202501/05掲載

旧頸城郡は、なぜ潟ではなく池なのか?

蒲原地方の潟が柏崎から南下すると池になる


旧西頸城郡西山、長嶺大池で白鳥を見ながら、考えたこと。
新潟市周辺、旧蒲原郡は湖沼を「潟」という。この湖沼を「潟」と呼ぶ地域は新潟県、石川県、福井県である。潟は潟湖のことであり、潮の満ち干に影響される水域でもある。
新潟市から長岡市方面・新発田市方面に車で走っているとき、ナビのない時代、土地の人はよく、「あそこの潟の手前を右に行け」だとか、「潟の向こう側」だとか、よそ者にはとんと見当のつかない道教えをしてくれたものだ。
理解できないので聞き返すと、「潟は池だな」などを言う。
大きな潟としては福島潟、鳥屋野潟などがある。
旧蒲原郡は潟だらけというか、土地がなく潟ばっかりの地で、後に埋め立てて陸を作った。福島潟で話を聞くと1950年代くらいまで田んぼで胸までつかって田植えをしていたという。
その内、排水が進み、埋め立てて膨大な耕作地を作って穀倉地帯になったが、それでも点々と地図にものならない潟が存在する。
もちろん昔は現新潟市中心部にさえも土地はなく、埋め立てによって町が作り出されたのである。だから「新潟」なのだ。
当然、旧蒲原郡には有力な国衆も大名もいなかった。

これが。旧東頸城郡、柏崎市から西に来ると「潟」ではなく「池」になる。ここから旧頸城郡まではもともと陸地であり、湖沼は池として存在していたのだと思う。例えば柏崎市西山、長嶺大池である。
途中、大潟村(現上越市)がある。ここは明らかに多くの潟があり、そこを総て埋め立てた地なのだと思う。この大潟のそばにあるのは「池」でしかない。

その、もともと陸地だった現上越市、妙高市は信濃の国へ抜ける街道がある。
上越市には越後の国も国府もあった。
長尾景虎(上杉謙信)がここに割拠して、大きな軍を備えることが出来たのも、中世以来の荘園地であり、交通の要衝であったためだ。この荘園地の重要性は、『中世荘園の様相』(網野善彦 岩波文庫)に詳しい。
ちなみに長尾家は守護代であり、明らかに中世の仕組みの中にある。
長尾家が上杉家になったのは中世(ボクは勝手に12世紀後半から豊臣秀吉が天下を取るまでだと思っている)の仕組み上の一段上、足利家の名跡である上杉の名が欲しかったためだ。これは伊勢家が北条家(北条早雲の)に変わったのと同じだ。
ここに上杉謙信の見通しのあまさが垣間見える。
平安時代になると守護・地頭の地方統治時代は徐々に衰退する。むしろ国(律令制の行政区分)にもともと勢力を築いていた、運送業者のような地下や武士(源平藤橘ではなく)が統治するようになる。その先にあるのが長尾家なのだと思う。
「池」という言語にも現上越・妙高が中世において越後の国の中でも重要なところであったことがわかる。


関連記事 ▽




呼び名検索

方言を含む全ての名(標準和名,方言,呼び名,外国名,学名)から水産物を検索します。

閉じる