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日常的な塩蔵品の塩かつおは矢鱈にうまい

静岡県西伊豆で年越しに食べられていた「塩かつお」は、「潮かつお」とも書かれ、11月になると丸のままの姿で塩漬けにし、干し上げたもの。単なる塩蔵品ではなく、干すという工程が入る。もうひとつの、より一般的な「塩かつお」がある。こちらはカツオの半身、もしくは切り身の塩漬け(塩蔵品)である。静岡・関東・東北だけではなく全国で作られていた可能性が高い。聞取をすると関東では日常的なおかずだったようだ。関東、静岡県では「塩かつお(塩がつお)」、宮城県石巻で「かつおのだぶ漬け」、気仙沼で「かつおの塩引き」という。カツオの産地での「塩かつお」の呼び名はもっとたくさんあると考えているので、ご存じの方がいらしたら教えて頂きたい。静岡県西伊豆で年末に作られていた「塩かつお」がハレの加工品だとしたら、カツオの産地で長年作られていた「塩かつお」はケの加工品である。
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竹輪は竹輪で蒲鉾は蒲鉾、徳島県の竹ちくわ

ウナギの旅を続けているとき、ボクの出身県である徳島県小松島の「竹ちくわ」を送って頂いたのはタイムリーだった。この「竹ちくわ」と関西に多い焼き蒲鉾はウナギ料理の歴史を考える上で非常に重要なのだ。徳島県美馬郡貞光町(現つるぎ町貞光)に生まれたので、生まれて初めての都会は徳島市だった。面白いもので、徳島県でももっと西の池田町(現三好市)の老人に聞くと最初の都会は高松だったという。ことの真意はともかく、池田町で食べられていた竹輪など練り製品は「えびちくわ」だったり、普通の穴の開いた竹輪など香川県観音寺あたりのもの。これが徳島本線の池田と徳島の中間地点のボクの町では、どちらかというと小松島市・徳島市・鳴門市で作った「竹ちくわ」、「かつ」、「長天」になる。同じ県の練り製品を考えてもこれだけの違いがある。水産物など食べ物を考えるとき、ぜったいにやってはいけないのが県単位で区切ることだ。家族と一緒に徳島市内にでて、丸新デパートとかつぼみやとかを連れ歩かれて、我慢に我慢を重ねる代わりに買ってもらったのがプラモデルや本だった。それと帰りに必ずねだるのが徳島駅売店の「竹ちくわ」だ。黄緑色の包み紙を持つのはボクの役割だったと思う。この「竹ちくわ」と冷凍ミカン、機関車の煤がボクの徳島本線の最初の想い出だ。横道にそれるが、子供の頃、機関車とディーゼルカーは知っていたけど高知に行って初めて電車に乗ったとき、都会だと感じたものだ。家族のいる東京に行くときの、大阪から東京までの電車では走り回るほど興奮した。電車に都会を感じるのは国内広といえども徳島県人と沖縄県人だけだったと思う。沖縄県にはすでに電車が走っているので、追い越された感が非常に強い。小学校に上がる前後から、「竹ちくわ」はボクの好物だった。たぶんかなり高かったのではないか? だから徳島駅で買うお土産だった。あまりに好きなのでボクだけが2本、3本食べていたっけなー。さて、なぜ竹輪は竹輪なのか? それは細い竹を切り、竹を適当な長さに切る。乾燥させない生の竹に魚肉(最初は主に淡水魚)を握りつけて、直火で焼く。古代には竹についた状態が完成形だったと思う。これが後に焼き上がったら竹から外すようになる。竹につけて焼き、切ると断面が輪なので、竹輪だ。徳島の「竹ちくわ」は焼いて抜かないままだ。たぶんこの国広しといえども、こんな原始的な姿を残した竹輪はないだろう。ちなみに蒲鉾の語源を同じように棒状のものに握りつけて焼く。この形が蒲の穂に似ているから、蒲鉾だとしているが、大間違いだと思っている。これは別項で述べたい。徳島の竹輪はやや甘めである。足(弾力といっても間違いではない)はある方だと思うが、その足が強すぎないのがいい。「竹ちくわ」を食べると、Homeward Bound ♪徳島県の山崎さんには感謝の致しようがない。
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ごま漬けにはサバの、もあるでよ!

