ボクの歴史ノート ボクは吉良上野介の味方です
泉岳寺には観光客がいっぱい、本所にはだれもいない
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●本ページは改訂を繰り返します。
ボクは常々、気になる歴史上の話をテキスト化している。知らないと思ったときは、知らないことを調べて、どこまで知らないのかを知る、のがボクのモットーである。
さて、最初は吉良上野介から。
吉良上野介(義央)は、高家旗本(儀式や典礼などを司る家)で、先祖は足利一族で源姓である。
官位は高いが禄高は低いのも特徴かも。
赤穂事件(殿中刃傷事件)は元禄14年(1701)、徳川綱吉のとき、江戸城松の廊下で浅野内匠頭(長矩)が吉良上野介(義央)に切りつけたという事件である。朝廷からの勅使をもてなす宴の最中であって、浅野内匠頭は勅使饗応役を努めていた。浅野内匠頭は不届きとして即日切腹させられる。
高家(吉良家は上杉家とともに、足利時代以来の名家で高家はこの名家から選ばれる)はこの饗応の指南役であり、いうなれば勅使饗応役を補佐していたことになる。
翌年元禄15年(1702)旧暦の12月14日に赤穂浪士(浪人)47人に本所松坂町の屋敷に押し入られ、吉良上野介は多数の家来とともに殺される。
吉良上野介は1641年生まれなので59歳、浅野内匠頭は1661年生まれなので39歳であった。
間違いなく事実だと確認できることは以上だけである。
ついでにもうひとつ、事実をつけ加えると、徳川家康以来、家綱あたりまで、新年の登城を始め、幕府の儀礼が極端に細密化されていたことである。
浅野内匠頭はこの幕府が意図して複雑にした儀礼についていけなかったのではないか。
これが憶測が憶測を呼び、デマが飛び交う。
刃傷に及んだ原因は吉良上野介が浅野内匠頭にさまざまな嫌がらせをしたからである。製塩技術に関してのいさかい。
以上は事実としてどこにも残っていない。歴史上のデマである可能性が強い。
一連の事件に対し喧嘩両成敗の方に反する。
これを決するのは徳川綱吉と幕閣であり、すべての騒動に当てはまるわけではない。
幕閣の意向に反して吉良上野介ができることはない。
長男である三之助の上杉家への養子での陰謀説。
吉良家と上杉家は血縁ではないが同族とみなしてもいいので、婚姻などは良識の範囲である。
しかも当時、上杉家との関係を深くして得する部分はほとんどない。
長男を上杉家に行かせるなど、火中栗を拾うといったもので吉良家にとって負の方が大きい。
現在の考え方からすると、吉良上野介はどこから見てもただの被害者である。
その上、吉良家は取り潰しになり跡継ぎの義周は事件のあとに悲惨な運命をたどる。
この大量のデマのもとは仮名手本忠臣蔵が当たり狂言となったためだ。
忠臣蔵のもとになった仮名手本忠臣蔵のエピソードはすべてフィクションでしかない。
無関係な宝井其角が登場するなんて、バカらしくて笑う気にもなれない。
それでも忠臣蔵が持てはやされるのは面白いからだろう。
面白ければ無実の人間を悪人にしてもいいのか? と問いたい。
赤穂浪士には死者ゼロ、吉良家には死者21人
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テレビで忠臣蔵を放映しているのをみると、松本サリン事件を思い出す。あれなどデマがデマを呼び、被害者である河野夫妻をマスコミも国民も迫害したのである。
松本サリン事件と聞くだけで、報道を鵜呑みにしたボクは悔いて、恥ずかしい思いでいっぱいになる。
同じことが忠臣蔵にも当てはまる。マスコミや映画など罪なき人間を迫害しつつけていいのか。吉良家家臣は20人も死んでいるのに、追悼しないのか。
逆のケースでは今、ヒーローとか偉人とかされる水戸光圀(水戸藩二代目)に当てはまる。藩主、隠居時代を通じて欠陥だらけだ。幕末まで水戸家を苦しめる原因作りしかしていない。本人が気高くありさえすれば何をやってもいいのか?
歴史的事実だけを信じる努力って重要なのである。
さて、要するに事実無根のデマで悪人にされている吉良上野介の、ボクは味方である。

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