
田辺聖子を探す旅の伊丹市歩きは意外にも引っかかる点はほとんどなかった。阪急伊丹線伊丹駅からそのまま塚口駅まで南下する。ここで阪急神戸線に乗り換える。塚口は田辺聖子が学徒動員で通っていた郡是(現グンゼ)の工場があったところだ。滋賀県長浜市で田辺聖子と同年配の女性に、いかに学徒動員がたいへんだったか、というのを長々と聞いているが、田辺聖子の場合、比較的悲壮感がなく明るいのはなぜだろう? 田辺聖子の性格からだろうか?駅構内に天ぷらの店(薩摩揚げ)があるのが兵庫県らしいなと思ったが、すぐに電車がやって来た。阪急神戸線の運行本数は丸で山手線のようで、途中下車してもロスがない。あまりにも短時間で終わった伊丹市散歩で、少し時間があるので岡本駅で降りてみた。ここは谷崎潤一郎が多額の印税で建てた御殿のような家があったところだ。どんな町なんだろう? という好奇心と山手線なみの阪急電車の運行本の多さで降りた。参考文献/『花筏 谷崎潤一郎・松子 たゆたう記』(鳥越碧 講談社文庫)北口は住宅地でなにもない。南口にまわっても谷崎的なものはなにもない。短時間なので、近くまできただけ、に終わる。ただそこに『フロイン堂』があった。

田辺聖子は生まれも育ちも、その生涯も摂津の国の中で終える。大阪府大坂市福島は商人の町でメリヤス工場があり、日常のものは何でも買える商店があった。ABCホールがあったり、好きな居酒屋があったりで福島駅、新福島駅周辺は何度も歩いている。福島から兵庫県尼崎市出屋敷に移るが、ここも商店街があり、庶民的な町である。尼崎には今も三和市場が残っているが、それ以上に阪神ファンの町といった感じ。結婚後、一度、神戸市の異人館に移り住むが、すぐに湊川神社の上に引っ越す。「湊川神社の上」は、湊川神社よりも北という意味で山よりになる。ここなど完璧に商店街、庶民的な町だ。

新潟県新潟市西区五十嵐新川漁港周辺の生物・食物図鑑を作っていく。新川漁協に水揚げされる水産物は量的には多くないが、多彩であるし、おいしいものだらけである。新川漁港の周辺には磯や護岸もあるし、きれいな砂浜もある。多彩な生物がいて、そんな生き物とふれあえるのも魅力的だ。マイワシは北海道から九州までの沿岸域にいる魚だ。「いわし」は本種、カタクチイワシ、ウルメイワシのことだが、中でももっとも重要なもの、イワシの代表である。一昔前には大量に水揚げされ、非常に安い魚の代名詞だったが、これが不漁になり、一時は高級魚になってしまったことがある。ここ数年、国内中で豊漁が続いている。ただしマイワシのシーズンは一定しない。新川漁港では水揚げされることもあるが、むしろ釣りの対象として重要かも。寒い時季を除いて、群れが突然新川漁港周辺に集まってくることがある。2026年春には新潟県のあっちこっちで釣り人は竿をだし、小一時間でバケツ一杯になるほど盛況だった。

書籍を新しい方法で処分したいと思って、整理し始めて一箱出来たとき、手にしたのが、『大阪弁ちゃらんぽらん』(田辺聖子 中央文庫)だ。これにて本の整理は終了となる。聖子の沼にはまって抜け出せなくなったのだ。そうだ、神戸に旅に出る、その2割でいいので「聖子を探す旅」をしよう! と思った瞬間でもある。聖子といえば、大坂市福島生まれ、兵庫県尼崎に引っ越しし、結婚で神戸市に移る。そして終の棲家が伊丹市なのだ。恐るべき量のエッセイに登場する酒の銘柄はそんなに多くはない。伊丹市に引っ越してからは「白雪」、「大手柄」、そして「老松」の3銘柄で、「大手柄」はすでに廃業しているようである。伊丹市の北部に鴻池という地名がある。澄んだ酒をもっとも早く17世紀に作り出したのが鴻池の鴻池家で、江戸時代の下り酒の嚆矢となる。これが酒どころ伊丹の始まりである。この鴻池の物語、藤山寛美で覚えた気がするが、そんなことはどうでもいいかも。「鴻池の犬」というのもある。江戸時代も中期になりじょじょに灘の酒に主産地の座を譲るものの、江戸時代最初の下り酒は伊丹だ。JR伊丹駅から、いかにも作り込まれた道を西に向かうと「白雪ブルワリービレッジ長寿蔵ショップ」というのがあった。白雪、白鹿、白鶴が脳の中でこんぐらがっているので、「白雪」を飲んだことがあるのかないのかわからない。大阪で「白鶴」を数年前に飲んだ記憶があるが後2つは曖昧模糊である。1本買っていこうと店内を見て、できれば試飲したいなと思ったけどやり方がわからない。声をかけようと思ったものの店員の女性達がおしゃべりに夢中であった。営業時間中の店員のおしゃべりくらいいやなものはないので、早々に退散する。ボクごときが退散しても影響はないと思うけど、非常にヤな気分になる。

書籍を新しい方法で処分したいと思って、整理し始めて一箱出来たとき、手にしたのが、『大阪弁ちゃらんぽらん』(田辺聖子 中央文庫)だ。これにて本の整理は終了となる。聖子の沼にはまって抜け出せなくなったのだ。そうだ、神戸に旅に出る、その2割でいいので「聖子を探す旅」をしよう! と思った瞬間でもある。聖子といえば、大坂市福島生まれ、兵庫県尼崎に引っ越しし、結婚で神戸市に移る。そして終の棲家が伊丹市なのだ。JR伊丹駅を降りたら荒木村重の有岡城で、その先に見えたのが関西スーパーの鮮やかな金赤(マゼンタ・イエロー100%)の文字だ。関東では赤がくすみ、関西以西で赤はクリアで印象深くなる。

書籍を新しい方法で処分したいと思って、整理し始めて一箱出来たとき、手にしたのが、『大阪弁ちゃらんぽらん』(田辺聖子 中央文庫)だ。これにて本の整理は終了となる。聖子の沼にはまって抜け出せなくなったのだ。そうだ、神戸に旅に出る、その2割でいいので「聖子を探す旅」をしよう! と思った瞬間でもある。聖子といえば伊丹(方言漢字)だし、日本酒の「老松」、「白雪」、「大手柄」である。ついでと言ってはダメだけど、流転族のボクには偉大なる宮本輝だって住んでいるはずなのだ。目指すは伊丹市・神戸市なので、今旅は100パーセント摂津国の旅である。新幹線に乗って2時間15分ほど、大阪駅まで在来線で行き、福知山線(宝塚線)に乗り替える。尼崎をすぎたらカーブにさしかかる。心の中で手を合わせる。福知山線には今回初乗車だが、なんと15分で伊丹駅に着く。我が家から4時間と少しなので、旅をした気分には欠ける。