千葉県千葉市のスーパーで、「いわしのごま漬け」ではなく、「さばの胡麻漬」を買った。千葉県山武郡九十九里町、『小川水産』のものだ。九十九里浜の特産品ともいえそうな、「いわし(カタクチイワシ)のごま漬け」は都内でもよく見かけるが、それ以外のものは見かけたことがない。このような主要製品以外のものに出合えるは、千葉県だからだ。20年以上前、九十九里にカタクチイワシの水揚げを見に行ったとき、漁の話だけではなく「ごま漬け」の話もした。そのときもカタクチイワシが不漁であるときは、マアジやサバ類(マサバ・ゴマサバ)の小型を使って作っていたという話を聞いているのだ。ちなみに「いわしのごま漬け」は非常にうまい。昔、魚通を自称していた、高橋治も絶賛していたはず。それほどに間違いなしの名品なのである。
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にしん山椒漬けは焼いて食え

福島県会津地方、南会津町、猪苗代町などのスーパーで「にしん山椒漬」をたっぷり買って来た。会津土産として比較的当たり外れがなく。ボク好みなのでついつい手が出てしまう。江戸時代、身欠きニシンは、北前船が越後(新潟県)の港にもたらし、そのまま越後街道を会津に送られてきていたはずだ。会津にとって身欠きニシンはきっと贅沢な食材だったに違いない。「にしん山椒漬」の本来の作り方は身欠きニシンをざっと水で洗い、腹骨や胸鰭などを取り去り、醤油・酒・みりん、大量の山椒の葉と一緒につけ込んだものだ。当然、漬け込み時期は春ということになる。最近のものは身欠きニシンを、米のとぎ汁(重曹を溶かし込んだ水かな)などでもどしてから漬けるのだと思われる。なぜならば身欠きニシンは、そのままでは渋味と苦味があるからだ。ちなみに個人が作ったという昔ながらの「にしん山椒漬」をいただいたことがあるが、苦味が残り、山椒の辛味があり、醤油辛くて好き嫌いがでる類いのものである。ボクはヨソモノなので、最近の苦味渋味を抜いて漬けた製品の方がすきだ。写真は『会津丸善水産(会津若松市)』のもの。ここに不思議なことが書いてあった。「焼いていただきますと、一層香ばしくお召し上がり頂けます」数年に一度程度食べるものなので毎回、そのまま食べて満足していた。この食べ方は、会津人が日常的に食べている内に、自然と編み出した食べ方に違いない。さて、そのままと、焼いてものを比べてみる。並べて食べて、もう二度と、焼かない「にしん山椒漬」は、食べないと思うほど、焼いた方がうまい。そのまま食べると、噛みしめるほどにニシンのうま味と独特の明らかに酸化した脂がじわじわときて、山椒の風味が適度にその野性味で、渋味を緩和してくれ、ふたたびニシンの味が来て、調味料の味が来てと、口中で「にしん山椒漬」の味が長々と感じられる。そこには、ニシンに塩を添加しないで硬く干して、山国に送られ、山国に人が汗水たらして稼いだ金で購い、山国ならではの若々しい山椒の葉と、発酵食品である酒・みりん・醤油と結婚させた、という大河ドラマ的な展開がある。ただ、食い物にそんなダイナミックなものを感じたいかというと、然にあらず。そんな面倒くさいことは不要である。
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徳島県「かつ」の食べ方の基本を考えてみる

