202406/03掲載

ウナギの旅 貨幣について

貨幣経済は徳川家光の時代から活発化する


江戸時代の飲食店の出現は貨幣の歴史でわかる。特に高級な食べ物であったウナギが一般人にとって馴染み深いものとなるには貨幣の創銭・改鋳があってこそなのだ。
先日から寛永通宝を探して骨董市を歩いた。
寛永通宝は江戸入り後、特に徳川家光時代、渡来銭(当時銭は中国から輸入していた。12世紀の最初の輸入銭である宋銭と平家の関係は重要。明銭は江戸時代初期の小額通貨だった)からの脱却を目指して作られる。
寛永通宝は後に幕府だけではなく各藩で鋳造されてより経済が発展する。ただし100文の買い物をするためにはこの重さ4gの1文銭を100枚(400g)持ち歩かなくてはならない。銭緡(ぜにさし)といって100文の銭を1まとめにする仕事があり、賃金が4文(銭緡をした人の取り分はこの何割か)だったので、実は1緡96文だった。割れ銭などを選別しながら数えて100文を緡(さす)のは以外に大変だったかがわかる。

四文銭が小売価格を支配していく


田沼時代(1751-1789)にウナギ屋だけではなく、様々な業態の飲食店が増え、そして繁盛する。明和5年(1768)に四文銭(波銭)の寛永通宝が創銭されたことも、この庶民生活の活発化と関わりがある。
ちなみに16分の1両(4000文)の1朱銀(250文)までは庶民も手にできた。この銀貨が徐々に小さくなり、天保期の一分銀(1両の4分の1で1000文)の誕生は画期的だった。実はマネーサプライの理念からして非常に優れている。
元禄期の荻原重秀の貨幣論、「(貨幣など)瓦でもかまわない」がいかに正しかったがわかってくる。
四文銭創銭以降、急速に秤量銀貨が消滅する。ここに江戸黎明期からの「西の銀、東の金」問題が解決する。ちなみに、そば16文もこの4文銭に影響されての値段。

普通のうな丼は江戸時代6000円以上した


18世紀末のいちばん安い「うなぎ飯」は1人前100文なので四文銭25枚で食べられた。ちなみにうなぎ飯の平均価格は200文以上だったらしいので、銀貨で食べるものだった。
歴史学者、大石学の1文30円説(1両120000円。関係ないけど桂米朝「一文笛」はこの1文30円説に合致している)にしたがうと、うなぎ飯(うな丼)は安くて1人前3000円、高いと6000千円になる。うなぎ飯(うな丼)は江戸時代の方が現在よりも高かったことになる。

このコラムに関係する種

ニホンウナギのサムネイル写真
ニホンウナギJapanese eel海水→淡水→海水。【非常に少ない】小笠原諸島、【少ない】北海道太平洋〜三陸、日本海青森県〜福井県。伊豆諸島、三陸地方南・・・・
詳細ページへ

関連記事 ▽




呼び名検索

方言を含む全ての名(標準和名,方言,呼び名,外国名,学名)から水産物を検索します。

閉じる