サンマの基本2 サンマはなぜサンマになったのか?
1945年以前、サンマにはいろんな呼び名があった
サンマ
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明治時代の初め、非常に限られた地域でサンマはサンマと呼ばれていた。
なのになぜ、サンマをサンマということになったのか?
日本の近代的な動物学(生物学)は当時東京市にあった東京大学で始まる。このとき動物学者は国内で共通して使うための動物の名前を大急ぎで決めなければならなかった。これを標準和名というが、実際に使われている呼び名を採取して採用した。
当然、東京大学は東京にあったので東京周辺で大急ぎで呼び名を集めた。
サンマは当時、明らかに西の魚だったが、東京を始め関東の呼び名サンマとなったのには、このような経緯があったためだ。
余談だが、標準和名のアカアマダイは東京では雑魚に近い扱いでくずしもの(練り製品)にするのが関の山だった。
比べると京都を始め近畿では「ぐじ」と呼び、盛んに、様々な料理法で食べる。
なのに「あまだい」となったのも東京大学で動物学が始まったせいだ。
後に述べるが、サンマ漁は紀伊半島南部の旧紀州藩の紀州、三重県・和歌山県の熊野灘で江戸時代に始まる。
これが熊野灘から紀伊半島の山岳地帯、伊勢地方、近畿へと送られた。
当然、呼び名と一緒に送られたので、紀州での呼び名を使う地域が広がる。
昭和17~19年までに発刊された、『日本魚名集覧』第一部、第二部、第三部(アチック・ミューゼアム、のちに日本常民文化研究所)などでも標準和名サンマの地方名は紀伊半島南部周辺に多い。
そこから供給を受けていた紀伊半島山間部、和歌山県、三重県東部・北部、滋賀県、奈良県、大阪府には鮮魚も送られていたと思うが、主に塩蔵品で、もっとも多かったのが丸のまま硬く干したものだろう。
この熊野灘から供給を受けていた地域ではサイラ(呼び名もカタカナ表記とする)、サイリ、サイレ、サイロ、サエラという呼び名が広く使われ、一部地域でサヨリと呼ぶ。
熊野灘から遠い三重県伊勢地方鈴鹿などではカドという。
サンマの時季も、量も激変する
初サンマ
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西のものであったサンマが東のものに変わる。
呼び名も紀州から東京周辺のサンマに変わる。
三田純一は1923年、大阪道頓堀生まれ、1945年の戦前戦後、演劇界で活躍した脚本家で、古い大阪の言葉を多数残して解説している。
〈さいらは死語になった。〉『大阪弁のある風景』(三田純一 東方出版 1987)
大阪では紀州の呼び名そのままに使っていた。それが1945年以降、関東の呼び名「さんま」が大阪でもじょじょに使われるようになり、いつのまにか「さいら」が消えていく。
北海道、東北太平洋の沖合いで本格的に漁を始めたのは1945年の敗戦後のことである。以後、サンマは北海道、東北太平洋側が主な産地となる。
船や漁法の進歩もあって、過去にないほど大量に漁獲されるようになる。
秋に走りがとれ晩秋に漁の盛期を迎えていたのが、初夏に走りを迎え、8月に本格的に入荷を見るようになる。
この北国のサンマが全国に大量に流通する。
そして東京、東北での呼び名サンマが、紀州での伝統ある呼び名と、それから派生した呼び名を駆逐していく。
いつの間にか、1945年以前に主流だった紀州の呼び名が消え、サンマはサンマでしかなくなる。

ぼうずコンニャクの日本の高級魚事典
イラスト図解 寿司ネタ1年生