「かつ(フィッシュカツ)」はどのように食べていたのか、そして食べているのか、という話をしたい。徳島県の山崎さんから津久司蒲鉾の「ちっか(竹ちくわ)」と「かつ」を送って頂いた。まことにありがとうございました。津久司蒲鉾がある小松島市(こまつしまし)は徳島県というもっともミニマムな県の中で、もっとも早くから市になったところである。ボクが子供の頃は殺伐とした噂もあり、また大阪に向かう船の発着所があった。ボクと小松島市の最初の関わりは曖昧だが、大阪万博のときにここから船に乗ったことだったと思う。模型を買うのも、徳島ホールで映画を見るのも徳島市だったし、祖母が丸新デパートやつぼみや(デパート)に行くのも徳島市だった。徳島市はボクにとってしごく馴染み深いところだが、小松島市は船の発着所のむせるような油と海のにおいの記憶しかない。どことなく東映や日活の映画に出てくる港町のようだった。知名度は低いものの徳島県は練り製品の会社が多いところだ。その多くが、大合併以前から市であった、小松島市と徳島市、鳴門市、阿南市にある。多くの練り製品が大阪と共通するものでしかないが、「ちっか(竹ちくわ)」と「かつ(フィッシュカツ)」だけは徳島にしかない。ちなみに「かつ」の歴史は最低でも60年以上なので、新しい練り製品とは言えなくなっている。さて、「ちっか」は徳島市に行ったときに買うもので、どりらかというとハレの食べ物、「かつ」はいたって日常的なもので、ケの食べ物だった。値段も「かつ」の方が安かったはずだ。今回、「かつ」をたっぷりいただいたので、懐かしい食べ方をしてみた。徳島県美馬郡貞光町(現つるぎ町字町貞光町)は1950年代、60年代、県内でもっとも小さな町だったが、県西部では池田町、脇町とともに長い商店街があった。日本中を回っているとわかることだけど、意外に長い商店街のある町は少ない。もちろん市なら当たり前だけど、町(市町村の)で、しかも小さな徳島県の中でも、もっとも小さな町域しかなかった貞光町に商店街があるのは不思議なことなのだ。我が家は商家だったので朝はとても忙しい。1970年くらいまで、午前5時、6時くらいに山から下りてきた人に戸を叩いて起こされ、売る、なんてこともあった。取り分け忙しいときには行商の菓子パンで済ましたり、冬は七輪が食卓脇にあったので餅を食べて学校に向かったものだ。考えてみると寒い時季、餅と惣菜と紅茶もしくはコーヒー、お茶という朝ご飯は商家ならではのものだろう。この惣菜の中にかなりの確立で「かつ」が登場した。
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米沢でわざわざ作っている昔ながらの「塩がつお」

福島県から山形県の、太平洋側と日本海側のど真ん中を走る尾根に、比較的大きな盆地がぽつんぽつんとある。そのひとつに米沢市はある。伊達家、上杉家と有力大名が藩主となるくらいなので、稔りがよく、戦国時代には重要な拠点であったはずだ。この本州東北地方の真ん中に点在する町の産物は非常に面白い。米沢織があり、食べ物では山菜、コイが有名である。東に三陸、西に越後と水産物も東西から送られて来たに違いない。米沢市には地方公設市場がある。ここにある『かねしめ水産 ケーエスフーズ』で作っているのが「昔ながらのしょっぱい塩がつお」である。東北地方太平洋側ではとれたカツオに塩をして、山間部に送っていた。その終着点のひとつが米沢であったのだと思う。ちなみにこの国では長い間、魚介類を生で山間部に送ることは出来なかった。1925年昭和になり、1950年代高度成長期になってもこの国のコールドチェーン化(生鮮品の保冷しての流通)は進んでいなかった。1960年代になって初めて一般家庭で冷蔵庫が普及し始め、魚介類の水揚げから流通、販売、消費まで通しての保冷・冷凍技術が確立するのは1970年代になってからだという人も少なくない。当然、三陸ではコールドチェーンが確立するまで、カツオは節加工するか、塩蔵して出荷していたのだ。この産地から来ていた「塩かつお」の、塩分濃度が年々下がるとともに、入荷量が減ってきた。そんなとき消費地である米沢で作り始めたのが、この塩分の非常に高い「塩かつお」である。世の中が減塩減塩と騒ぎ、加工品全体の塩分濃度が下がる中、米沢近郊ではまだまだ塩分濃度の強いものが好まれていた。このように本来魚介類の産地で作られていた加工品が作られなくなり、消費地で作られるようになる例は少なくない。
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めじで伝統食品、「塩まぐろ」を作る

八王子綜合卸売センター、福泉でクロマグロの若い個体である、「めじ」を買った。触った限りは脂はないとみたが、非常に美しい個体で思わず手が出てしまった。念のために鰭の確認をして、体のキズのあるなしを見る。鮮度がよく、美しいだけではなく完全無欠に近い。我がデータベースは同じ魚でも繰り返し繰り返し、丸々の状態、すなわち形態画像を取り直している。以上は前回と同じ。宮城県気仙沼や石巻で「かつおのだぶ漬け(カツオのだぶ漬け)」、「カツオの塩引き」と呼ばれ、関東周辺で「塩がつお」、三重県志摩地方・熊野地方で作られている「塩ぎり」と呼ばれているものがある。今や絶滅危惧食品であるが、1970年前後くらいまでは日常的な普通の食品であった。東北太平洋側から静岡県くらいまでのカツオの産地で塩蔵処理されて、東北の山間部、東京都をはじめ、関東、東海、紀伊半島の山間部に送られていた。三重県などで作られていたものは、岐阜県などにも送られていた可能性が高い。この日常的な「塩がつお」を産地で作っていた人、流通させていた人、売っていた魚屋などが寿命を迎えつつあり、記憶が永遠に失われようとしている。誤解が生まれそうなので、述べておくと、近年、西伊豆で師走になると飾られ、年取に食べる「塩がつお」が有名だが、あれは塩漬けにして干し上げたもので、ハレ(正月、年取)の日のために作るもの。一般的に流通していた、今回の「塩がつお」とは別のものである。本コラムは、あくまでも日常的に食べられていた「塩がつお」の話だ。山形県米沢市での聞取でもそうだが、じょじょに海辺でカツオの塩蔵品が作られなくなると、消費地で作られるようになる。またカツオではなく、サバ科のマグロ属やハガツオ属、ソウダガツオ属でも作られ、魚屋の店頭に並び、自家消費されるようになる。中でもマグロ類は都内でも魚屋などで生食できないものや色変わりしたもの、小型のもので作られていたようである。
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徳島の「かつ」に歴史あり

