
徳島県美馬郡貞光町(現つるぎ町)、貞光川はボクは家にいるよりも長くいたところだ。ここで魚の名は、地元の子が川で遊ぶ限り、覚えざるおえないものだった。「じんぞく」、「じゃこ」、「どぶろく」などなど。図鑑と照らし合わせて、覚え始めたのは後のことだ。これがボクの水産生物とヒトとの関わりを調べ始めた、始まりである。ナマズに近い仲間(ナマズ目アカザ科アカザ属)にアカザという淡水魚がいる。日本固有種でナマズのような姿をした小さな赤い魚だ。食用とする地域は非常に少なく、ボクの町でも食べていた人はごくわずかだ。ほとんど存在価値のない魚なのに認知度が高いのは、赤くて目立つのと不用意に触ると刺され、ひぇっと声が出るくらいに痛いからだ。

ミギマキはタカノハダイ科の魚である。国内海域にいる、この科の魚はタカノハダイ、ユウダチタカノハ、ミギマキで、特徴は、岩礁域(磯)にいることと、関東・新潟から九州まで、台湾くらいまでと生息域が狭いことだ。3種類ともマイナーな魚ではあるが、食用魚で流通する。もっとも流通量が少ないのがミギマキである。さて、和歌山県周参見(現すさみ町)でミギマキを「おけいさん」という。『紀州魚譜』(宇井縫蔵 淀屋書店 1929)に〈「昔おけいという女あってこの魚の色彩の鮮明な如く常に濃艶なる装をしてゐたゆえ名づく」といふ。〉とある。ミギマキは口に紅を差し、黄色と黒のツートーンで目立つ。華やかでもある。昔いた、「おけい」という女も派手で色っぽくて目立つ存在だったので、魚の名となった、ということである。「じょろうだか(女郎鷹)」は、女郎(遊女)のように派手なタカノハダイ(鷹の羽鯛)という意味、「みこちょ」も「巫女」からで、目立つからだろう。ちなみに紀州(和歌山県と東紀州・三重県西部)での呼び名が現在まで多く残っているのは、宇井縫蔵(1878年/明治11、 和歌山県田辺生まれ。和歌山県や旧紀州藩の生物を調べ、後に郷土史の研究もする)がいたからだ。また、宇井縫蔵の『紀州魚譜』(宇井縫蔵 淀屋書店 1929)の名を分類し分かりやすくしたのが渋沢敬三である。■呼び名目次へ・楽しい魚の呼び名・目次

江戸時代の和歌山県で、なぜお仙さんはスズメダイに殺されたのか?以下はボクの勝手な推理である。スズメダイのことを和歌山県各地、島根県西部、山口県、九州北部と広い地域で、「おせんごろし(お仙殺し)」、「おせんころし」と呼ぶ。「おせんじゃこ(お仙雑魚)」というのもある。「やえだ」、「やはん」、「もなぶり」など和歌山県だけでもスズメダイの呼び名が少なくないのに、なぜ「お仙」が出てくるのだろう。『紀州魚譜』(宇井縫蔵 淀屋書店 1929)に、〈水族志曰く「足代浦(現和歌浦近く)漁人云おせんといふ女この魚を食し骨硬し咽腫て死す故に名づくこの魚硬ければなり」と。」〉『水族志』(紀州藩藩医畔田翠山 1827)には、スズメダイの骨が硬い(これは真実だ)ために間違って骨を飲み込むと危険だ、とはあるが、なぜ「お仙」なのか、がない。骨が硬くて危険ということでは、同じ和歌山県田辺市などでイサキの「かじやごろし(鍛冶屋殺し)」がある。「鍛冶屋」は職業であり、力仕事なので屈強なという意味もあるので、「屈強な鍛冶屋でもイサキの骨は硬いので喉に刺さって死ぬ」、という意味でわかりやすい。「お仙」はあまりにも唐突である、がなぜ「お仙」なのか?江戸は明和年間(1764-1772)に持てはやされた、「明和三大美人」のひとりに谷中(現東京都台東区谷中)、笠森稲荷門前の水茶屋「鍵屋」で働いていた「笠森お仙」がいる。明和期はちょうど田沼意次時代、封建制度下にあってもリベラルな時代でもある。ちなみに産業や文化が飛躍し、人々が豊かになるのは、自由主義的な時代であってこそで、松平定信の停滞期を挟んで、黄金の文化文政期となる。江戸時代は急激に情報社会となった時代でもある。江戸時代前半は上方(京都・大坂)の、後半は江戸の文化が日本列島の隅々に伝達される。人気抜群だった「お仙」には、鈴木春信の浮世絵もある。当時の超人気作家、太田蜀山人(南畝)がとりあげたのも大きいだろう。だからスズメダイで殺されたのは、「明和三大美人」のひとり「お仙」と考えている。魚の呼び名にも使われるほど「お仙」は、人気抜群のアイドルだった。ということで、和歌山県の他の呼び名の誕生した年代は完全に不明だが、「おせんごろし」は江戸時代明和期以降だと思われる。■呼び名目次へ・楽しい魚の呼び名・目次

