サンマの基礎知識 4 東京を始め関東がサンマっ食いになったわけ

ハリゴチ属(Hoplichthys)について

Species Hoplichthys acanthopleurus Regan, 1908
Species Hoplichthys citrinus Gilbert, 1905/Lemon ghost flathead/松原喜代松は過去にイトヒキハリゴチの和名を当てている。
Species Hoplichthys fasciatus Matsubara, 1937/シマハリゴチ
Species Hoplichthys filamentosus Matsubara & Ochiai, 1950/イトハリゴチ
Species Hoplichthys gilberti Jordan & Richardson, 1908/ソコハリゴチ
Species Hoplichthys gregoryi (Fowler, 1938)
Species Hoplichthys haswelli McCulloch, 1907
Species Hoplichthys imamurai Nagano, McGrouther & Yabe, 2013
Species Hoplichthys langsdorfii Cuvier, 1829/ナツハリゴチ
Species Hoplichthys mcgroutheri Nagano, Imamura & Yabe, 2014
Species Hoplichthys mimaseanus Nagano, Endo & Yabe, 2013
Species Hoplichthys ogilbyi McCulloch, 1914
Species Hoplichthys pectoralis (Fowler, 1943)
Species Hoplichthys platophrys Gilbert, 1905
Species Hoplichthys prosemion (Fowler, 1938)
Species Hoplichthys regani Jordan, 1908/ハリゴチ
Species Hoplichthys smithi (Fowler, 1938)


江戸以来、サンマを食べに食べた江戸・東京庶民


意外に知られていないサンマの基本を整理して公開するが、以下の章をもうける。
サンマの基礎知識 1 サンマとは?
サンマの基礎知識 2 サンマはなぜサンマになったのか?
サンマの基礎知識 3 江戸時代からサイラをとっていた紀州
サンマの基礎知識 4 東京を始め関東がサンマっ食いになったわけ(▼本ページ)
サンマの基礎知識 5 落語、目黒のさんまを掘り下げる
サンマの基礎知識 6 1945年以降、そして2000年以降、塩焼きから刺身へ
サンマの基礎知識 7 日本海のサンマ

秋の声を聞くとサンマの塩焼きが食卓を飾る、というのは国内でも取り分け江戸(東京)を代表する光景であった。
今、早まってはいるが、食卓にサンマの塩焼きがのると季節を感じるという意味では同じである。
この銚子など産地で揚がったサンマは浜で塩をしたもので、「塩秋刀魚」と呼ばれるものだった。もちろん開き干しもあったはず。
この「塩秋刀魚」から完全なる生(塩をしない)が増えるのは、まだ先、1970年代末の話となる。

秋になるとサンマだらけになった魚河岸と東京の街


また、漢字、「秋刀魚」も秋にサンマがやってくる東京で生まれたものだ。
説明無用かも知れないが、「秋刀魚」は秋に大量にやってくる、刀のように細長く銀色をした魚という意味である。
また、東京の魚河岸では「鰶(さんま)」と書いてきた。これは10月になり千葉県(房州)で揚がったサンマが大量にやってくる。魚河岸ではこれをさばくのにてんやわんやの大騒ぎになり、“お祭り騒ぎのよう”だからだ。また大量に入荷してくるので値段が下がり、市場では儲けが少なく、売れば売るほど損をする。これを魚河岸では「秋刀魚騒がせ」と呼ぶ。これも東京を始め東日本での話である。
また、市場で使われる漢字に「午」がある。「さんま」の「さ」を省いて「んま」を「午(うま)」として当てたものだ。魚河岸の隠語が存在するのも東京ならではだ。

徳川家が作った水路・川がサンマを運ぶ

旧江戸川,行徳

さて、本来、紀州に始まったサンマの食文化の中心が、1600年代に銚子をへて江戸(東京)、関東全域に広がり、サンマの食文化の中心が東京・関東に移るが、これは21世紀の現在も続いている。
その食文化の移行の始まりは銚子(千葉県銚子市)である。
徳川家が江戸入りし、17世紀(1600年代)を迎える。ちょうどこの時期、近畿地方で木綿の栽培が盛んになるとともに肥料である干鰯(ほしか。マイワシをゆでて干したもの)の需要が飛躍的に増大する。
この干鰯の原料であるマイワシをとるための網漁が紀州(和歌山県)で発達し、これが黒潮とともに銚子にもたらされる。
紀州で発達した網漁が最初に銚子に伝播したのは、黒潮の流れにのって紀州との行き来があったためである。
最初は季節限定ながら、紀州からの漁民が銚子で大規模な魚の水揚げを行い、やがて土着する。
紀州から来た漁師がとっていたのはサバ(マサバ)、イワシ(マイワシ)、そして季節限定ではあるがサンマである。
面白いのはこの時期(1600年代)、銚子には、兵庫県西宮から醤油の醸造法がもたらされ、紀州和歌山広川(現和歌山県有田郡広川町)からも醤油が伝えられた。
銚子は東日本の漁業の中心であり、醤油醸造の中心となる。