茂木町の話は続き、以後ページ改訂を繰り返していきます。・4月、栃木県茂木町の旅1 町を歩いただけに終わる・4月、栃木県茂木町の旅2 教わったおいしいそば屋は駅にあり本ページ4月、栃木県茂木町の旅は町歩きをしただけに終わったが、聞取が空振りだったのに、たくさんの情報が手に入った。さて和菓子屋のオカミサンにご飯が食べられる店を聞くと「駅の左においしいそば屋があるわよ」というので茂木駅を目指す。改札を出てみたら、止まっていたディーゼルカーがあまりにも不思議な模様なので、なんじゃ、これは、旅の情緒が消えるではないかと思い。そのおいしいそば屋が駅そばだったのも意外だった。店名は後で調べて、『駅そば平成』であることを知る。そんなに古い店ではない。

茂木町の話は続き、以後ページ改訂を繰り返していきます。・4月、栃木県茂木町の旅1 町を歩いただけに終わる本ページ・4月、栃木県茂木町の旅2 教わったおいしいそば屋は駅にあり栃木県茂木町へ日帰りの旅をした。データベースを維持するために日々忙しい。決め事が出来ないで終わることが多い。栃木県栃木市で会った方に昔、非常に重要な情報をいただいたことがある。聞き忘れたことがありそうだったのでケータイ電話番号を聞いて、会いに行こうと思いながら会いに行けないでいた。今年こそ会いに行こうとしたらケータイが繋がらない。ケータイが通じないけど、実際に教わった住所に行ってみたらご家族自体がいなかった。戦前に生まれた方に会いに行くと、このような空振りが非常に多いが、どうにもならない。今回の目的は「すなさび」、「すなはび」という魚で、標準和名はヒガシシマドジョウである。本人には会えなかったが、いろんな方から、重要な情報を聞き出せたので、意味のある旅とはなった。ついでに、今、日本史上、ひょっとしたら米以上に重要かも知れない馬の書籍を読んでいる。例えば、なぜ、平安時代から中世にかけて東北地方とか関東地方で血で血を洗うような争い事が多かったのか? その原因は馬であり、牧の支配権だということは明白なのではないか? その歴史の痕跡は地名に残っているはずだ。例えばボクの徳島県には美馬郡があり、美馬町があり、馬の伝説が残る。茂木町にも馬門という地名があるのだ。平安時代以前から国内に馬牧は数知れずあったが、馬牧は地形的に馬を隔離して飼育できる場所にしか作れなかった。伊達政宗の伊達家の戦の歴史を見ても、山間部の小さな点(城というか館)が非常に重要だったかがわかる。この点が馬を隔離する場所、すなわち牧なのかも知れぬ。今回は前回の福島県三春の三春駒に続く、馬の旅でもある。ところが残念なことに、茂木町に着いた途端にぎっくり腰だと思われる痛みに襲われる。歩けば歩くほど痛みが増す。結局、馬門にはいけず、茂木町をゆっくり歩くだけとなる。

・4月、岐阜県多治見の旅 1 多治見の町をぶらぶらと ・4月、岐阜県多治見の旅2 多治見の「ころかけうどん」 ・4月、岐阜県多治見の旅3 多治見の「ながせ商店街」 ・4月、岐阜県多治見の旅4 多治見銀座通り『丸香商店新町店』 本ページ・4月、岐阜県多治見の旅5 多治見銀座通り『安藤食料品店』 本ページ多治見銀座通りは残念ながらシャッター通りであった。それでも営業してる店がある。しかも、今や希少どころか、ほとんど見かけることのなくなった食料品店があった。いちばん表に野菜、棚に基本的な食材、奥に鮮魚のスペースがある。少々さびしい銀座通りにここだけが明るい。後から後からお客が来て、女性二人はひっきりなしに動き回っている。地元民にしかわからない話が飛び交い、日常的な会話が弾んでいる。

・4月、岐阜県多治見の旅 1 多治見の町をぶらぶらと ・4月、岐阜県多治見の旅2 多治見の「ころかけうどん」 ・4月、岐阜県多治見の旅3 多治見の「ながせ商店街」 ・4月、岐阜県多治見の旅4 多治見銀座通り『丸香商店新町店』 本ページ・4月、岐阜県多治見の旅5 多治見銀座通り『安藤食料品店』 多治見銀座通りは残念ながらシャッター通りであった。それでも営業してる店があって、そのひとつが丸香商店新町店(岐阜県多治見市新町)』である。金物店には工具や資材を扱う店と、より生活に密着している店に分かれる。この店はちょうどその中間ではないか?

・4月、岐阜県多治見の旅 1 多治見の町をぶらぶらと ・4月、岐阜県多治見の旅2 多治見の「ころかけうどん」 ・4月、岐阜県多治見の旅3 多治見の「ながせ商店街」 本ページ・4月、岐阜県多治見の旅4 多治見銀座通り『丸香商店新町店』 ・4月、岐阜県多治見の旅5 多治見銀座通り『安藤食料品店』 多治見市(愛知県多治見市)の古くからの市街地は土岐川の南にあり、北側は中央線多治見駅の開業で開けた。数軒スーパーをまわって再び市街地にもどる。土岐川の北なので新しい街とはいえ、多治見駅の開業は1900年なので歴史がある。データを再整理中、乱れた生活まっただなかの旅である上に、寝不足で歩く多治見の街はなんだか「どこまで行っても遠い町」な気がしてきた。気持ちのいい疲れがやってきて、「帰ろうかな」という思いがこみ上げてくる。でも、たまたま駐めた駐車場は数時間無料らしいので、無料時間の間歩くことにした。

・4月、岐阜県多治見の旅 1 多治見の町をぶらぶらと ・4月、岐阜県多治見の旅2 多治見の「ころかけうどん」 本ページ・4月、岐阜県多治見の旅3 多治見の「ながせ商店街」 ・4月、岐阜県多治見の旅4 多治見銀座通り『丸香商店新町店』 ・4月、岐阜県多治見の旅5 多治見銀座通り『安藤食料品店』 「ころかけ」とは何か?名古屋市では食堂のオヤジサンに聞いたけどわからなかった。知り合いのライターが知っているというので聞いてみた。岐阜県や愛知県では、たまり醤油を樽に入れ「ころころころがす」と味に丸みが出る。それをそのまま「かける」のでこの名がついた、という。まあ、これが正しいのか、どうかわからないが、調べると時間がかかりそうなのでボクの脳の外に放り投げておく。岐阜県は揖斐川町(すなわち西部)から、恵那市(東北部)から、点々とめぐり、食べものを片っ端から買って撮影して食べてみている。ここに憶測とか、考察はなく、ボクの分野で後々に、その土地の食品や土地柄を再度確認するためだ。このなんでもかんでも集めるのは、水産生物と人との関係を調べる上で非常に重要なことなのだ。今回の旅も、出来る限り食料品を買い、見てまわるのも目的だったが、この多治見にある「ころかけうどん」と伊勢地方にある「伊勢うどん」を比較してみたかったのもある。「伊勢うどん」は三重県で何度も買っているし店でも食べているので馴染みがある。しかも今や、都内で比較的簡単に手に入る。これに対して「こりかけうどん」は現地に行って食べてみなくてはならない。「こりかけうどん」発祥の店とされる『信濃屋』には40年くらい前に立ち寄っている。画像はポジで残っているが、焼いていないのではっきりしない。この時代に料理店で料理を撮ることはたいへん勇気がいったし、撮影をする人など皆無だった。岐阜県多治見市の40年前の旅では、この店だけの写真が残っている。撮りやすい店の雰囲気だったのかも知れない。