赤い魚のアヤメエビス、マダイ、キントキダイ、チカメキントキ、クルマダイが「平家(ヘイケ)」、もしくは「平家魚(ヘイケウオ)」、「平家鯛(ヘイケダイ)」だ。「平家の赤旗」という。平清盛の伊勢平氏は栄耀栄華を極めたが、源頼朝、東国武士との大戦にやぶれて、滅んでいく。このとき源氏の陣営は「白旗」をかかげ、平家の陣営は「赤旗」をかかげたことによる。平家と言えば「景清(平景清)」も赤い魚のことをいう。アヤメエビスは種子島で「平家」。マダイは江戸時代の物類称呼(越谷吾山著 安永4/1775)に〈豊前にて○へいけと称す〉がある。キントキダイ科を「平家」というのは和歌山県である。同じくキントキダイを「平家鯛(へいけだい)」というのは和歌山県と島根県。参考文献/『日本魚名の研究』(澁澤敬三)、『魚名集覧』(渋沢敬三)、『日本水産魚譜』(檜山義夫、安田富士郎)、『全日本及び周辺地域に於ける魚の地方名』(高木正人)■呼び名目次へ・楽しい魚の呼び名・目次

ほとんど食用になることのない小魚、ネンブツダイ、オキゴンベ、アズマハナダイの呼び名に「トシゴロ」がある。ネンブツダイを「トシゴロ」と呼ぶのは神奈川県三崎。アズマハナダイも同じく神奈川県三崎である。オキゴンベは新潟県新潟市で「トシゴロ」だ。3種に共通するのは小さくて、とても美しい魚だ、ということだけだ。生息する水深も生息場所も異なる。となると、「トシゴロ」は「年頃」かも知れない。「年頃」とは、女性に対する言葉で、「年頃の娘」などという。美しい盛りと同じ意味を持つ。ただ、ネンブツダイを「トシゴロ」と呼ぶ神奈川県三崎で「トシゴロウ」と呼ぶ人もいたらしい。こうなると、「敏五郎」、「利五郞」など男性のことになる。男性にもきれいな着物を着るのが好きな人はいるはずだし、また小柄な男性もいるだろう。■写真はアズマハナダイ。参考文献/『日本魚名の研究』(澁澤敬三)、『魚名集覧』(渋沢敬三)、『日本水産魚譜』(檜山義夫、安田富士郎)、『全日本及び周辺地域に於ける魚の地方名』(高木正人)■呼び名目次へ・楽しい魚の呼び名・目次

