正岡子規、水戸紀行の「鮫の煮たると」
正岡子規の実に写実的な表現でみる千葉の食
明治22年(1889)4月はじめに正岡子規(正岡常規・昇)は水戸に向けて歩行にて旅に出る。
江戸川を渡って松戸駅(鉄道の駅ではなく宿と同じ)にいたり、そのまま足を伸ばして小金駅をこえる。12時近くになり草の屋で昼食をとる。
〈我等を迎へしは身のたけ五尺五、六寸、体重は十七貫をはづれまじと覚ゆる大女なり。「菜は焼豆腐とひじきと鮫の煮たると也、いづれにやせんと問う。……」、さらば鮫にせんと……。一きれ食へば藁をくふが心地に吐き出したるに……〉
場所は現、常磐線北小金駅あたり。
サメの食べ方は東京都以北で煮つけ。
三重県以南太平洋・瀬戸内海・九州で湯引き(ゆでる)だ。
サメの種類も北はツノザメ科のアブラツノザメ、ネズミザメ科のネズミザメなど。
南は主にドチザメ科のホシザメ・シロザメ・ドチザメ、カスザメ科のカスザメ・コロザメ、オオセ科のオオセ、エイになるがサカタザメ科のサカタザメ・コモンサカタザメなど多彩である。
(日本海側や中国地方山間部のサメの食文化にはここでは触れない。)
今現在も南北でサメの食文化が異なっている。
常磐線開通前の水戸街道小金駅あたりで正岡子規が食べたサメは沖合いにいるネズミザメではなく、より岸近くにいるアブラツノザメと考えるべきだと思っている。
鮫煮つけは非常に味がいい。正岡子規はなにを食べたのか?
それにしても煮て軟らかく、おいしいはずのアブラツノザメがなぜ、〈藁をくうが如き心地に吐き出しけれど、あるじに対してもさうならず、口の中にて持て余したるには興さめたり〉だったのだろう。
栃木県では御馳走でハレの食でもある。(写真は栃木県宇都宮市宮里、梵天祭のさいの「さがんぼうの煮つけ」)
松戸宿あたりは水戸への主要道である。小金を過ぎると確かに田舎そのものだが、貧しい土地柄ではない。
煮つけるとしたら醤油だろうか? 酒やみりん、砂糖などもあっただろうけど、当時はとても高価だったので使っているはずがない。保存性を鑑みるに生醤油で煮たのかも知れない。
慶応3年生まれには文学者が多いが、食べたものを書き残している点では正岡子規の右に出るものではない。もちろん明治30年前後以降、死にいたるまでほど詳しくはないが。
『子規紀行文集 水戸紀行』(岩波文庫)