・4月、岐阜県多治見の旅 1 多治見の町をぶらぶらと 本ページ・4月、岐阜県多治見の旅2 多治見の「ころかけうどん」 ・4月、岐阜県多治見の旅3 多治見の「ながせ商店街」 ・4月、岐阜県多治見の旅4 多治見銀座通り『丸香商店新町店』 ・4月、岐阜県多治見の旅5 多治見銀座通り『安藤食料品店』 現在、データベースの画像データを新しい階級に当てはめている。失敗すると余計に手間がかかるので、地道で薄暗い道を行くようで、疲れがたまる。疲れがピークになったとき、そのままダウンすると余計に体調が悪くないので、食文化を探す旅に出る。前回の岐阜県は恵那市だったので、そのまま南に下って多治見市に出掛けることにした。多治見市は人口10万人ほど。陶器や磁器の町であるが、名古屋市の通勤圏であり、思った以上に大きな町で、食文化的にも名古屋の影響が強いという。多治見市といえば焼き物の町でもあるし、思い浮かぶのは荒川豊蔵だ。偶然だが、『べにや民芸店』で会ったばかりの栃木県益子町の石川雅一さんは荒川豊蔵の弟子である。ただし、現代の織部や志野には興味がないので、もっぱら町歩きをする。市内に着いて駐車場を探していたら、いきなり地元の方に声をかけられ、「駐車場を探している」というとナビに市役所の駐車場の場所を入れてくれた。「同じ車だからね(意訳)」ということだった。考えてみると岐阜県に行くと、ボクと同じ車がやけに多くなる。車が同じだというだけの理由ではなく、後々、わかったのは多治見の方はとても親切で面倒見がいい、ということ。

岩槻(埼玉県さいたま市岩槻)に行ったのは2月、3月と事務的な仕事があり、また分類の階級整理をしていときだ。階級整理は準備しているだけなのに本当にハードワークである。疲れてベッドにダウン。小津安二郎関連の書籍を読んでいたら、三宅邦子が岩槻出身であることを知った。岩槻というのは享徳の乱の重要な地で、太田氏(太田道灌とは別家)が築城するなど、騎西町(埼玉県加須市)とともに面白い地でもある。ちなみに中世、太田氏、成田氏、岩松氏はひょっとしたら一所懸命の語源のひとつだと思っている。ネットを使って調べると三宅邦子の実家は江戸時代天保年間創業の川魚問屋であり、後に料亭となる。屋号は『鮒又』で現在も続いているようである。疲れているときには、休むよりも旅に出るべしだ。

その方面の人間から「名古屋の旅で、食で視聴率がとるには本命、名古屋飯に限る」という話を聞いた。トンカツなら味噌カツ、麺なら台湾ラーメンにみそ煮込みうどんといった具合で、ある程度知名度のある方がいい、らしい。ボクはそれだけはやりたくないので、旅先の飯はイキアタリバッタリとなる。愛知県名古屋市大須で、尋ねた人が不在で30分で帰ってくると言われたので、食事を摂ることにした。旅するときには前日からあまり食べず、行き来にもなるたけ食べないのがモットーなので、お腹と背中がくっつくぞ、という状態だった。ここは有名なあれ、が目と鼻の先にある。でもあれ、がうまいと思ったことがない。その方の店の女性に教わった店に向かう。といっても目と鼻の先である。こぎれいな店で、当たり前だけど名古屋飯ではないし、がやがやとうるさくない。

ときどき昔の仲間が情報をくれる。今回の情報はボクのことが嫌いだ、という年寄りのライターからである。1、埼玉でも岩槻の人は、岩槻は(関東で)特に海からいちばん遠いと思っている。2、岩槻(埼玉県さいたま市岩槻)では海の魚なんてめったに食わなかった。3、さいたま市岩槻郷土資料館は面白い。ひょっとしたら「ざっこ」情報あるかもと思ったし、ちょうどそのとき小津安二郎関係の本を片っ端から読んでいた。いざ、岩槻に行かん、と思ったのが当日の午前7時だった。少し贅沢して新宿までは超特急にする。お金を余計に支払っても、電車に乗ってるだけでも1時間半前後かかる。普通だったらもっと遠いかも。例えば新宿から岩槻までは、慣れていれば大宮までは埼京線などですぐだけど、ボクはいつも埼京線乗り換えでまごつく。やっと大宮駅(たぶん大阪駅よりも大きい)にたどり着くと、広すぎる駅構内の外れにある東武アーバンクラインに乗り替える必要がある。岩槻駅を出ると、さすがに岩槻人形というだけのことはある、人形屋だらけだった。

柴田錬三郎旧邸のある高輪桂坂から道を逸れてだらだら坂を上ったら、小さな商店街があった。いちばん左に『フヂイテーラー 高輪本店』、その次がサンドイッチの『SANBARL』、骨董店があってと目が定まらないくらい懐かしい店の並びである。1960年代(?)そのままの商店がそのままの形で残っているなんて!とここまでは前回も書いた。柴田錬三郎旧邸以外は完全なる無駄歩き。後に打ち合わせなので、和菓子屋をただただ巡って歩く。その和菓子屋にたどり着いたら食堂だった。桜田通りの高架の脇道を下るとその店があった。入り口には食堂の品書きがあって、和菓子の気配がない。和菓子屋ではなくても11時を過ぎているので食事を済ませてもいい。引き戸に手を掛けると開かない。人の声のする方に行ったら和菓子のケースがあって、食堂の入り口もあった。思い切って入ったら屈強な男性がやって来て、なんとなく忙しない雰囲気を感じたので、ラーメンをお願いする。

柴田錬三郎旧邸のある高輪桂坂から道を逸れてだらだら坂を上ったら、小さな商店街があった。いちばん左に『フヂイテーラー 高輪本店』、その次がサンドイッチの『SANBARL』、骨董店があってと目が定まらないくらい懐かしい店の並びである。1960年代(?)そのままの商店がそのままの形で残っているなんて!とここまでは前回も書いた。

高輪桂坂から道を逸れてだらだら坂を上ったら、小さな商店街があった。いちばん左に『フヂイテーラー 高輪本店』、その次がサンドイッチの『SANBARL』、骨董店があってと目が定まらないくらい懐かしい店の並びである。1960年代(?)そのままの商店がそのままの形で残っているなんて!とここまでは前回も書いた。サンドイッチを買って数歩二本榎通りを泉岳寺方面に歩くと、骨董店、『諸道具みやた』があった。店先に飾ってあったものに目が釘付けになる。昔、京都の北野天満宮で見たのと同じものだ。黄色い(Y80%くらい)ティーカップで、骨董市では5客セットでしか買えないというので断念している。ちなみにボクに骨董趣味はない。骨董趣味とは? 物に対して本物偽物の区別をつける世界で、ボクとはまるで縁がない。ボクの場合は懐かしいとか、惹かれるとか、撮影に使えるとかで買うだけだ。1客でも売ってくれるというので買った。この店にはボクのほしい物がわんさかある。困った店だが、そんなに高くない。散財ではあるが買ってしまおうと思うものがひとつ、ふたつある。そのためにも節約、節約に励まないと。