シマイサキは本州以南、九州までの川の河口域や漁港周り、浅い岩礁域で波の穏やかなところにいる。墨流しのような地味な文様で体長25㎝前後までがほとんどの小魚である。定置網などで揚がる食用魚だが、あまり歓迎されず、流通するにしても水揚げ漁港周辺くらいといった魚だ。流通する範囲が狭く、自分でとって自家消費することの多い魚なので、非常に呼び名が多い。鰾を使って鳴くので、その鳴き声にちなんだり、墨で書いたような文様なのでそれにちなむものが多い。さて、富山県富山湾、生地では「カレススキ」、滑川で「カワススキ」、魚津・氷見・東岩瀬で「カワススギ」である。1941年から翌1942年の『魚名集覧』(渋沢敬三)によるものなので、魚名の採集は大正時代から昭和初期にかけてのものだ。音からして共通の呼び名があって、それが変化したと考えられる。「カレススキ」だけをみると、「枯れ薄(ススキ)」で体の文様を見て、茫洋とした大地に続くススキの原を思わせるためか? と思った。「カワススキ」は「川スズキ」ではないか、と考えたがスズキの方がむしろ川を好む気がする。それでは「皮スズキ」で、スズキよりも小さいのに皮が硬いためか、と思ったが違うだろう。「カワススギ」は川で「すすぐ」で「川で洗濯をしていると、よく見かけるため」、もしくは煤で汚れているように見えるので、「すすぎ(洗い)」たいのか、と考えた。最初は、『船頭小唄』にもある、「カレススキ」がいちばん詩情溢れる名なのでこれが基本的呼び名だといいな、と思った。ただ、本種の習性などを考えると、魚津・氷見・東岩瀬と地域的にも広い「カワススギ」が基本に違いないと考えるようになった。本種は港や川の河口域で波の静かなとき、まるで鏡のような水面の下で、ほとんど動かず止まっているのをよく見かける。川(河口域)は生活の場所で洗濯をしたり、農作業の後に泥を落としたりするところだ。そんなところにいる魚という意味ではないかと考え至る。■呼び名目次へ・楽しい魚の呼び名・目次

「ワタナベ」と呼ばれる魚は、サバ科のスマとベラ科のテンスである。両種に共通するところはまったくなく、地域も離れている。スマを「ワタナベ」と呼ぶ地方は千葉県外房と相模湾周辺だ。これは渡辺家(渡邊、渡部)の代表的な家紋が三つ星(黒い●が三角形に並ぶ)で、スマの胸鰭の下の黒い斑紋を思わせるためだ。胸鰭下の丸く黒い斑紋は3つとは限らないが、とても印象的である。神奈川県佐島と小田原で同じ話を聞いているので、意外に知っている人が多いのかも。

「おいらん」という呼び名で呼ばれている魚は我がデータベースに現時点で7種ある。調べるともっとあるだろう。江戸時代、元和3年(1617)に作られた吉原遊郭(現中央区人形町)で生まれた言葉だ。遊女の中の最高位で、たくさんの長いかんざし(簪)をさし、引きずるほど長い豪華絢爛な着物を着ている。これが日本各地に伝わり、魚名にもなる。長いかんざし、は魚の棘をさす。またかんざしをさした頭が大きく見えるなどもある。引きずるほど長い着物や、その豪華絢爛さは細長い形態と、その鮮やかな体色を現す。オニカジカが「おいらん」と呼ばれるのは、鰓蓋骨から伸びる長い棘があるためで、これをかんざしに見立てたもの。ヤリヌメリは左右の棘をかんざしに見立てて、極端に大きい頭部からでもあるだろう。しかも刺激的な臭いがすることがある。サケガシラ、スミツキアカタチは細長い体が着物を思わせるためだろう。ヤナギムシガレイ、ヒレグロは泳いでいる姿が裾の長い着物を引きずる様子を思わせるためだと思われる。オイカワは「おいらんぶな」と呼ばれるが、明らかに産卵期の雄を指している。赤と緑、青に染まっているのが、花魁を思わせる。■呼び名目次へ・楽しい魚の呼び名・目次

「かげきよ」は歌舞伎十八番、「景清」の主人公、平景清の衣装が赤を基調として武張っていることから、赤い魚で棘や鰭が大きいなど目立つ魚の呼び名となる。分類学的にはキンメダイ科、イットウダイ科、キントキダイ科にまたがる。キンメダイ科/キンメダイイットウダイ科/アカマツカサ、イットウダイ、エビスダイキントキダイ科/チカメキントキ、キントキダイ、クルマダイ「景清」は平家物語の登場人物、平景清(藤原景清、悪七兵衛景清)をモデルとしているが、「曾我兄弟と助六」と同様に史実とはなんら関わりがない。助六同様、様々な歌舞伎の演目になんの必然性もなく登場する。享保17年(1732)に二代目市川團十郎によって歌舞伎十八番「景清」が初演され、人気を博す。江戸で人気が出ると、国内隅々、村芝居などで演じられるようになり、広がって行く。『平家物語』で源氏と戦い、勇敢な武士であったということで非常に大胆で武張った装束を着る。その装束の色が赤だ。余談になるが、歌舞伎十八番の特徴は人を驚かすような大胆な衣装ではないか?独特の化粧である隈取りも市川團十郎が考えたこと。歌舞伎はこの衣装や化粧とともに日本全国に広がる。「平景清」は、以後、江戸時代に生まれたヒーローとして人口に膾炙する。この江戸時代のヒーローである「平景清」を思わせる魚、という意味の呼び名なので一次的魚名ではない。18世紀以降の呼び名ということになる。■呼び名目次へ・楽しい魚の呼び名・目次

