202509/20掲載

宮本輝「泥の河」。 食堂ではなくうどん屋と呼ぶのは大阪の文化かも

飯田食堂は昔、飯田のうどん屋だった


ボクの生まれた徳島県美馬郡貞光町(現つるぎ町)には、何軒もの「食堂」があった。
小学生だったボクが歩いて行ける範囲にも4軒あったのではないか?
家族だけではなく町内の人で、「食堂」という人はほとんどいなかった、もっぱら「うどん屋」である。
例えば「飯田食堂(写真の)」という名があっても、「飯田のうどん屋」だった。
同級生の「食堂」の子供は「うどん屋の子」と呼ばれていが、これはボクが「からっちゃ(唐津屋)の子」と呼ばれてたのと同じだ。
この「食堂」を「うどん屋」というのは大阪も同じだったようだ。

宮本輝が1977年デビュー作「泥の河」で太宰治賞を受賞し、1978年「螢川」で芥川賞を受賞する。
単行本『螢川・泥の河』が出たのは1978年で、東京都千代田区神保町、東京堂書店に積まれていたのを、すぐに手に入れた。

当時は大阪というところが今以上にわからなかった。
「泥の河」の舞台は淀川が毛馬水門から枝分かれして南流する。
大川と名を変えるが、実はこちらの方が本来の淀川である。
流れは堂島にぶつかり一度分かれる。
北を流れるのが堂島川、南が土佐堀川だ。

その両川が再び1つになり、安治川になる。
このひとつになるところの南岸が「泥の河」の舞台である。
ここは大阪に行くたびに寄る野田の大阪中央市場の南であり、過去に大阪中央市場から船津橋をタクシーで渡って、この舞台の近く、 江之子島の雑喉場魚市場跡碑まで行ったことがあるが、コンクリートだらけで灰色の世界がまさか「泥の河」の舞台だとは思わなかった。

主人公、信雄が自分の家、「やなぎ食堂」を指差して、
「僕の家、そこのうどん屋や」と言うのである。
きんつばを焼き、うどんもあるし酒のつまみもある、多様であることが「食堂」の定義だとされているが、これは東京だけの話だ。
大阪では今でも、中華そばがあってもオムライスがあっても、「食堂」ではなく「うどん屋」なのかも。

「泥の河」で重要な、土佐堀川にかかる端建蔵橋(はたてくらばし)のたもとに行ってみたい気がしてきた。
ただし、端建蔵橋は工事中らしい。



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