「なみえ焼そば」を土産にいただいた。震災後15年たった3月、考えてみれば福島県双葉郡浪江町には20年近く行っていないことに気づく。流行とかブームとか、ボクとは無縁なので、浪江町の「なみえ焼きそば」は土産にいただいて初めて存在を知った。太麺を使ったものでソースにこくがある。コショウではなく唐辛子というのが特徴なんだろう。土産用なのにとてもよく出来ていて、普段食べている細麺にウスターソースよりもうまい、と思う。もらってうれしい土産である。さて、震災はあまりにも悲しい出来事だが、今の浪江町のことも考えなくてはならないだろう。水産関係者で、浪江町にある請戸(うけど)を知らないと、最低限、関東の市場では商売が出来なかったと思う。それほど請戸漁港は関東にとって重要な水産物の供給地だった。築地通いをしていたとき福島県では原釜とともに、もっとも早いときに頭に入ってきたのも請戸である。福島県沖の水産物は早い時期に放射能の影響がなくなり、安全であることがわかっている。あれから15年、請戸漁港は復活して長いということを、関東の市場人も知っておくべきかも知れぬ。

高輪桂坂から道を逸れてだらだら坂を上ったら、小さな商店街があった。いちばん左に『フヂイテーラー 高輪本店』、その次がサンドイッチの『SANBARL』、骨董店があってと目が定まらないくらい懐かしい店の並びである。1960年代(?)そのままの商店がそのままの形で残っているなんて!

三田高輪がやけに面白い。1月、2月、体調不良解消のために近所歩きをし、ときどき気になるところまで遠征して歩いている。ボクはこれを水産生物から離れたものなので無駄歩きという。今回は高輪ゲートウェイから恵比寿まで歩く。もちろん仕事前の時間を使っての無駄歩きだけど最大の目的は柴田錬三郎旧宅である。大きすぎてなんだかわからないTAKANAWA GATEWAY CITY でトイレだけをして国道15号(品川近くで第一京浜となる)を渡ると、上り坂が続いている。この坂道の名を桂坂という。坂道の登り始めに「高輪海岸の石垣石」とその説明板がある。江戸時代、日本橋を出て品川にいたる東海道中でこの石垣の先は江戸湾(東京湾)の砂浜だった。ぼーっと説明板を読んでいたら、ボクの脇をモデル体型の女子がす、す、すーっと桂坂を駆け上って行く。なんだか春風のようでカッコエエな、と思う。正面に不思議な建物が見えてくる。1977年に作られた「桂坂ハウス」という名のビルだ。

徳島生まれだが、18歳で上京したので、徳島の食べもの屋事情には疎い。今回の店も「阿波うまいもん食べ隊」という、市場人に教わったSNSで知ったもので、老舗の食堂だと思い寄ってみた。建物はともかく店の創業はかなり古そうである。徳島県の食堂は、食堂とはいわず「うどん屋」ということが多かった。今現在、徳島市でも年をとった人は「うどん屋=食堂」だ。たぶん『すし・うどん 福助』も本来はただの「福助」で「うどん屋」だったのだと思われる。うどん、そばのほかに中華そばもあるし、カレーや丼ものもある。この品揃えも徳島の「うどん屋」そのものである。

「本郷も かねやすまでは 江戸の内」とすると千石は江戸の外になるが、江戸後期に朱引き内という江戸の丁の範囲が出来ると千石も江戸の内となる。千石は現在の住所だが、今回の『進開屋』のあるところは小石川植物園そばでもともとの丁名(町名)は林町である。実際、今も町内会は林町だし、文京区立林町小学校であるので、林町の名は残っているともいえそうだ。ここ10年ほど前から小石川植物園帰りに、『進開屋』の前を何度も通った。過去のデータを見ると年に数回、小石川植物園に行っているが、行く日は休市(市場の休日)との兼ね合いから金曜日となる。植物園を見た後、植物園まわりをぐるりとまわる。店の前を何度か通っているが、のれんがかかっていたことは一度もなかった。まさか閉店してしまったのか? と思ったらのれんがかかっていなかったのは金曜日が定休日だったからだった。

9月1日、早朝から鈴木重雄さんの刺し網漁に乗船させていただき、新川の猛者達と海岸線で生き物を探した。これにて詰め込みすぎの4日間がやっと終わった。途端に、異常に腹が減っていることに気がつく。午前中でもろもろが終わったので、越後新川の仲間達に教わった、超オススメの『味の八珍亭』を目指す。ちなみに二番手におすすめなのは『こまどり』だった。先行く車が右折したら、そこが『味の八珍亭』だったものの、なんと定休日だった。疲れと腹ヘリで体がふやけてきた。仕方なく、もうひと踏ん張り、もう一軒の『こまどり』へ。店は実に地味だが、駐車場はやたらに広い。しかも空きがない。困っていたらクラクションが鳴って、ここよ、ここよ、と知らない人が空いたばかりの空間を教えてくれた。駐車場の混み具合をみて、「混んでいそうなのでやめます」と言ったら、「待つかも知れませんが、きっとすぐ入れますよ」と教えてくれる。これから新しい店を探す気にもなれず。熱暑の、店前の空間で待つ。確かにたいして待つこともなく、店に入れたと思ったら、こんどは店内が非常に広いのに驚かされる。昼酒をしている人もいるけど、ほとんどが麺類を食べている。やって来た店員さんに言われた通りに味噌ラーメンにする。これが、信じられないくらいに腹ヘリだったためか、ウルトラ級においしい。スープの塩気で、ふやけた体がしゃきっとして、丼に残ったスープ一滴も残さず平らげた。とすると、噂の『味の八珍亭』はどれほどうまいんだろう?

居酒屋で半分討ち死にをし、ホテルまで戻ろうとしたとき見つけたのがステーキの店だった。まさかステーキはないだろう、と思ったらハンバーグがあった。『ドスビーバー』という店で、家族ずれが出て来たのを見て店内に入る。外観通り狭い店だけど、匂いからして正解だと思った。

8月30日、ホテルにたどりついたら体がゆらゆらする。それでももったいない気がして外出する。非常に空腹なのは午前2時から動いているためで、腹にかなり詰め込んでも、詰め込んでも腹が減るのは、情報処理をしながら動いているからだ。ボクの頭部には大量のソケットが生えていて繋がるソケットを探している。歩きながら情報を整理して繋がるソケットを探す、と、とても疲れるし、腹が減るのだ。さて、古町を目指す。居酒屋的な、がさつだけどがさつすぎない店が好きなので、探し歩くが、歩くのが辛くなってきた。そのとき見つけた静かそうな居酒屋に入る。入ってすぐ、だめだ、と思ったけど、もう遅い。仕方ないのでビール、日本酒に刺身などをお願いする。刺身は地物のようだしぎりぎり合格点ではあるが、たぶんこの板前さん、プロではない。しかも注文して出てくるなどのタイミングが悪い。