・魚の呼び名 初めに、呼び名採取の世界・魚の呼び名01 「カゲキヨ」と呼ばれる魚たち・魚の呼び名02 「オイラン(花魁)」と呼ばれる魚たち・魚の呼び名03 「ワタナベ」さんと呼ばれる魚たち・魚の呼び名04 シマイサキ「カレススキ」は枯れ薄?・魚の呼び名05 トシゴロは「年頃」なのか?・魚の呼び名06 「平家」は赤い魚・魚の呼び名07 お仙さんは江戸時代のアイドル・魚の呼び名08 和歌山県周参見の、おけいさん・魚の呼び名09 徳島県貞光町の「お医者はん」■呼び名区分などは『日本魚名の研究』(澁澤敬三 角川書店 1959)を参考にした

■呼び名目次へ・楽しい魚の呼び名・目次もうかれこれ半世紀以上にわたって水産生物の名前を採取している。徳島県美馬郡貞光町(現つるぎ町)生まれなので、貞光川での呼び名集めから始めた。最初の1種は「ジンゾク」(地方名もカタカナ「」つき表記とする)である。中学生の頃、「ジンゾク」=ヨシノボリとノートに書いた。面白いことに和漢三才図会(大阪の医師、寺島良安。正徳二年/1712)に「鯊(じんぞく)」があり、物類称呼(越谷吾山。安永四年/1775刊の方言辞典))にも四国での呼び名として「じんぞく」がある。次に「カワドジョウ」を調べた。「カワドジョウ」=シマドジョウとなる。「イダ」=ウグイ、「ジャコ」=オイカワで、「エッシュウ」=カマツカだ。1960年代から1970年代の採取時に必要だったのは、同定能力と聞取能力であるが、ボクにはそれが欠けていた。この情報は、後々の魚類学上の進歩で、変わってくる。「ジンゾク」=ヨシノボリは、ヨシノボリではなくカワヨシノボリになる。「カワドジョウ」=シマドジョウのシマドジョウはニシシマドジョウになる。誤解もある。貞光川で「ノミンジャコ(農民雑魚)」と呼ばれてる魚がいる。最初稚魚だとは思わなかった、小学生低学年のときはメダカ(現ミナミメダカ)だと思っていた。そう教えてくれた大人もいる。小が高校学年のとき初めてメダカを見た。吉野川右岸、ボクの住む貞光町にはメダカがいなかったのだ。中学生の時、メダカではなくウグイとオイカワの稚魚共通の呼び名だろうと気がついた。採取する人間は確かな同定(種の検索)能力を身につけ、動植物学的な進歩に添うように最新化していく必要があるのだ。例えば採取者は専門知識と歴史や民俗学など分野を越えて身につけておくべきだし、また世間を知らないといけない。

