ご町内会清掃オンブズマン・犬の落し物担当
樋護立彦 Tatsuhiko Higo
1941年2月、山口県生れ
思い出の貝 第一集
テラマチダカラ
八丈島沖から紀伊半島、フィリピン、およびニューカレドニア。タカラガイは貝の収集家にとってもっとも魅力のある貝の仲間であるが、なかでもニッポンダカラ、オトメダカラ、そしてテラマチダカラがタカラガイ三珍宝としてあこがれのもの
想い出の貝

ユキノアシタ─40年ぶりの再会─
 昭和37年12月は学生時代の最後の年の瀬。東京から西日本の郷里に帰る途次、同学同学年の三重県のD氏とともに卒論の原稿を抱えて紀伊半島一周の採集旅行に出掛けました。彼の実家に立ち寄った後、紀伊長島の海野(かいの)の浜でクロフフジツ生貝を拾い上げ、那智勝浦の温泉宿に泊まり、田辺市で同好のS氏と落ち合いました。S氏の宅では田辺湾のカニノテムシロやマダラチゴトリガイをもらって大喜び。
 3人で名田の浜辺の採集のあと、揃って紀淡海峡をのぞむ和歌山県有田市辰が浜を訪れました。魚屋のご主人が見せてくれたヤマビトボラ生貝フタ付きが千円というのに仰天。当時は大金でした。辰が浜から徒歩で矢櫃(やびつ)に向かい、ここで漁師さんからオオイトカケを手にいれました。この貝は、今では南方産の標本が簡単に求められますが、そのころはかなり珍しいものでした。同時に求めた幾つかの貝の中に二枚貝のユキノアシタがありました。ところが、この貝はそれっきり私の前に現れてきませんでした。
 それから40年、紅顔消えて白頭と化した平成15年8月、高知県御畳瀬漁港で小手繰(浅海底引き)漁船の漁屑の中からこの貝を見つけ出したのです。ああ、ようやくめぐり合えたか、という感激をおぼえました。しかし、御畳瀬でもやや小型の新鮮な死殻が1個だけ。平凡な貝なのですが自ら採集するとなると難しいものです。この先、残された短い時間でどれだけの「生きていてよかった」感を味わえるか、楽しみです。
●上のユキノアシタは高知県桂浜沖(2003年8月)


テラマチダカラ
 保育社刊「原色 日本貝類図鑑」増補版の巻頭を飾る3名宝のうちでもテラマチダカラは、全世界のコレクターが狙う美麗な貝です。和歌山県田辺市で米国人に渡った標本は外車1台と交換された、という伝説がありました。オトメダカラは外国人による記載であるのに対して、ニッポンダカラとこの貝は1938年に黒田徳米博士(注01)が記載されたものです。
 この貝の学名と標準和名は発見者の寺町昭文氏に献名されています。
 1977年、当時ニューヨーク市郊外に住んでいた私を、著名な貝商フィリップ・クローバー氏が訪ねてきました。彼は軍属として日本に駐在し日本産貝類を積極的に買い集めた人物で、まさにこの伝説の当事者の一人でした。外車云々の真相を尋ねたところ、「貝の売却代金を何に使うか?」という質問に、地元の売り手は「お前の乗っているような大型車でも買いたいね」との答えだったのだそうです。1ドル360円の時代ですから相当な価額だったのでしょう。
 その数ヵ月後、土佐清水のK氏のもとにオケゾコ漁場で採れたテラマチダカラが持ち込まれ、競り売りとなりました。なんと百万円の値がついたそうです。貝類は漁船乗組員の取り分で、船主には関係ありません。そのときは10名の乗組員がいて、1人10万円の分け前だったとか。この貝もその後は台湾、フィリピン、ニューカレドニアと産地が知られるようになりました。それでも大型で優雅な洋梨型の美しいタカラガイとして稀少性も高く未だにコレクターの垂涎の的です。
 私の標本は、1990年に土佐清水を訪れた際、K氏から譲ってもらったものですがやや幼貝で背中がはげていて標本としてはひどいものです。それでも土佐沖産として大事にしています。写真は腹側だけしか出せません。
 いつの日か大手繰の網の中からこの海の宝石を見つけ出したいものです。
注01
黒田徳米
ころだ・とくべい/1886年(明治19年)三重県淡路島生まれ。高等小学校を卒業後、平瀬与一郎(当時京都にあって家畜、種苗を商い。輸入業もしていた)に丁稚奉公にあがる。平瀬与一郎は明治大正期にあって最大の貝の収集・研究家であり、この貝の収集整理をする。のちに貝の専門家として京都大学助手となり、日本貝類学会設立、初代会長となる。1987年没

ぼうずコンニャクからの
樋護立彦氏の紹介
氏は貝のコレクターではありますが、いわゆるコレクターとは一線を画す存在です。多くのコレクターがオキナエビスをいくつ所有するかとか、珍品を追い求めることに汲々としているのに対して、けっして現金による収集をするのではなく、また珍品だけを追い求めるのでもない。とくにエゾバイ科の巻き貝に関してはコレクターというよりも研究者に近く、多大な見識をお持ちです

サメハダカンス
 この貝が日本で最初に写真となったのは波部博士(注01)著『
続原色日本貝類図鑑』で、1961年のことです。 死殻ですが、色は割合と鮮明に出ています。1962年7月末、高知県柏島の名採集人大谷金助老を訪れた私の目の前に未だ腐肉の入ったこの貝がありました。駆け出しの私にも、「ああ、波部図鑑のあの貝!」と分りました。たしか大谷老に払った代金は300円くらいだったと記憶しています。そのまま沖ノ島に渡り、母島(もしま)港の沢近旅館に駆け込んでそこで貝を洗いました。 この旅館は杉本公男氏の姉上の嫁ぎ先です。
 沢近旅館の2階から夕凪の母島港を眺めていると、サンゴ網の漁船が一隻また一隻と帰ってきます。港に出て行って漁師さんに貝を見せてもらい、買い取らせてもらいました。コウモリヨウラク、コセジュ、シワクマサカなどがあったことを憶えています。 
 電気は島内の自家発電で夕方からしか使えません。夜もふけて庭先のすのこの上に寝転がっていると、星を縫って天空を横切るものがあります。ソ連の人工衛星です。暗い道を辿って母島部落の上のほうの徳法寺に行って杉本さんから貝を見せてもらいました。ニッポンダカラの模式標本には黒田博士の手蹟で「この貝を他に譲るようなことがあれば必ず事前に相談して欲しい」旨のカードが付いていました。本堂の縁の下の木箱にはサンゴ網の貝が沢山入れてあり、その中から幾つもいただいたものです。 もう40年も昔のことです。
 この貝はタミコカンスともよばれていますが、私には鮫肌のほうがぴったりの和名に思えます。その後沖ノ島産の死殻を1個手にいれましたが、杉本さんによればサンゴ網でも僅かしか採集されなかったものだそうです。
高知県宿毛市沖の島のサンゴ網(水深80〜100)にかかったサメハダカンス


注01
波部忠重
はべ・ただしげ/1916年兵庫県生まれ。京都大学・九州大学教授、国立科学博物館動物研究部長などを経て、日本貝類学会会長など歴任。『原色 日本貝類図鑑』などの著書多数



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