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徳島県美馬郡貞光町(現つるぎ町)大北町の北の端にあるのが松尾神社である。古くは神社の真下を吉野川が流れていた。ボクが子供の頃(1960年前後)にはまだ、神社の北に吉野川が流れていた名残である湿っぽい荒れ地が広がっていた。背の高い雑草が生い茂っていて、よくここで遊んだものである。駅に続く現在信号のある道(西条~徳島線国道)ができる前は、松尾神社と小倉の太夫さん(宮司)の家が北南に繋がっていた。この道は小倉家が南に移動したので出来たことになる。もともと貞光というのは松尾神社から南に続く一本道にある大北町、中北町、明治橋、南中町、南町、大南町の中で、松尾神社近くの大北町はそれほど賑やかなところではなかったようだ。小倉家が南に移動して駅へと続く道が出来たために町内でももっとも賑やかなところに変貌したのだ。町史の商店街地図を見ると化粧品店、理髪店、編物教室、魚屋、食堂・旅館、酒屋、美容院などが南に続く大北町に、東西にはパチンコ屋、旅館、パン屋などが並んでいる。松尾神社と道路を挟んだ東には町内3つあった銭湯の一つ、北風呂があった。このあたりは子供の目にも賑やかなところだと映ったものだ。

徳島県美馬郡貞光町(現つるぎ町)の町並みは珍しいことに、吉野川の支流、貞光川に平行に南北に一直線に並ぶ。これは市街地作りが計画的に行われた結果だという。北から大北町、北中町、明治橋、南中町、南町、大南町である。この商店街、通りは夜間照明が電球から蛍光灯になったのも古かった。ボクら子供達はこの明るい照明の下、夜でもキャッチボールが出来ると大騒ぎして喜んだ。『貞光町風土記―木綿麻の里に歴史を探る--』(柳川武夫 教育出版センター 1982)によると商店街で一番古い建物は、今はない郡大氏宅で棟木の札には1735年(享保20)とあるとのこと。享保は江戸時代の折り返し点で蜂須賀藩政の中期にあたる。このような蜂須賀藩政期にまで遡ることができる県西部の町並みのある町は、脇町(現美馬市)、貞光町、池田町(現三好市)だけだと思っている。しかも3町とも卯建(うだつ)の建物がある。これらは計画的に街作りが行われたはずだ。池田と貞光は商工業の町で、脇町は商工業の町である上に稲田氏の城下町である。池田の建物は本瓦葺きで一層卯建を持つ。脇町は本瓦葺きで一層卯建だ。貞光だけが二層卯建で本瓦葺きの屋根を持っていることになる。

さて吉野川右岸は(現徳島県美馬郡つるぎ町貞光)は江戸の藩政時代、明治時代を通じて吉野川の左岸(現美馬市)と比べると往還もなく僻地でしかなかった。ましてや江戸時代、明治まで吉野川の舟運が経済を動かしていた。その舟運のための港もなかった。そんな僻地に忽然と南北に一直線の商店街が出来たのは明治時代、そして徳島本線貞光駅が大正3年(1914)に出来て俄然発展する。商店街を中心に貞光の歴史、見どころ、地域性を感じる部分を残していきたいと思う。まずは青石についてだ。貞光町(当時、徳島県美馬郡貞光町貞光)の建造物には青石がいたるところに見られる。青石は四国の吉野川流域では非常に在り来たりなものでしかない。つるぎ町太田立石の前、吉野川の岸に渡しがあった。そこは非常に水深が深く、何人もの子供が溺れ死にをしたという話がある。そこでドブンという釣りをして「いだ(ウグイ)」などを釣っていたが、その釣り場全部が青石で、その大きさたるやテニスコート2面くらいはあったはずだ。吉野川は青石だらけだ、と言ってもいい。「阿波の青石」は、大阪などの商人に好まれ、高値で売れたと話す人がいるが、国内での石の評価などというものがあるのだろうか。貞光には、この大きな青石を切り出して売る、石屋もあった。

我が町、徳島県美馬郡貞光町(現つるぎ町)を流れる貞光川には現在2つの左岸の東と右岸の西を結ぶ潜水橋がある。南(上流)にあるのが「八幡橋」、そこから下手数百メートルのところにあるのが「長橋」である。「長橋」は単に「潜水橋」とも呼ばれている。潜水橋は国の企画で生まれた橋なので日本全国にある。珍しいものではないが、子供の頃はこれこそが橋だ、と思っていた。実際、吉野川にはいくつかの潜水橋が残っている。貞光町の歴史をみると貞光川を渡るのがいかに重要なことであったかがわってくる。潜水橋はコンクリートの橋台(川の袂の土台)と橋脚(間の橋を支える土台と脚)があり、橋自体もコンクリートで出来ている。橋の両側には高さ10cm・幅15cmくらいの台形の縁がある。洪水になると川の水が橋を越えて流れるのだと教わったが、「八幡橋」を川の水が越えているのは何度か見ているが、「長橋」を越えているのは一度しか見ていない。裏に住んでいたアンニャ(お兄さん)の肩に乗って見に行ったので、第二室戸台風かも知れない。ちなみに「長橋」は平地と平地を結んでいるので、多少川の水が越えても町にはそれほど被害はない。