【呼び名の由来の話だが、徐々に改訂していく、その土台のようなものだ】明治時代に西洋から来た科学のひとつが生物学で、その中のひとつに動物学が含まれていた。当然、動物学は分類から始まる。分類学で先ずやらなければいけないことは、国内にいる生き物の名と学名を照らし合わせることだ。手初めに全国で使われている魚の名をかたっぱしから集める。分類学で使う名を標準和名といい、世界中で共通して使う名を学名というのだが、まず最初に標準和名を決めなければ分類学は始まらないのだ。分類学の明治初めの拠点は東京にあったので、もっとも身近な場所で、例えば魚類が見られる場所から名の採取を始める。それが日本橋にあった魚河岸である。明治10年(1877)に来日したお雇い教師、アメリカ人のエドワード・モースが、来日すると同時に江の島に小屋を借りてシャミセンガイ(腕足類)の研究を始める。たぶんこの小屋はモースだけのものではなく、日本の分類学にも大きな意味を持つ。ハシキンメに学名をつけたのは、ドイツの動物学者でお雇い教師のルートヴィヒ・デーデルライン(国内の多くの生物を記載している)だが、彼も江の島に通ったひとりだ。標準和名も江の島で使われていた名を採用する。実際、標準和名の多くが江の島で採取された名であるのは、モースの小屋と明らかに関係があると思われるし、それを引き継いだ、デーデルラインとの関係もある。江の島で本種をハシキンメと呼んでいたのは、なぜだろう?参考文献/『全日本及び周辺地域に於ける魚の地方名』(高木正人 1970)

江戸時代以前から貝の世界には見立てるということがある。数寄者と言われる人達のネットワークの中から見立てた名前が生まれてくる。ハルカゼガイ(春風貝)などは台湾以南にしかいないもので、江戸時代に珍奇なものとして輸入された。これを大坂(大阪)四天王寺の西、有栖山清水寺そばにあった、浮瀬という貝の大杯で酒を飲ませることで有名な料亭で使われることで、生まれた呼び名である。本来の大杯は大型のアワビだが、ハルカゼガイなどの大型の巻き貝なども使われた。ラグビーボールのような貝で縞模様がある。なぜこの貝から春風を連想したのか、不思議である。サクラガイなども色合い、貝殻の形から桜の花びらに見立てたものだ。これなどは砂浜で拾ったことのある方なら、まさにそうだと思えるだろう。ウチムラサキは非常に無骨であるが、江戸時代の『目八譜』では内側の色が紫色で美しいので、「内紫」と名づけられた。また丹後宮津では貝殻の内側に貝柱や外套膜、軟体がついた痕を、天橋立と阿蘇海(与謝内海)の景色に見立てて「橋立貝」という。〈殻の内側の筋肉のついていたあとを見ると、外套膜のはしにあたるところは長くつき出ているので、与謝内海(よさうちうみ/天橋立の内側の内湖で、阿蘇海ともいう)では、この部分を天の橋立の風景に見たてて“橋立貝”と呼んでいる〉『原色・自然の手帳 日本の貝』(奥谷喬司、竹村嘉夫 講談社)ただ、この貝殻の裏側から天橋立の景色を思い浮かべられるのは地元の方だけかも知れない。画像から天橋立でもいいし、まったく違うものでもいいので見立ててみて欲しい。もちろん逆さまに見てもいい。

魚の説明をするとき、この本来の呼び名と、魚類学の呼び名の違いを説明するのに非常に苦労することが少なくない。この魚類学の名前、標準和名はよほどのことがないと変えられないというのはわかっているが、明らかに市場価値と歴史を踏まえて、現在の「キアンコウをアンコウ」に、「アンコウをクツアンコウ」に変えて欲しいという話でもある。

