかった。築地場内(現豊洲)においても貝屋では「バカゲェ」という言葉が生きていて、青柳は小物屋が使う言葉であった可能性がある】作り方といっても複雑なものではない。たて(剥き身)を買って来る。もちろん活け(殻付き)があればいいに越したことはない。薄い塩水のなかで砂などをていねいに落とす。水分をよく切っておく。これを強火で焼き、酒・醤油のたれを塗りながら仕上げる。

昔、千葉県勝浦市へスルメイカ乗り合いに乗ったとき、荒天でなんと客はボク一人だった。今ではケータイがあるからドタキャンできるけど、海が荒れていると宿泊して翌日に出るということがあった。泊まっていろんな魚話を聞いたとき、ボクがクロダイ釣りで勝浦に通っていることを聞いて、「漁師はクロダイは食べない」と言われたことがある。千葉県保田で「ちんちん(クロダイの当歳魚)」を釣っていた人も「親は食べない」と話していたはず。当然、千葉県の広い地域で真子(卵巣)・白子(精巣)も食べないのではないかと考えている。

東京湾(江戸湾)ならではの脚立釣りは江戸時代より続く伝統釣法である。昭和38年7月(1963)、海苔、貝の漁場である十万坪(現浦安市今川・高洲で東京ディズニーランドの東)でのアオギス脚立釣りの光景。脚立は今ではアルミ製だが、この時代までは木製で、大阪では「クラカケ(鞍掛)」というと、魚類学者の田中茂穂は述べている。船宿で釣り人はよい釣り場を確保するためにクジをひく。釣り場が決まれば、港から脚立と釣り人を乗せて沖に向かう。次々に釣り場を巡り、脚立を設置して、釣り人を下ろしていく。昼になると船宿から弁当を取り寄せるなど、長々と海の上での釣りを楽しんでいた。(写真は浦安市郷土博物館 所蔵のものをお借りした)浦安の沖の十万坪といえば、山本周五郎の「青べか物語」にも登場する。東京湾の豊かさを感じる場所(浅瀬)でもあった。アオギスは、今一般的なキスであるシロギスと比べると長さで倍以上もある大型魚であり、引きが強いので釣りの醍醐味を味わえた。脚立釣りは食べるための釣りではなく、スポーツフィッシングといったものだったようだ。脚立釣りが好きだった、三代目三遊亭金馬(1894年(明治27年)〜1964年(昭和39)は著書で〈食べちゃ青ギスより白ギスのほうがうまい。職業釣り師は青ギスにめをつけない。だから町の魚屋には青ギスは売ってない。白ギスばかりだ〉『江戸前の釣り』(三代目三遊亭金馬)音に敏感なアオギスは船では釣れないので、海に脚立を立てるようになったという。脚立周りを1本の竿、道糸ハリスで釣り上げるので、アオギス専用の船釣りと比べると長い竿を使い、魚籠も網の部分が非常に長い独特のものだった。シロギスがやや外洋性であるのに対して、アオギスは川の河口域である汽水域や内湾を好むので、東京湾はアオギス釣りのメッカであったことがわかる。江戸時代や幸田露伴の明治には大川(隅田川)で行われていた脚立釣りが、昭和になると江戸川の向こう側、浦安などが主流になってくる。本種がいかに環境の変化に弱いかが、この事実からもわかる。脚立釣りは高度成長期にアオギスの減少とともに行われなくなり、やがてアオギスは東京湾から姿を消す。