サンマの基本2 サンマ食文化は江戸時代初期、紀州で始まり広がる
熊野灘から伊賀を目指すといきなり大きな山が
![]()
サンマは古くは紀伊半島、伊豆半島など太平洋に突き出た半島でとり食べられてきた。
また日本海での食文化も古い歴史がありそうだが、別項を立てる。
サンマには3系群(大きな魚群)があるが、国内に棲息するサンマには太平洋北西系群と日本海系群の2つがいる。
もっともたくさんとれて生活に直結しているのは太平洋北西系群(太平洋沿岸を南北に回遊する)である。
太平洋側のサンマは水温が下がる秋から春に温かい南の海域で産卵をし、孵化した稚魚、幼魚は暖流にのって北上する。
北海道東沖で成長してまた夏から春にかけて産卵のために南下する。
成長したサンマは北海道や東北周辺では遙か東沖にいて南下とともに陸に近づく。
江戸時代や明治時代には当たり前だが動力船がないので、陸に近づいたサンマを漁獲していた。
もっとも多くのサンマが陸地に近づくのが紀伊半島熊野灘側だ。
当然、サンマをいちばん漁獲していた地域は旧紀州藩の熊野灘周辺、主に三重県となる。
紀州は漁業先進地であり、江戸時代までにはマイワシなどをとる漁法が生まれていた。
当然、陸に近づいてきたサンマも紀州の先進的な漁法でとった。
江戸時代延宝年間(1673-1681)に本格的な網漁が開始され、まとまってとれるようになる。
この紀州で生まれたさいら網など先進的な漁法が千葉県銚子にもたらされる。
千葉県銚子市は今でもサンマの町であるのは、東日本で最初にサンマ漁が行われたからだ。
昭和17~19年までに発刊された、『日本魚名集覧』第一部、第二部、第三部(アチック・ミューゼアム、のちに日本常民文化研究所)でも標準和名サンマの地方名は紀伊半島南部に多い。
そこから供給を受けていた紀伊半島山間部、和歌山県、三重県東部・北部、滋賀県、奈良県、大阪府には鮮魚も送られていたと思うが、主に塩蔵品で、もっとも多かったのが丸のまま硬く干したものだろう。
この熊野灘から供給を受けていた地域ではサイラ(呼び名もカタカナ表記とする)、サイリ、サイレ、サイロ、サエラという呼び名が広く使われ、一部地域でサヨリと呼ぶ。
岐阜県、愛知県ではサヨリと呼ぶ。『聞き書 岐阜の食事』や岐阜県萩原町(現下呂市)での聞取では鮮魚もしくは塩蔵品であった可能性がある。
この地域に関しては日本海産なのか紀伊半島熊野灘産なのかはわからないが、サヨリは能登半島、富山湾など日本海での呼び名である。
すべて細い魚という意味で「狭魚」から来ている。標準和名サヨリとサンマは同じように細長いために共通する呼び名が少なくない。
東京市(現東京都中心部)で採取され標準和名となったサンマと呼ぶ地域はむしろ少ない。
呼び名から考えても紀伊半島が突出して多く、ついで日本海、少ないながら伊豆半島、千葉県銚子となる。
![]()
紀伊半島周辺から奈良県、滋賀県、岐阜県、たぶん愛知県にかけて熊野灘からのサンマ、「さば(マサバ)」「いわし(イワシ)」の道が毛細血管のように伸びていた。
聞取しただけでも、奈良県の東吉野、十津川、三重県の伊賀市、名張市、滋賀県の甲賀市などが、この熊野灘の魚の供給先のなっていたようだ。
特に三重県、和歌山県、奈良県などの山間部ではなくてはならない魚だったに違いない。
十津川などでは熊野灘からのサンマで「すし」を作り、また硬く干し上げたサンマを贅沢ではあるが食べていた。
十津川の「すし」は「なれずし」と「早ずし」がある。
写真は十津川村南部のもので現在は生のサンマを使って作るが。昔は塩サンマを開いて酢につけ、酢飯を巻き込んで作っていたのだという。
![]()

