サンマの基礎知識 3 江戸時代からサイラをとっていた紀州
紀伊半島にぶつかるように回遊してくるサンマをとる
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意外に知られていないサンマの基本を整理して公開するが、以下の章をもうける。
・サンマの基礎知識 1 サンマとは?
・サンマの基礎知識 2 サンマはなぜサンマになったのか?
・サンマの基礎知識 3 江戸時代からサイラをとっていた紀州(▼本ページ)
・サンマの基礎知識 4 東京を始め関東がサンマっ食いになったわけ
・サンマの基礎知識 5 落語、目黒のさんまを掘り下げる
・サンマの基礎知識 6 1945年以降、そして2000年以降、塩焼きから刺身へ
・サンマの基礎知識 7 日本海のサンマ
サンマの食文化が国内で最初に繁栄したのは紀伊半島周辺である。
太平洋に広く生息域をもつサンマには3系群(大きな産卵群)あるが、国内には太平洋北西系群と日本海系群の2つがいる。
もっともたくさんとれて国内での生活に直結しているのは太平洋北西系群(太平洋沿岸を南北に回遊する)である。
太平洋側のサンマは水温が下がる秋から春に、温かい南の海域で産卵をし、孵化した稚魚、幼魚は黒潮(暖流)にのって北上する。
エサの豊富な北海道・青森県東沖で成長する。
そしてまた夏から春にかけて産卵のために南下する。
脂がもっとものる時季は8月から10月にかけて、北海道・青森県の東沖だが、岸から非常に遠い位置に群れている。
サンマは昔々から食べられていたが、江戸時代から昭和になっても、原始的な漁法では岸に近づいてきた個体群しか漁獲できなかった。
現在のように脂ののったサンマが食べられるようになったのは現代になってからなのだ。
日本列島でもっとも古くからサンマを食べていたのは、南下する群れが陸に近づいてきたところ、半島、もしくは島だ。
日本海の佐渡島、また能登半島のある富山湾、朝鮮半島に島が連なる長崎県。
■日本海のサンマに関しては別項をたてる。
太平洋側では伊豆半島、紀州(和歌山県南部と三重県西部)、高知県室戸岬東岸であるが、多くが紀州(紀伊半島)を目指して南下してくる。
紀伊半島の東側の熊野灘は江戸時代以来の産地と言えるだろう。
もっとも陸地に近づくのが旧紀州藩の紀伊半島熊野灘側で、いちばん漁獲していた地域は紀州の熊野灘にそった三重県と和歌山県だ。
この地域ではサンマを、サイラ、サイリ、サイレ、サイロ、サエラ、サイレなどと呼ぶ。
学名のCololabis saira (Brevoort, 1856)の種小名「saira」も採取した地域の呼び名サイラから来ており、マシューペリーのペリー艦隊が採取して故国アメリカでジェイムズ・カーソン・ブレボートが記載したときの個体も、紀伊半島周辺のものかも知れない。
紀州は漁業先進地であり、江戸時代延宝年間(1673-1681)までには群れを作って回遊するサンマなどをとる漁法が生まれていた。
16世紀~17世紀初頭に近畿地方、尾張地方などで綿花栽培が始まり、菜種の栽培も盛んになる。
この綿花栽培は衣料の革命でもあって、人々の暮らしを大きく変えた。
それまでの繊維である麻は保温性が低く、羽織っても寒く着心地が非常に悪い。
保温性が高く、洗える木綿は急速に普及し、畿内で始まった綿花栽培は急速に広がっていく。
ここで必要となったのが干鰯(マイワシをゆでて干したもの)である。
干鰯の需要のもとに網漁である紀州漁法が生まれたのだ、ともいえるだろう。
17世紀に生まれた紀州漁法は巻き網のひとつで、主にサンマをとるので「さいら網」という。
紀州の多獲性魚類の漁は干鰯の原料であるマイワシに始まり、マサバもとるようになる。
やがて時季にはブリをとり、サンマをとるというように発達してくる。
この紀州漁法は17世紀に醤油醸造などの技術とともに千葉県銚子にも伝わる。
千葉県銚子が江戸時代に漁業が盛んな地となり、サンマの産地になったのはこのためだ。
■関東でのサンマの食文化は次回に持ち越す。
岐阜県、近畿地方は実に山深い
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江戸時代には紀伊半島熊野灘周辺でとれた魚は供給地である紀州の山間部、奈良県、滋賀県、岐阜県、たぶん愛知県に送られる。
熊野灘から、サイラ(サンマ)、「さば(マサバ)」、「いわし(マイワシ)」、ブリの道が毛細血管のように伸びていたことになる。
この熊野灘で晩秋から冬にかけてとれたサンマは産卵後で脂がなく痩せている。
この痩せサンマは産地から鮮魚で送られ、ぬか漬け・塩蔵品にもなり、乾物に近い干ものにも加工された。
産地からは鮮魚で送られて来て、消費地でぬか漬けにすることもあった。
熊野灘の魚の供給先は聞取しただけでも、奈良県の東吉野・十津川、三重県の伊賀市・名張市、滋賀県の甲賀市、岐阜県恵那地方などと広い。
特に岐阜県、三重県、和歌山県、奈良県などの山間部ではなくてはならない魚(たんぱく源)だったに違いない。
保存のために硬く干し上げられていた丸干し
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熊野灘の痩せサンマはの多くは、とったらすぐに硬く干し上げられていたのだと思う。
冷蔵庫のない時代、重要なのは保存性である。
また重量であり、軽く輸送しやすくないと山間部まで『運べない。
現在の三重県東紀州の丸干しは硬いと言ってもそのまま焼いておいしく食べられる。
戦前(1945年以前)の丸干しは非常に硬かったようだ。
硬く干すと数ヶ月くらいは保存できたという話も聞けた。
三重県名張市生まれの老人の聞取では、丸干しを朝いちばんに木槌で叩くのが子供の仕事だったという。
たたいて柔らかくしたものを焼いて三等分くらいにしてあぶって食べたり、弁当の菜にした。
現在の丸干しも非常においしいが、昔のものも食べてみたい気がする。
紀州、熊野灘周辺の「なれずし」は山間部にも広がる
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紀伊半島、熊野灘周辺では「なれずし」が盛んに作られている。
山間部である、奈良県十津川などでも熊野灘からのサンマで「すし(「なれずし」と「早ずし」がある)」を長年作り続けている。
これなども熊野灘周辺の「なれずし」、「早ずし」が供給先である山間部に根づいた例だろう。
滋賀県琵琶湖南部周辺の海水魚の「なれずし」との関係も重要である。
■写真の「さんまなれずし」は三重県紀宝町浅里『農事組合法人飛雪の滝百姓塾』で作られた本格的なもの。
熊野灘のサンマの供給範囲は広く、産地の人間だけではなく、伊勢商人によっても岐阜県山間部、滋賀県南部、また大阪府など広域に送られていた。
紀州のサンマの食文化はとても広い地域に及んでいたことがわかる。
国内のサンマの食文化は紀州発祥と考えるべきである。
■サンマの基本は改訂をしていきます。
サンマの基本4 東京を始め関東がサンマっ食いになったわけ
https://www.zukan-bouz.com/article/1870

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