タレントのタモリではなく、魚のタモリの話だ。この魚のタモリには田中茂穂は「太母里」という漢字を当てているが、正しくは「田守」だという話でもある。田守は室町期には歴とした官職のひとつだった。それが時代が下り、江戸時代になると、野良で日がな一日、田畑を見守っている人という意味に変わる。ついでに言えば、田守という言語はダサイと同義語に成り下がる。無精髭を生やしたまま、パジャマの上に上着を羽織って市場に向かう自分などは典型的な田守である。田守は今や死語だけど、江戸時代には一般的な言語で、日常会話にも使われていたようだ。薄汚い、うらぶれ落剥した人とか、知的障害のある人を差す言葉といえばわかりやすそうである。ボクの生まれた高度成長期でも、このような人達の暮らしがなり立つようにそれなりの職業があてがわれていた。そのひとつが江戸時代には田守だったのだと思う江東区の聞取にしても、山本周五郎の世界にもそんな存在が出てくる。明治時代に宮城県仙台市にいた仙台四郎も同様な存在だったのだろう。今はなんでもかんでも差別だというが、むしろ露骨に田守のような差別用語を使っていた時代の方が人間的で温かみのある気がするから不思議である。先にも述べたように、田守は室町時代には官職名でデスクワークの人だったが、江戸時代には田に入ってくる害獣を追い払い、また畑仕事で助けが必要なときには呼ばれる、実労働者そのものを指す言葉になる。江戸時代の俳句では以下の2句がある。【稲塚の戸塚につゞく田守かな】 宝井其角 『最近俳句歳時記 秋』(山本健吉)【秋の夜をあはれ田守の鼓かな】 黒柳召波 『大言海』宝井其角は芭蕉門下で裕福な家の出であり、荻原重秀が作りだした華やかな元禄期を経験している。黒柳召波は蕪村の門下で、当然、蕪村の属していた京のサロンにも参加していただろう。蕪村、池大雅、伊藤若冲などがいて京がもっとも華やかだったときを生きている。句の意味合いは後者は落剥を思わせるが、前者は現代の言語訳ではよくわからない。稲塚は稲を杭にからめて干す形が塚(盛り土)に見えるための言語で、それを守る人が戸塚(多分東海道五十三次の戸塚宿のことで、京に上る最初の宿場。塚塚で韻を踏んでもいる)まで永遠と続く光景を詠んだのかも。ともに田守は侘しいとか淋しいとかで、決してきれいなイメージはない。田守には野良で衣類をかまわず、無精で不潔だというイメージがあるのである。

八王子総合卸売協同組合、舵丸水産に愛知県篠島産のみごとなサヨリがきていた。山梨県上野原の料理店、桜扇さん(市場では屋号で呼ぶのが普通)に「吉永サヨリって言う人が少なくなりましたね」というと、忙しい最中なのに「ボクたちが最後でしょうね」と返してくれた。久しぶりに会った魚屋さんにも同じ話をしたが、「最近の人はわからないだろ」という。築地に通い始めたとき、頻繁に行けないので、できるだけ少量、多種類を嫌がられないように買っていたことがある。嘴の赤いサヨリをできれば2本買いたかったのだけど、「4くらいは買いな、サヨリちゃんはよ」と言われたことがある。閂(かんぬきは全長30cm以上で80gから100gある)とまではいかなかったが、かなり大きい個体なので4尾だと200gくらいになるな、と躊躇していたのだ。ちなみにそのときボクは「サヨリちゃん」で、ちょっとニヤッときた。そのものずばり、「吉永サヨリちゃん」という人もいた。「吉永サヨリちゃんきれいだよ、おいしいよ」なんて言葉に、1980年前後に30歳以上だった人(今なら70歳以上)なら、吉永小百合の姿が浮かんできてわくわくしたのだろう。今年の冬に去る業界の仕事中に、バスの中で魚のレクチャーをしながら「吉永サヨリちゃん」と言ったら無反応だった。周りにいたのは30代、40代であるが、考えてみたら「魚のサヨリで吉永サヨリ」など理解できるはずがない。

八王子総合卸売センター、総市に富山県氷見産のメジナが来ていた。日本海側を冬に旅をするとわかることだが、寒い時季、定置網に大量に入って、網が揚がらないなどということがある。能登半島などでは寒くなるとスーパーなどでよく特売するという。太平洋側では食用魚でもあるが、釣りの対象魚としての方が有名である。日本海側では寒くなるとやたらに目につく、単なる食用魚でしかない。日本海側ではクロダイ(チヌ)と比べると、釣りの対象魚としてはあまり人気がない。これは主な産地が日本海であるせいだ。もちろん太平洋側でも揚がるし、食用ともなっているが量的に大きな開きがある。島根県松江市、松江魚市場では寒くなって海が荒れると、「クロアイ(クロヤとも)」が競り場を覆い尽くす。仲買の方が「クロヤを買うのは義務だな」などと言っていたが、メジナだらけの市場を見て競り人、仲買のあうんの呼吸のようなものが感じとれる。山陰でメジナは冬の風物詩だ。富山県、能登半島、京都府では「ツカヤ」、「ツカエ」という。初めて能登半島を旅したとき、この呼び名の意味がまったくわからなかった。わかったのは渋沢敬三の『魚名集覧』を手に入れてからだ。ボクが初めて能登半島を旅した1980年代初め、元々の長々とした呼び名は省略されてしまっていたのだ。本来の呼び名は「サケノイオノツカエダイ」、「サケノツカエダイ」だ。漢字にすると「鮭の魚の使い鯛」、「鮭の使い鯛」である。定置網にメジナが入るようになると、サケの水揚げが始まる。また、メジナがたくさん揚がる年はサケが大漁だ、という意味もありそうだ。北陸でメジナは秋を感じるものであり、冬の風物詩でもある。今、富山湾や能登半島でサケが大量にとれているとは、とても思えないが、この地域でもサケが重要な漁業対象であった時代があった証拠だ、とも言えそうである。サケと関連性の高い呼び名と、島根半島以西の体色での呼び名の境となる地域も明確にあるはずで、鳥取県西部ではないかと想像している。