出稼ぎのとき、昼時にこんな店に当たるといいなという、まさに、そんな、そば屋だった。湯河原は知り合いが住んでいるのでわかるが、熱海よりも古くからの隠棲の地である。ボクの知っている限り、熱海同様に多くの成功した人間、生粋のお金持ちが都心から移り住んでいる。明治時代から多くの文人墨客に愛されたということもある。それにしてもこの、そば屋は完璧であった。天丼の天ぷらがうまいし、ご飯がいい。期待しないで食べたそばがボク好みであった。たまには出稼ぎもいいな、と思った次第だ。

新暦の初午の日は2月6日、二の午は2月18日である。南会津、午の日に行われる行事に欠かせない郷土料理「つむづかり」の、材料の主役は大根である。福島県会津地方でも南会津町は山の中であり、雪深いところであるが、「つむづかり」の大根はこの時季、雪の積もる前に収穫して保存して置いたものを使う。その雪の下の大根を、二の午の日に、岩下の『みどりや』さんに分けてもらって来た。原産地のわからない大根の、国内への移入時期は非常に古い。歴史時代以前からある。寒冷なところでも作れる。歩留まりがよく、生でも食べられるし、煮ておいしいなど、これほど優れた野菜は他にはない。歴史のある野菜なので、その土地土地で生まれた品種が無数にある。今でも地方に行くと日本各地に在来種が散らばっていて、買うのが楽しみである。土地土地の在来種を手に入ると、大根という野菜の奥深さを感じずにはいられない。東京都内では、最近、愛知系のF1ばかりで在来種はなかなか手に入らない。F1がダメだというわけでないが、程よい大きさで、あくが少なく、筋がなく均質な、今どきの大根ばかりを食べている気がする。今回は地元のみなさんにとてもお世話になったが、この大根など予想外のものでありがたいとしかいいようがない。今回いただいた大根はなんと2㎏以上の大大根である。地元では煮崩れないので「おでん大根」というらしい。ずんどうで直径が15cm前後もある。表面は泥で汚れているようだったので、タワシでこすったが一向に取れない。染みついているようなのだ。今どきこんな大大根はスーパーで売っていても、牛乳パック2本分の重さでは誰も買わないだろう。

2025年2月18日、深夜2時前に我が家を出発して、那須塩原までは順調な旅であった。問題は南会津町に入ってからで、雪道の運転に緊張しっぱなし。岩下で最低限の目的を果たして、1泊旅を日帰り旅に変更、せめて只見までと思ったのが大間違いだった。両脇は雪の壁だし、北上するにしたがい雪の壁がずんずん高くなるし。只見駅の手前、融雪パイプが途切れたところで除雪車とトラックの間に挟まれ、立ち往生したところで旅を終えることにする。開いている店がなく、外食できそうな店もない。だいたい店などの入り口がわからない。せめてもと思っていた旧伊南村にある山田ストアーの稲荷ずしもこの雪のためになかった。ここでトンカツなど惣菜を買って撤退する。帰宅するや、体のふしぶしが痛み、そのままダウン。翌日は朝寝坊して山田ストアーのトンカツを使って、ソースかつ丼を作る。トンカツはフッ素加工のフライパンでゆっくり温める。ウスターソース・ケチャップ・砂糖でいちばん簡単なソースを作る。チンしたご飯に、水さらししないでそのままのキャベツのせん切りを乗せる。温めたトンカツを食べやすく切り、ソースをたっぷりかけ回す。このいい加減に作ったソースかつ丼が意外にうまい。南会津の旅にもならなかった旅を思いだして、また行くぞ! と独りごちてまた眠る。

待つのが仕事のような出稼ぎのとき、熱海にいるのはとてもありがたい。熱海には、もちろん知名度の高い、観光客が群れるような店もあるけれど、地元の人がこっそり食べる、そんな店もある。熱海の魅力は表面だけではわからない。地元の方に教わった初めても店だけど、地元の人が通う店で、ご飯お代わり、はしなかった。

天然キノコに関してはまったくの門外漢だけど、ときどき買ってみたくなる。新潟県妙高市新井の朝市にあったのは、瓶入りの「やぶたけ」というキノコだ。瓶入りの中身を見て、どこかで見た事があると思ったけど思い出せない。それなりの値段なので、思案していたら、「ナラタケだよ、おいしいよ」と教わって買って来る。別にナラタケの味を知っているわけでもないのに。

新潟旅といっても帰り道の、だ。妙高高原のスーパーで凄く元気なバアチャンに会った。人が歩かないところにはボクのへそあたりまで雪が積もっている。「歩いてきたんですか?」と聞いたら、「こんくらいの雪なら歩く歩く」と言わた。高速に乗って一般道から離れようとしていた気持ちが、そのまま一般道という気持ちに変わる。「峠越えて行きなさいよ(以上総て意訳)」どれが峠なのかわからないまま、峠を超えたら同じスーパーがあって、帰宅時間を考えてすぐに食べられるものを買った。そこで見つけたのが「一茶納豆」である。このスーパーのある長野県信濃町のものか、と思ったら長野市のものだった。

ボクの旅は目的以外は行き当たりばったりで、下調べはしない主義、なのである。2024年12月27日、一印上越魚市場サメ競売の日は午前2時半には吹きさらしの市場にいて、それから5時間場内を右往左往する。あまりにも発見が多くて知識が脳から噴き出しそうになったので、テキスト化する。それから高田の朝市に向かい、雪の舞う中買い物をする。直江津まで戻り、直売所に行き、スーパー2軒を回ったところ、大きな交差点手前に食堂のような赤い派手な店を発見した。車の時計は11時半となっている。次の約束が1時だなと考えたら、腹の虫が鳴く。なんと18時間近く水しか飲んでいない。夜明け前からしゃべって、メモして、テキスト化して、考えて、だ。駐車スペースがない、と思っていたら一台出た。つられてそこに車を入れる。チェーン店では食べない、と決めているが、明らかに違う気がする。

新潟の旅は出会い旅であった。こんなにたくさんの人と話をするなんて思っても見なかった。聞きたいことが多すぎる旅なので、この上越人の親切で寛容なところに大いに助けられた。

高田城からとぼとぼ歩き始めたら、遠くの方でどーーーんがどーん、と凄い音がした。木がバキバキ折れるような音までする。そのときまだボクはこの冬の雷の怖さを知らなかったのだ。雷が近づいてきているな、と思った途端、歩道に白いものが点々と弾ける。点々とだったのはほんの少しだけで、どどどざざざと大きな氷の塊が頭を叩く。大急ぎで車にもどり傘を差したときにはずぶ濡れだった。

新潟県妙高市は人口3万人弱、海がなく、北国街道ぞいの宿場町だったところだ。日本海から信濃に向かい標高の高い山々の入り口に当たる。そのまま北国街道を南下すると妙高高原、長野県に入り、一茶で有名な信濃町、飯綱町になる。

今回の新潟県妙高市・上越市の旅で残念だったのは朝市の、どら焼きが買えなかったこと。妙高市新井の朝市で行列ができていたので、上越市高田の朝市で買おうと思ったのが大失敗だった。高田の朝市には、どら焼きの屋台がなかったのだ。何軒かあったどら焼きの店が、減っているらしい。どら焼きといっても、どちらかというと今川焼きそっくりで、ともえ型のくぼみがある。銅鑼を鳴らすの銅鑼に似ているから、だという人もいる。

