202404/13掲載

ボクの埼玉県、うどんをめぐるメモ

ユニークだけど、埼玉県と群馬県の一部では普通


あんまりにも同じ物を見つめすぎると身体が熱くなる。巻き貝の世界は非常に難しい。取り分け形態的な連続性を考え始めると、きりがない。別に病気でもないのに身体が熱くなり、冷たい床に腹ばいになるのが、ボクの対処法。
憂さ晴らしに埼玉県まで野菜や地域ならではのものを買いに行ってきた。そしてまた埼玉県川島町の直売所で、太巻き手打ちうどん弁当(うどんつき弁当)を買った。
川島町のある埼玉県など関東平野は古くからの畑作地帯で小麦粉文化圏だ。
1590年、徳川家が江戸入り後すぐから徳川家は米(戦国時代に耕地が増え、米の収穫量が増えると、米本位制となる。米は食料でもあり、金と同等のものでもある)の確保に苦しんだ。徳川家家臣団、江戸幕府を築く流入民に分け与える米が不足していたのだ。この米不足は1670年代に河村瑞賢が東北からの米廻船の新航路を見出すまで続く。
考えてみると関東平野は古くは秩父平氏、次いで鎌倉幕府ができ、室町期に鎌倉公方、関東管領が統治する。鎌倉公方、関東管領の享徳の乱の後、この足利の支配が消えると、後北条氏、上杉謙信の上杉氏、武田氏が、享徳の乱の続きを始める。後北条氏、上杉謙信の上杉氏、武田氏が天下を取れなかったのは関東平野にこだわったからだ。ものなりの悪い土地の争奪戦にこの戦国武将達はなぜにこだわったのだろう。
さて、旧比企郡にある川島町は旧川越藩の領地だ。川越は太田道灌の太田氏との繋がりがあり、江戸時代には小田原藩とともに特別な藩だった。
川島町周辺では江戸時代から米はとれていたものの、伊達藩、仙台米と比べると質が落ちた。ある意味、米は藩に税として収めて、主食は麦だったのではないか。
ちなみに戦後になっても埼玉県の米は東京での評価は低く、安かった。江東区の民俗学資料の米穀店の聞き書きに埼玉米は煎餅屋に下ろすために仕入れているもので、決して一般家庭では食べなかったとある。
埼玉県北部や群馬県にみられるゆでうどん付き弁当は、その米不足の名残である。
不思議な取り合わせで決して身体にはよくないと思うけど、いろんな味が楽しめるのでついつい手が出てしまう。


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