白ばいの大方は富山湾にいないエッチュウバイ
エッチュウバイは白ばいとして今やもっとも普通の食用貝
「白ばい」はもっとも流通量の多い巻き貝のひとつだ。標関東や関西などの消費地でもお馴染みで、比較的スーパーなどで見かける機会も多い。代表的な産地は島根県と山口県である。
標準和名(図鑑などに載っている名)はエッチュウバイでというが、流通の場にいても知らない人がいる。
貝を勉強し始めたとき、このエッチュウバイという和名よく惑わされたものである。
まさか越中富山にはいない貝で、山陰に多いなんて誰も思わないだろう。
分類学的に書くと「エゾバイ科エゾバイ属エッチュウバイ」である。このエゾバイ科には食用貝類がたくさんいるので、専門的になりすぎるが、おぼえておくと便利だと思う。
日本海福井県以西の深場に生息している。済州島にはいる可能性があるが、朝鮮半島にはいない。
世界的に記載したのはイギリスのジョージ・ブレッティンガム・サワビー1世だ。このサワビーはⅡも含めて、動物学者でもあり、植物学でもあり、イラストレーターでもある。日本には一度も来ていない。採取したものを別の人間がイギリスまで送り届けて記載したことになる。ついでに、この一族がやらかした分類学的な謎はすごく多いと思うが、専門家の方はどう思っているのだろう。
エッチュウバイの「ばい」を漢字にすると「貝」、とくに巻き貝のことだ。同じ意味の漢字に「螺(にし)」、「蜷(にな)」がある。
海産巻き貝のことを日本海側では「ばい」ということが多く、北海道や本州太平洋側では「つぶ」ということが多い。
「えっちゅう」は当然、「越中(現富山県と思っていい)」である。
福井県以西にいるのに「越中貝」とは不思議だと思わないだろうか?
模式標本(タイプ標本とも。種として記載したときの標本)は丹後半島沖なのである。この模式標本からするとタンゴバイにすべきである。
富山湾以北、本州にいるのはカガバイ
なぜ「越中」にしたのか? 明治初めの生物分類学の黎明期は、生物の名を決めることから始まる。哲学に「名のないものは存在しない」、というのがあるが、名のない生物は存在しない、研究できなかったためだ。
明治の分類は生き物の実際に使われている名を、過去にまでさかのぼり大急ぎで採取、実際に使われている名がないと思われたものは創作したのだ。
エッチュウバイという名前は『目八譜』からとった。
植物で言えば江戸時代の『本草綱目啓蒙』などの本草学書(薬になるものの一覧図絵)から名前を採取したが、貝の場合、もちろんこの本草学書からも名を探したが、江戸時代に作られた貝だけの図絵・図譜から多く採取した。
江戸時代には貝類の図絵・図譜がいくつか作られているが、そのもっとも有名なのが武蔵石寿という旗本が天保時代に作った『目八譜』なのだ。画期的なのは本草学の本家中国明朝からも、人の役に立つというしばりからも解き放って、見た目である程度分類し、作られていることだ。作るのはさぞ楽しかったことだろう。
武蔵石寿は赭鞭会(しゃべんかい)という富山藩藩主前田利保の会(田中優子は「連」という。数寄者が集まっていろんな図譜などを作り出した)に所属していた。とすると武蔵石寿の「越中貝」は前田利保の、富山藩の前海である富山湾で揚がったものである可能性が高い。
能登半島以東にいるのはカガバイなのである。この巻き貝は朝鮮半島東岸にも生息している。長年調べている限り、富山湾や新潟県沖で揚がるのはほぼ総てがカガバイとみていいようだ。
とすると、この『目八譜』に描かれている「越中貝」という巻き貝は、現エッチュウバイではなく、現カガバイだと考えている。
どうしてこんな取り違えが起こったのか? 明治時代初期(この場合元号がわかりやすいのであえて使う)は、分類学の急成長期であるとともに、大混乱期であったためだ。
有名な例では岩川友太郎のゴキブリ事件がある。詳しくは述べないが、明治時代初めを混乱のピークとして1945年の敗戦くらいまで、とり違え、校正ミスだらけだったのだ。
オオエッチュウバイは日本海の大型巻き貝の王様
エッチュウバイ・カガバイよりも遙かに深い場所にいるのが、オオエッチュウバイである。このエゾバイ属の大型の巻き貝は海域でも種が異なるし、水深でも別の種に変化するのである。だから産地や海域、水深がわからないと貝の同定はできない。
これらは深場に落ちるほど貝殻が薄くなるので、オオエッチュウバイは手で簡単に割ることが出来る。実はこのもろさも貝の同定に必要となる。
要するに貝の同定には必要とされる事項、形態的な特徴が、門外漢には理解できないくらいある。
ちなみにこの3種ともっと北の似ている貝は、すべて手で割ってみている。
オオエッチュウバイは別格としてエッチュウバイ・カガバイの味は、ほぼ変わらないということもつけ加えておきたい。