天保13年(1842)の江戸三座、浅草聖天町移転とか、中村勘三郎家についてとか、江戸時代の文化、食文化の完成期の書籍を読んでいる。読むだけでは理解できないので、近ければ実際に歩いてみるのがボク流。猿若町の中程に立って、聖天町(猿若町)が山谷堀に近いこと、新吉原にも近いこと、江戸三座、浄瑠璃などの小屋があった時代の名残はみじんも残っていないこと、などを見た。これじゃ、お貞ちゃん(おていちゃんで、沢村貞子の貞子は「ていこ」)がひょっこり現れる、なんて想像できない。それにしても戦前の軍部も政治家も、現在のプーチンと同じ、アホとしかいいようがない。せっかくなのでお昼を猿若町で食べようと、酒屋のオヤジサンに教わったのが、中村座跡にある洋食『いいま』だ。素直に開店まで待って、自分がいちばん食べたいトンカツを食べて帰ってきた。ボクの外食や買い物はいつも、なりゆき、なのだ。酒屋のオヤジサンと同じ、さしすせそのない人たちの会話が飛び交っているのがいい。飲みごろ温度の生ビールがすこぶるつきにうまい。これは三ノ輪からジグザグに5キロ近く歩いたせい、だけではないとみたが違うかな。

旧西頸城郡西山、長嶺大池で白鳥を見ながら、考えたこと。新潟市周辺、旧蒲原郡は湖沼を「潟」という。この湖沼を「潟」と呼ぶ地域は新潟県、石川県、福井県である。潟は潟湖のことであり、潮の満ち干に影響される水域でもある。新潟市から長岡市方面・新発田市方面に車で走っているとき、ナビのない時代、土地の人はよく、「あそこの潟の手前を右に行け」だとか、「潟の向こう側」だとか、よそ者にはとんと見当のつかない道教えをしてくれたものだ。理解できないので聞き返すと、「潟は池だな」などを言う。大きな潟としては福島潟、鳥屋野潟などがある。旧蒲原郡は潟だらけというか、土地がなく潟ばっかりの地で、後に埋め立てて陸を作った。福島潟で話を聞くと1950年代くらいまで田んぼで胸までつかって田植えをしていたという。その内、排水が進み、埋め立てて膨大な耕作地を作って穀倉地帯になったが、それでも点々と地図にものならない潟が存在する。もちろん昔は現新潟市中心部にさえも土地はなく、埋め立てによって町が作り出されたのである。だから「新潟」なのだ。当然、旧蒲原郡には有力な国衆も大名もいなかった。これが。旧東頸城郡、柏崎市から西に来ると「潟」ではなく「池」になる。ここから旧頸城郡まではもともと陸地であり、湖沼は池として存在していたのだと思う。例えば柏崎市西山、長嶺大池である。途中、大潟村(現上越市)がある。ここは明らかに多くの潟があり、そこを総て埋め立てた地なのだと思う。この大潟のそばにあるのは「池」でしかない。その、もともと陸地だった現上越市、妙高市は信濃の国へ抜ける街道がある。上越市には越後の国も国府もあった。長尾景虎(上杉謙信)がここに割拠して、大きな軍を備えることが出来たのも、中世以来の荘園地であり、交通の要衝であったためだ。この荘園地の重要性は、『中世荘園の様相』(網野善彦 岩波文庫)に詳しい。ちなみに長尾家は守護代であり、明らかに中世の仕組みの中にある。長尾家が上杉家になったのは中世(ボクは勝手に12世紀後半から豊臣秀吉が天下を取るまでだと思っている)の仕組み上の一段上、足利家の名跡である上杉の名が欲しかったためだ。これは伊勢家が北条家(北条早雲の)に変わったのと同じだ。ここに上杉謙信の見通しのあまさが垣間見える。平安時代になると守護・地頭の地方統治時代は徐々に衰退する。むしろ国(律令制の行政区分)にもともと勢力を築いていた、運送業者のような地下や武士(源平藤橘ではなく)が統治するようになる。その先にあるのが長尾家なのだと思う。「池」という言語にも現上越・妙高が中世において越後の国の中でも重要なところであったことがわかる。

天保13年(1842)、徳川幕府は、それまで堺町、葺屋町(東京都中央区人形町)、木挽町にあった中村座、市村座、薩摩座(浄瑠璃)、結城座(浄瑠璃)を浅草聖天町に移転させる。後に河原崎座が移転してきたことで江戸三座が並び立った。このとき聖天町から猿若町に町名が変更されたのだ。「猿若」は、猿若勘三郎(中村勘三郎)にちなむ。猿若勘三郎は1924年、江戸で最初の常設の芝居小屋である「猿若座」を作る。江戸歌舞伎の始まりは狂言師であった猿若勘三郎が京から江戸に流れ着き、江戸に座を作ったことに始まるのだ。テレビでしか歌舞伎を見た事のないボクがいうのも変だけど、歌舞伎の演目が狂言と呼ばれること、歌舞伎には舞、長唄など多彩な面があるのも、猿若勘三郎の流れかも。余談になるが、中村勘三郎家は江戸時代、歌舞伎俳優でもあり、座主でもあり、興行師でもあった。市川團十郎や中村仲蔵、大阪の中村鴈治郎とはまったく違う、特異な存在である。天保期、江戸三座の廃止をもくろんだ水野忠邦を押しとどめて、移転させたので有名なのが、遠山景元(遠山金四郎)だとされている。江戸の街にあった最大級の娯楽施設の移転先に、この待乳山聖天に隣接する地が選ばれたのか?そのボクなりの答えが、全然無関係な、沢村貞子の『私の浅草』を読んでいていきなり整理整頓された。浅草→浅草寺→(新)吉原→江戸三座→魚屋(魚河岸、漁港)だ。沢村貞子が加東大介(ボクが子供の頃とても人気があった)が育った町、猿若町に江戸の食文化を考えるヒントがあったのだ。念のために沢村貞子は林芙美子、武田百合子と並ぶ、文章の達人である。この待乳山聖天から猿若町にかけて、魚屋や淡水魚を売る店が多かったのではないか、と。

下町という言語はいつから世間に流布したのか? 東京都内を飛び出して全国的な言語になったのか?1963年の映画『下町の太陽』からだと思っている。本来、下町とは小林信彦が述べているように中央区を指す言葉だった。この3区で、隅田川両国橋の西の「両国(本来の両国のことで現在の両国は葛飾。現東日本橋たり)」という地名が消えたために、最も下町だった中央区が下町でなくなる。そして、もっとも一般人の下町感を変えたのは映画だ。映画によって下町は東へ、東へと広がり、移動していく。映画『下町の太陽』で隅田川を越える。『男はつらいよ』(1970)で荒川・中川も越えたことを明確化する。考えて見ると、渥美清の台詞に「私、生まれも育ちも葛飾柴又です」があったはずで、主人公は葛飾在と言っているのに、下町の代表になる。蛇足だけど、『下町の太陽』は、あまりにも倍賞千恵子が可憐かつ美しすぎて、ほかの俳優は2度も見たのにぜんぜん記憶に残っていない。取り分け勝呂誉などいなくてもよかったかも。京成の路線図を見ていると、山田洋次(1931〜)の社会学的意味は大きい。