貞光町(当時、徳島県美馬郡貞光町)は中世とか藩政期までの歴史は古くないが、明治以後、特に徳島本線が出来て以後、急激に発展をとげた町なのである。農業の町ではなく商工業の商店街を中心とした町なので、飲食店が無数にあり、特にお好み焼き屋だらけだった気がする。祇園さん(八坂神社)坂下のボクの家から小学校に上がる前によく行ったのが、いちばん近い『吉田屋』だ。タイル張りの作り付けの土台があり、鉄板が乗っていた。ボクの家の前が松浦薬局、北に向かうと尾花の肉屋があり、岩井牛乳屋で、その先にあった。大人の目のとどく範囲だったのでよく行ったものだ。ここのオジサンに蛇紋石の磨き方を教わったりした。小学校に上がると、水木しげるの「墓場鬼太郎」を読みに通っていたのが『おおみね』、川に行くときよく行ったのが少し遅れて出来た『にった』である。他にも潜水橋(長橋)に向かう道沿いに藤田商店、書道教室の近くに1軒のお好み焼き屋があった。南町に住んでいた子供の縄張り(昔はあったんだよね)内だけでも5軒のお好み焼き屋は、徳島県美馬郡でも最小に近い町としては珍しいのではないか?

吉野川の支流である貞光川(徳島県美馬郡つるぎ町)は今、明らかに不健康というか重い病気にかかった状況にある。たぶんもう取り返しがつかないと思うが、今に残るものを少しずつ整理してきたい。非常に健全であったときの貞光川を知っている人は今やほとんどいない。ただ1960年代、小さい川であるが長い上流域があり、短い中流域があり、吉野川との合流近くは下流域に近い環境であった。それが今やかなり奥(上流)の旧端山村あたりまで行かないと中流域の環境ではなくなっている。山が荒れているので吉野川合流地点から貞光市街地の端、木綿麻橋(ゆうまばし)くらいまでの川原が荒廃してしまっている。この市街地周辺の流域にもいたオオヨシノボリは、木綿麻橋の上流域に行かないと見られないのだと思う。岸に植えられた竹の枝がたわむくらいいたホタルはまだいるのだろうか?吉野川の大川に対して小川(こがわ)と呼ばれていた貞光川にいなかったニゴイが、わんさかいるのも不気味だ。この原因は明らかである。剣山周辺の森林の荒廃と自然環境を考えない護岸である。人間は自分の住む区域(生活圏)を暴力的に広げ、針葉樹の無理な植林をし、森林管理を放棄している。その結果、川の生き物の種類が減り、川原も川底も泥だらけになった。現在の貞光川には歴史的遺産が残り、美しかったときの名残はわずかしかない。過去に見つけたのは2つ。そのひとつが「かんのう」、そして青石の構造物だ。

ボクが生まれた徳島県美馬郡貞光町(現つるぎ町)には、「うどん屋」はあったけど、「そば屋」はなかった。あくまで麺の話ではあるが、県の真ん中あたりにある剣山に、近ければ近いほど「そば食文化」で、街中にくると「うどん食文化」だった。商店だったので、小学生くらいになると店が忙しいときは、歩いてすぐのところにある、『みどり屋』か、『飯田食堂』で、うどんか中華そばを食べた。配達で奥(一宇村もしくは端山村)に行くと、土釜のうどんを食べることが決まりだった。これがボクがときどき再現している理想のうどんである。理想の素うどんのうどんはゆでうどんであり、温めるとき、芯まで温めるが熱くしてはいけない。噛んで熱いと感じたら失格だ。つゆは煮干しでとったつゆで角があって、きれがよいもので、最初に塩気が来て、醤油のこくがあり、後からうま味の大波がくる。終いはサラリとした感じるのが理想だ。丼の中全体があまり熱くないのでするすると、短時間で麺をすすり込み、もういっぱい食べたくならないとダメだ。それにしても東京に真っ赤な「板つけ」がないのが悲しい。致し方なく、油揚げを刻んだが、「板つけ」やーい、とぞ思う。ついでに丼は1950年代以前のものだけど、今現在のうどん1前を入れるには小さすぎる。うどんは昔は間食のようなものであって、食事ではなかったのだ。これに合うゆでうどんがあるともっともっと理想的だ。
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