久しぶりに東京都大田市場に行った。『フーディソン 魚ぽち』でいろいろ見せて頂いていたら、販売している加工品の中に、なんと「かつ」があった。徳島県小松島市の『津久司蒲鉾』のものである。今や、「フィッシュカツ」というようだが、どうにも、この、こじゃれた名は馴染めない。カレー風味のついた魚肉にパン粉をつけて揚げたものだ。島根県の「赤てん」、山口県などで作られている「魚ロッケ」、中国地方・愛媛県などの「がんす」、佐賀県の「ミンチころっけ」などなどと作り方の基本は同じである。徳島中央市場関連棟で会った老人は1945年の敗戦後、市場に大量に魚肉ソーセージが流通しだしたために、通常の蒲鉾竹輪が急激に売れなくなった。これに対抗するために作られたのが「かつ」だという。ボクは徳島県美馬郡貞光町(現つるぎ町)の商店街生まれである。ここに乳母車で朝方、食品を売りに来るオバチャンがいて、我が家で必ず買っていたのが「かつ」なのである。初めて食べたときには幼児で、まだテレビでは「チロリン村とくるみの木」をやっていたはずなので、1960年前後だ。口に入れたら辛くて、泣いた憶えがある。ひりひりをとるために砂糖をなめた。いつの間にか、このカレー味で、ぴりっと辛く、油でべとべとした「かつ」が食べられるようになり、お昼ご飯のおかずによく食べた。こちらも学校から昼ご飯に戻り、テレビ番組「おはなはん」が始まるまでに食べ終わり、昼休みが終わる1時までに学校に急いだ記憶とともに思い出す。さて、久しぶりに食べた『津久司蒲鉾』のフィッシュカツがとてもおいしいのは、懐かしさがプラスされているからかも知れない。ソースも醤油もつけないで、そのまま食べるのが好きだけど、食べ始めると止められない。2パック4枚しか買わなかったことを大いに後悔した。ちなみに徳島県内では、いくつもの蒲鉾店が「フィッシュカツ」を作っている。それほど違いはないが、いろいろ食べ比べてもいいだろう。ここだけの話だが、ちょっとだけ寂しいのは、昔食べた、あのべとべとがなくなり、あっさりと胸焼けしない味に変身していることだ。もう一度だけでいいので、あのべとべとが食べてみたい。
静岡県田子の潮かつお
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西伊豆の潮かつお

静岡県伊豆半島西岸、カツオ漁の基地であった田子、安良里で、盛んに作られていたのが「潮かつお」だ。カツオの内臓を取り、丸ごとを塩漬けにして寝かせ、干し上げたもので、保存性がただの塩蔵品よりも高い。秋に塩につけ込んで干し、暮れには出来上がるのだが、生ハムのように独特の風味が生まれ、ものによってはスライスして生でも食べられる。西伊豆ではこれを正月飾りに使う。西伊豆から沼津周辺までの地域ではハレの日に食べるもので、年取・正月魚の代表的なものであった。塩蔵して干すという工程があり、明らかに冬の保存食の意味合いがあったものと考えられる。この干しの工程のあるものとは別により手軽に作れる「塩がつお」もある。浜に揚がったカツオ(サバ科のソウダガツオ類やハガツオなどでも作られている)、もしくは比較的近くの都市部に送られていた。干しの工程のあるよりもより日常的な味のものである。東北太平洋側、伊豆半島周辺、紀伊半島で作られているものでカツオだけではなくハガツオ、ヒラソウダなどでも作られていた。
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