沢村貞子の水産物めも
初カツオは大正時代に、浅草では庶民の味となっていた
『私の浅草』(沢村貞子 1976初版 暮らしの手帖社) は主に大正時代の話である。
関東大震災以前の東京市浅草猿若町での実生活を垣間見ることが出来る、非常に貴重な書籍だと思っている。
町奉行遠山金四郎は天保12年に水野忠邦の芝居小屋廃止を受けて、廃止ではなく浅草猿若町への移転にとどめた。
浅草猿若町は山谷堀に近く舟運があり、吉原に近い。
江戸三座の移転場所をここに決めた、遠山金四郎のすごみを感じる。
守田座、中村座、市村座があったが、昭和になり、守田勘弥などが、江戸下町(現中央区)に新たな芝居小屋を作る。
有楽町にも多くの劇場が出来て、猿若町は廃れてしまう。
芝居小屋が消えたあと、住宅と川魚店も含む商売屋の並ぶ町になる。
やがてここに沢村貞子の父で狂言作家、加藤伝九郎と母、まつ、兄・澤村國太郎、弟・加東大介の一家が同浅草馬車道から移転してくる。
それでも浅草に芝居小屋はいくつか残る。
加東大介が子役として活躍した、宮戸座もそのひとつだ。
また当時、浅草はオペラやレビュー、映画など芸能・歓楽の町であった。
澤村貞子(旧姓加藤貞子(ていこ)→大橋貞子 1908-1996年/明治41〜平成8年) は浅草千束町生まれ。→2才のとき浅草馬車道→小学校に行くときに浅草猿若町(現浅草6丁目)に引っ越す。
非常に見た事をそのまま、なんのてらいもなく明解な言語で表現している。ある意味、天才的な文章家といっても過言ではない。
林芙美子、武田百合子、沢村貞子の文章にはどことなく共通点がある。
ともに資料的な価値もある。
おふくろの味 鰻 〈背中合わせの川魚屋でメゾッコという小さい鰻が格安の日は、バタバタと七輪でいい匂いをさせて、鰻どんぶりの大ご馳走になる。母の財布がペシャンコの日は、おからを脂でいためて、ソースをかけ……〉。文章の流れを読む限り猿若町の頃だろう。ここは隅田川に近く、北東に山谷堀がある。ここに川魚屋があり、メゾッコ(小さなウナギ)が売られていたことがわかる。(『私のあさくさ』(沢村貞子 平凡社 2016 P44))
みそ汁 〈甘味噌と辛味噌を適当にまぜて、すり鉢でゴリゴリすって、味噌こしで濾して——だしは雑魚を放りこんで——〉。雑魚はカタクチイワシの煮干しと考えていいのではないか。(『私のあさくさ』(沢村貞子 平凡社 2016 P75))
東京浅草猿若町、カツオの刺身の後の医者殺し
〈五月の声をきくと、さあ鰹が食べられると心がはずむ。人一倍食道楽で、女房を質においても初鰹だけは……といった調子の父の影響かも知れない。—— おさしみをとった残りは、甘辛く煮つける。私の母は、鰹の中落ちが好きで、ぶつ切りにして、しょうがの薄い片(きれ)と一緒に煮込み、箸の先きで背骨の中の血合いまで器用にせせり、しきりに私にすすめたものだった。——食べつくしたあとの汁には、熱いお湯をそそいで飲ませてくれた。母はそれを「医者殺し(医者ころし)」とよんでいた。〉(『私のあさくさ』(沢村貞子 平凡社文庫版 2016 P101))
1970年代以前、本来関東では初夏になるとカツオが食べられた。5月は走りの時季で、庶民の贅沢であったのだと思う。