淡水魚からはじめて海水魚にまで勉強の範囲を広げたとき、まず気になったのは魚名である。1970年代の末、東京都千代田区神保町で、彼の渋沢栄一の孫で、民俗学・魚類学の世界では祖父以上に偉大な渋沢敬三の『日本魚名集覧』というのを立ち読みしては、呼び名・標準和名の不思議に魅了される。ボクは王道的な知識よりも脇道の方に惹かれがちである。ちなみに生物の名は3種ある。一、学名(世界共通の名でラテン語表記)二、標準和名(国内で便宜的に決めたもので、特に魚類学も含めた生物学では必ず使わなければならないとするもので当然、日本語)三、地方名(日本各地で使われているもので、その地での魚に対する考え方や価値観が込められている)がある。時々、標準和名について正しい名とかいう人がいるが大間違いである。生物の名に正否はない。図鑑1冊を丸暗記することから始めたとき、真っ先に頭に収納できたのがタキベラである。なにしろ見た目がド派手だし、キャプションを読むと大きな魚らしいとくる。ちなみに数年後、いざ手にすると、ド派手な魚だとわかっていながら現物のファンキーさにビックリしたし、食べたらとてもおいしかったので、その姿と味のギャップにもビックリした。でもどうしても、なぜタキベラなのかはわからなかった。比較的生活環(一生)での生息範囲の狭い魚で、生まれた海域で一生を過ごし、国内では安定的に水温の高い海域にしかいない。2010年になって増えた沖縄の高級魚、アカジンミーバイ(スジアラ)は例えば伊豆諸島海域や紀伊半島にはいなかったが、今や明らかに北上して定着している。対するにもともと伊豆諸島で極めて普通であるタキベラはほとんど生息域が変わらないため、本来沖縄の魚だったスジアラにより北に生息域を広げられてしまいそうである。明治時代、動物学者(明治時代前半にはまだ動物学は分野化されていなかった。魚類学が独立するのは明治時代後期からだ)は日本中の動物の呼び名を集めることから、動物学の第一歩を踏み出す。呼び名がない物質(生物・動物)は存在しないためである。特に魚は相模湾周辺と日本橋魚河岸で呼び名を集め、そこから標準和名を決めた。

和名の「虫食い」は葉などを虫の幼虫が食べた跡のことで、「虫食い状態」とか、紋などに使われるもの。体側の独特の線形文様を表したもの。アイゴは、アイヌ語で棘のあるイラクサを「あい」という。ここから「あい」は棘のある、「ご」は魚を表す語尾だ。英名、Vermiculated spinefoot のVermiculated は線形の動物であるミミズや線虫などが這い回った跡(曲がりくねった形)を思わせる模様や造形のこと。もしくは虫そのものが蠢く様という意味だ。『日本産魚類検索』(岡田彌一郎、松原喜代松 三省堂 初版1938)にも蠕虫が出て来ているのは当時の魚類学者が英名を知っていたからだろう。さすがに蠕虫アイゴとつけては問題だと考えた上での「虫食い」だということがわかる。ちなみに1938年は第二次世界大戦の敗戦前で臺灣を統治していたとき。本魚類検索には現国内は生息域に入っていないことから、台湾(臺灣)の標本を基に標準和名がつけられていたことがわかる。spinefoot は直訳すると刺のある足になるが、足ではなく鰭のことで鰭に刺があるという意味。