なぜ、銚子の漁業が発展したのか?
徳川家がくるまで江戸氏、太田道灌の太田氏の城下町であった江戸は日比谷入江が北に深く入り込み、陸地である現霞ヶ関などと半島であった江戸前島が分断されていて、湿地だらけで決して大きな町とは言えなかった。
徳川幕府になり江戸を大きくえぐるようにあった日比谷入江を埋め立てる。埋め立ては水路を築くということと同義語である。日比谷入江を埋め立て、江戸城の大手門を西から東に付けかえ、江戸城下の起点を日本橋に置くことで下町(日本橋周辺)が商業の場となる。
平地が増え、江戸城城郭、大名屋敷、旗本・御家人屋敷を建設、商業地区が生まれることで、人口が流入、やがて江戸は100万人を超える巨大都市になる。
このとき、もっとも苦慮したのが水・塩を含めた食料だった。急激な食糧増産が図られる。
同時に河川の改修とともに、江戸時代の主要な交易をになった水路が作られる。

銚子の魚は最短距離を探って江戸に来ていた


徳川氏が入って真っ先に必要としたのが塩で、これは行徳(現千葉県市川市行徳)の塩でまかなった。これを運ぶために開削されたのが小名木川と新川である。
同時に1600年代に利根川東遷(江戸湾に流れ込んでいた利根川を銚子に向けて流す)が行われるとともに、利根川から分岐する人工的な河川である江戸川が江戸湾(東京湾)まで繋がる。
江戸川はこれによって新川、小名木川と繋がり、江戸時代の高速道路とも言えそうな輸送路、江戸から小名木川→新川→江戸川、関宿町まで行き、利根川を下る舟運のための流路が完成する。
この大動脈を使い、東国の米、そして銚子の魚、醤油が江戸に運ばれる。
銚子の漁業が盛んになった時代、この江戸の高速道路がなければ江戸の町は年中水産物不足に悩まされ、当然、江戸の味であるサンマも存在しなかっただろう。

ちなみにサンマは房総半島東岸、安房(南端)でも揚がったし、東京湾、相模湾でも揚がった。
利根川を使った水運よりも、東京湾房総半島と三浦半島での舟運の方が先に生まれていたはずである。
それでもサンマは銚子が本場とされていたはずだ。というのは銚子に揚がったサンマには脂があったが、南下するにつれて脂が抜ける。
落語「目黒のさんま」の煙立つサンマは銚子に限る、だったのである。

これにて銚子は1945年以前から、1950年くらいまで、サンマの本場となる。
また現在でもサンマの加工品である、開き干しや缶詰などの代表的な産地であり続けている。

江戸から東京へと変わっても、銚子などから秋になると、「秋刀魚騒がせ」と言われるくらい大量のサンマがやってきていた。
これこそが食の点でも東京がサンマの中心となった歴史といえる。
■参考文献は別項をたてる。


関連コンテンツ

サイト内検索 (Google)

その他コンテンツ

ぼうずコンニャク本

ぼうずコンニャクの日本の高級魚事典
魚通、釣り人、魚を扱うプロの為の初めての「高級魚」の本。
美味しいマイナー魚介図鑑
製作期間5年を超す渾身作!
美味しいマイナー魚図鑑ミニ
[美味しいマイナー魚介図鑑]の文庫版が登場
すし図鑑
バッグに入るハンディサイズ本。320貫掲載。Kindle版も。
すし図鑑ミニ ~プロもビックリ!!~
すし図鑑が文庫本サイズになりました。Kindle版も。
全国47都道府県 うますぎゴーゴー!
ぼうずコンニャク新境地!? グルメエッセイ也。
からだにおいしい魚の便利帳
発行部数20万部突破のベストセラー。
イラスト図解 寿司ネタ1年生
イラストとマンガを交えて展開する見た目にも楽しい一冊。
地域食材大百科〈第5巻〉魚介類、海藻
魚介類、海藻460品目を収録。