『木皿食堂』に熱中している。ベッドでは、曲亭馬琴やベルツの世界にいないといけないし、ちょっとだけ平安時代なのに、読んではいけない禁断の世界に落ち込んでしまっている。著者の女鹿年季子は神戸在住で、ポークチャップ(ポークチョップ)を食べているときのことが出ている。これだけでも今どきの、人ではないことがわかる。「ポークチャップ」は昔、2つの顔を持つ尼崎(兵庫県尼崎市)のざわざわした方の食堂で一度だけ食べている。ついで書いておくが、尼崎はこのざわざわした阪神めいた南の方が、パルナスの喫茶店もあるし(今もあるかわからないけど)、で好きだ。商店街に阪神の歌(たぶん)ががんがんに流れて、マジック70とかあって意味不明なところもいいし、オバチャン、オッチャン、バアチャン、ジイチャンの野球帽比率が高いのもすごい。商店街にあるへんな物体を眺めていると、肩に抱きついてきたオッチャンに、「旅の人でっか?」と聞かれてうなずくと、「阪神タイガースは大阪ちゃいます、尼崎です(ともに意訳)」とか、言われて、ビックリして逃げたことがあるのも、南の尼崎の魅力だろう。閑話休題。おいしいかったのか、といったら「?」だった。どこかしらもの足りない思いしかボクの脳みそには残っていない。たぶんこの料理、関西では普通だけど、関東にはない、のではないか? とすると関西発祥(大げさだけど)かもしれない。味はケチャップそのものだった気がする。ケチャップを使っているだけでオシャレ、といった時代があったんだと思う。

関東の醤油醸造は17世紀に銚子で初まり、土浦(土屋家で、茨城県土浦市)でも作られる。この時代、江戸のハイウェーである利根川、江戸川、新川、小名木川が機能し始めていたときである。一代目、市川段十郎(後に團十郎 1660-1704)は両親の里である成田まで、このハイウェーを利用して日本橋、行徳、松戸、関宿、佐原まで舟運で行く。銚子、土浦の醤油もこれとは反対だけど輸送経路は変わらない。ただしこの時代、利根川と江戸川には難所があった。関宿である。室町時代かずかずの戦乱の場となった地ではあるが、川砂がたまりやすく舟運に支障が出た。次ぎに醤油の産地となったのが関宿を通らなくても済む、江戸川沿いの野田である。豊かな水があり、関東で作られた大豆と醤油を集めるのもたやすかった。今や国内随一の醤油の産地だ。この利根川、江戸川で盛んに作られた醤油と流山市のみりんが江戸前ウナギを完成に導いたのだ。こんなことを思いながら野田の町を歩き、せっかくなので蒲鉾店のオネエサンに教わった町ウナギで贅沢をする。「有名じゃないと思いますけど」というのでゆっくり昼過ぎに行ったらテーブル席はいっぱいだった。座敷に上がり、まずはノンアルコールビールと「コイの洗い」をお願いする。関東平野のウナギ屋の特徴は必ず「コイの洗い」があること。またざっこ煮(煮ざっこ)があることも特徴である。久しぶりのコイの洗いがやたらにうまい。

食器に限りなく惹かれるのは、ボクが「からっちゃ(唐津屋)」に生まれたからだ。食器店のことを東日本で瀬戸物屋、西日本で唐津屋と呼んだ言語の地方性が失われて久しいのは残念でならない。相馬市内を歩いていて、「相馬焼」の文字に惹かれて食器店に吸い込まれた。

十日町市の「十日」は十のつく日に市が開かれていたためだ。今でも新潟県では巻町や三条など各地で日にちごとの市が開かれている。残念ながら十日町市では市が開かれていない。北魚沼で、2月末なのに雪がないというのも予想外だった。新潟県十日町市の商店街は長い。雪国ならではの雁木はアーケードに変わり、シャッターを下ろした店が目立つ。江戸時代には越後上布、越後縮の産地(江戸時代から昭和になっても織物は一大産業だった)であって、ある意味、北越雪譜に描かれているとおりのところだったのだろう。織物産業があって商業も盛ん。繁栄した町であった名残がそこここに見られる。加うるに、十日町市は信濃川に沿ってある。この町はコイをよく食べる地域だったという。考えて見ると新潟県は阿賀野川があり、信濃川、また旧蒲原郡に多い潟(平地の湿地帯の中の湖、池のこと)があるなど、淡水魚が重要なたんぱく源であったはずだ。十日町市にはウナギとコイの店があるが、この日は定休日だった。まあ今回の十日町は下見と思えば惜しくはない。商店街を十日町らしいものを探して歩くがなにもない。雁木は露地に少しだけ残っているだけだ。だいたい歩いている人が少なすぎる。時刻は1時過ぎ、せめて十日町市で昼飯をと、ふたたび商店街を歩く。新しい店には入りたくない。『小嶋屋』という長岡市にもあるのと同じ屋号のそば店があって、「へぎそば」も同じである。「へぎそば」はフノリをつなぎに使ったもので、ときどき食べたくなるが、この日は長時間労働のあとなのだ。余談になるが市場の旅は、だいたい午前2時くらいに始まり、魚(水産生物)の並ぶ競り場でみて、午前8時くらいに終了する。市場にいること今回は6時間。しかも新潟市はそのとき冷凍庫の中のようだった。とてもそばという気にはなれない。どんなに飢えてもチェーン店では食べないのがモットー、しかもネットは見ないので、ずんずん歩くしかない。向こうに洗いざらした紺色ののれんを見つけたときには涙がちょろりとした。

会津・越後の旅の初日、福島県喜多方市に宿泊することにしたのは偶然である。雪国の寒さに限界を感じホテルを探し、その挙げ句、市内のホテルに行き当たっただけ。ついでに言えば、ラーメンは好きだけど、それほど興味があるわけではない。会津若松市(会津の中心)は蘆名氏、伊達氏、蒲生氏郷などがいて中世史に何度も登場する。平安時代の貴族から武士(輸送業者)への土地支配の歴史からも重要だと思うが、喜多方は歴史も産業も勉強不足のせいかてんでわからない。さて、夜の喜多方で軽く飲んだら眠くなり、湯船に入ったところまでは記憶にあるが、ベッドにもぐり込んだ記憶すらない。しかも翌朝目覚めて時計を見ると、なんと午前6時を過ぎていた。熟睡10時間余りはボクの年では危険だと思う。ホテル飯は食わないので、猪苗代への道を角を1本曲がり曲り間違えたら、いきなりC(青)×M(マゼンタで赤)ではなく、C×Y(黄)色の暖簾が目に飛び込んできたのだ。東京ののれんの基本色はC×Mだ。東北地方ののれんの特徴は色が多様だということ。食文化を探す旅では、のれんの色だけを見て回っても充分楽しめる。青森県ではY100×C30なんてのもあったはずだ。このとき午前7時15分過ぎで、やっていなくてもいいや、と思ったらやっていた。店に入ったらビックリするほど、粗野な店だった。逃げようとして、そこにいたオバチャンの雰囲気で逃げられなかった。詳しくは述べぬが、やって来たコップにはラベルがついたままだった。

