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2004年2月11日 アサクサノリと浅草海苔 東京湾湾奥とでもいおうか、多摩川河口は冬季である 今は臭いもなく、どこか澄んだ色合いの水底からは静寂が感じられる。 江戸の昔もこのような干潟がもっともっと 続いていたのではないかと古めかしい石積みの岸辺を歩いた。 さて江戸から続く内湾でのノリ、アサクサノリは何処。 アサクサノリ・浅草海苔 今回の旅の目的はアマノリの仲間、特に東京湾での絶滅が危惧されているアサクサノリを探すのが目的である。アサクサノリは汽水域の葦や木の杭などにつき生長する。江戸時代の前、徳川家が江戸入りした頃には浅草寺門前でノリがとれ、味がいいので名物とされていた。この浅草寺門前でとれていたノリ、すなわち、名物「浅草海苔」の原料はアサクサノリ(これは種の名前)というアマノリの1種。このように江戸の入り江、前浜でふんだんにとれていたアサクサノリが昭和の高度成長期を境にまったく見られなくなって久しい。もうすでに東京湾では絶滅してしまっていると考える研究者も多い中、それでも一縷の望みを捨てることなく東京湾を調査しているのが菊地則雄さんである。その菊地さんのアサクサノリを探す旅に今回はおじゃましているのだ。 アサクサノリを探す旅 当日、菊地さん、きんのり丸さんと訪れた場所は羽田空港の南西、多摩川河口。わずかばかりではあるが、干潟があり、葦が茂る。まさにこのような場所がアサクサノリの棲息最適地であるはず。こんな場所を菊地さんは東奔西走しているのだ。 今、食卓にある海苔とは? ちなみに今、全国に出回っている海苔のほぼ100パーセントがスサビノリでる。スサビノリというのはやや北方系(銚子以北の太平洋岸、北部日本海に棲息)で外洋に面した場所に棲息するもの。本来は内湾である東京湾にはいなかったものなのである。このスサビノリはアサクサノリの養殖の課程で紛れ込んだとも、言われ、そのうち病気や環境の変化にも強いことから養殖ノリの主役となったのだ。今でもスーパーやデパート、築地などの魚河岸に行けば「浅草海苔」が売られている。これが総てスサビノリで作った海苔なのだ。すなわち、江戸時代から高度成長期の1960年代くらいまでは、「浅草海苔」=「アサクサノリ」であったものが、今では「浅草海苔」=「スサビノリ」になってしまっているわけだ。 さて、このスサビノリ全盛の今日にあって、ゆいいつアサクサノリを生産している養殖業者が有明海にはいる。なんとまさに江戸前の海苔であったアサクサノリは有明の海にひっそりと命脈を保っているのである。 江戸前・東京湾でアサクサノリを作る このアサクサノリをなんとかして東京湾でよみがえらせようとして、苦闘しているのが金萬智男さん、すなわち、きんのり丸さんである。菊地則雄さんと時にはアサクサノリを探す旅に出る。そこで見つけたアサクサノリをもとに養殖用の種を作り出す。そして東京湾で養殖をはじめようとしているわけです。 ■東京湾でのノリ養殖、またアサクサノリなどを東京湾に復活させる取り組みなどは、「第二きんのり丸」へ! メモ 海苔のことを調べている内に、いろんなことが見えてきた。 その1/延喜式にもあるアマノリの仲間は産地が奈良県に近い中国地方や伊勢、関西など外洋に面した地域。今で言うイワノリ(ウルップイノリなど)だとして、どうやって鮮度というか腐らないで奈良の都に送ったのか? 当然、干して送ったのではないか? ということ。 その2/このただ干したノリが江戸時代になり今のように簾(竹で編んだもの)で薄くのばして干すようになった。すなわち当時、浅草には一度使われた紙を集めてもう一度すきなおした「浅草紙」というのがあって、薄く簾でのばす技術があり、これを海苔(板海苔)の生産に結びつけた。これをこのまま焼かないで食べていたのだ。 その3/これを現在のようにあぶって食べる。すなわち焼き海苔にするようになったのは幕末に大森で始まったこと。東京都千代田区お茶の水に創業300年を超える「笹巻けぬき寿司」という店がある。ここではエビや魚をのせた寿司を笹の葉で巻いた寿司を売っているのだが、これは寿司の古い形を残しているものである。ここで海苔を使う寿司があるが、その場合、焼かないで干しあがった海苔をそのまま使うのだという。 その4/明治期には今の山本海苔が味付け海苔を作り始めた。 ■本ページを作るに際して菊地則雄さん(千葉県立中央博物館分館 海の博物館)にいろいろご教授願いました。感謝いたします 関連ページ アサクサノリと浅草海苔/アサクサノリを探す旅 |
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