ボクの旅は、昔ながらの食文化を探す旅なので、ある意味特殊である。少数派という以前にひょっとしたらボク一人っきりの旅の形かも知れない。水産物だと、例えば山間部に行ってフグを食べたり、輸入ものの水産物などは食べたくない。できる限りその地を感じるものを食べたい。我が故郷、徳島でキチジ(キンキ)が出て来たときには思わず涙が出そうになった。そんな不愉快な眼にはもう二度と会いたくない。新潟県は淡水魚食の盛んなところである。特にコイとフナは非常によく食べていたことが文献ではわかっている。十日町市で十日町市らしいといえばコイとそばと野菜、保存食ではないかと思う。ついでに少しくらいは雁木(商店などの前に見られる雪よけのひさし)があるだろうと思って行ったものの、「明るい未来を感じていたときの遺産」、アルミ製のものに取って代わられており、ほんのわずかしか残っていなかった。しかも、コイは店が定休日らしく食べられなかった。

ボクはからっちゃの息子で、よく近所のオッチャンに「からっちゃのおとんぼはできんぼでよ」と言われていた。訳すと、「からっちゃ」は「唐津屋」のことで、徳島県美馬郡貞光町(現つるぎ町)では食器店のことをこういった。この「唐津屋」が食器店である地域は広島県で見つけているが、ほかではあまり知らない。関東では「瀬戸物屋」だ。「おとんぼ」は末っ子のことで、「できんぼでよ」は訳したくない。そのせいとばかりは言えないが、やたらに器が好きだ。ちなみにボクの町は小さな小さな徳島県でも、もっとも小さな町だったが、それでも時代の風を食器や雑貨に感じたものだった。だから旅に出て、食器店があったら必ず立ち寄る。食器店には時代の残り香のようなものがある。福島県南会津町田島は四方を山に囲まれている。粉雪が舞い、四方の山から重い冷気がこの町に沈殿しているみたいだ。たぶん会津西街道だと思われる大通りを、西へ西へとずんずん歩く。この冷たさは四国生まれにはきつい。食器店を見つけて一度通り過ぎた。本屋があり、造り酒屋があり、旅館があり、閉店しているもののたくさんの看板建築がある。町の端っこまでたどり着いて戻ってくる。食器店の看板に『ショップおおたけ』とある看板部分が比較的新しく万博以降(1970)であることがわかる。調べてみるともともとは『大竹陶器店』だったらしい。歩いていたバアチャンに聞くと、この通りにはいくつもの食器や雑貨を売る店があったようだ。こんなところにも田島という地が周辺地域から買い出しにくる場所であったことがわかる。ここには会津祇園祭という大きな祭もある。商店があり、大きな祭がありで、周辺の山間部から人が集まってくる典型的な町だ。確か、瀬川清子(偉大な民俗学者。1895〜1984年)は、千葉県久留里をその典型だとしていたはず。ボクの故郷も規模は小さいがそのひとつで、日本全国にこんな町がある。

福島県南会津町田島は2006年までは田島町であった。市町村合併はもともと大嫌いだけど、それにしても南会津町の合併は無理があると思う。1718あるとされる市町村の中でも45番目に広く、886.47㎢もある。ボクの生まれた徳島県美馬郡つるぎ町は194.8 km²なので4倍以上だ。

多くの文学作品に出てくるのが東京都内、千葉県西部の佃煮である。山本周五郎の『青べか物語』などをみても、庶民にとっての基本的な菜(副菜)だったことがわかる。東京都をはじめ東京湾周辺には無数の海辺漁業(造語です)があった。汽水域ではたくさんの二枚貝が取れ、アミ類、シラタエビ、テナガエビ、スジエビなどに、アマノリ(アサクサノリ)、青のり(ヒトエグサやスジアオノリ)がとれていた。小魚としてはフナにモツゴや小型のハゼ類などもとる。これを江戸時代初期などは塩で煮て軽く干し、やがて醤油が使われるようになり、19世紀になると上等な品にはみりんが使われるようになる。東京湾周辺には汽水域や内湾の小型の水産生物を無駄なく使う食文化が生まれて、今に続いているのだ。この小魚文化の主役的な存在である佃煮屋が急激になくなってきている。佃煮好きとしてはゆゆしき問題だし、汽水域が暮らしの場から、自然保護とか自然観察だけの場になるのもイヤダネーと思う。だから今や貴重な佃煮屋めぐりをしている。台東区上野、下谷から浅草にかけては取り分け佃煮屋の多い地域で、ボクが上京したての頃には無数の佃煮店があったと記憶する。家族が浅草暮らしをしていたので、田原町を中心に念入りに歩き回っているが、佃煮屋は普通の町に溶け込んでいた。それが今や2軒、3軒と数えるほどになっている。今回台東区北上野、『湯葢』で買った佃煮は、あみ、あさり、雑魚佃煮、昆布、おまけのスジエビ(テナガエビ)だ。どれもいい炊き加減で保ちがよい割りにそれだけを食べても、箸が止まらなくなるほど味わい深い。無意味に、この店、22世紀まで残したいと思ったほどだ。

おはじき(御弾、お弾、オハジキ)は、大言海に〈細螺ノ介殻ヲ指先ニテ弾ク、小兒ノ遊戯〉とある。古くから浜の落ちている貝殻の美しい物を拾い、指ではじいて遊んだもの。本来日本各地で身近にある小型の貝などで遊んだものだが、今ではガラス製となっている。ガラス製のものは、1960年代くらいまではいたって普通の玩具で、夜店やおもちゃ屋、文具店などで売られていた。実際に女児、女性が指ではじいて遊んでいたのをおぼえている。今では100円ショップなどにもあるが、実際に遊ぶために売られているのかわからない。〈幾左古 正字は未詳 思うに幾左古は状蝸牛に似ているが、厚く堅くて彩文がある。殻の中には寄居虫(ごうな/ヤドカリ)のような虫がいる。伊勢・尾張および東海の諸浜に多くいる。土地の人は虫を取り去って洗浄し、これを玩具とする。〉『和漢三才図会』(寺島良安 正徳3年/1713 東洋文庫 平凡社)おはじきに使われた貝類は、〈シャゴ(キサゴ)《伊予大三島北部》 スヰビウシ(ハナマルユキ)《奄美》 ネコジャ(メダカラ、オミナエシダカラ)《千葉県安房郡鋸南町岩井袋》〉『日本貝類方言集 民俗・分布・由来』(川名興 未来社 1988)たくさんとれて小さいもので遊んでいたことがわかる。〈この頃のこどもはどうか知らないが、年配の方なら大てい小さいころ、キサゴ(標準和名のキサゴ)のおはじきで遊んだ記憶がおありだろう〉。『原色・自然の手帳 日本の貝』(奥谷喬司、竹村嘉夫 講談社 1967) 奥谷喬司は1930年福岡県北九州市門司出身である。