202401/17掲載

江戸の居酒屋の定番メニュー「ねぎま」を作ってみた

ことこと煮込んで作る「マグロの煮物」


もちろん関東にも地酒はあったにはあったが、江戸の酒の主流は江戸時代を通じて下りものであった。江戸時代中期までは伊丹、池田から、その後、灘の酒にとってかわるが、下り酒であったことは間違いがない。
同じように江戸時代に始まった居酒屋(酒屋に居ながらにして飲む)での基本は安い温めた豆腐と、こなから(二合半)の酒であった。要するに居酒屋は下り酒を飲むための場所だったのだ。
「目黒」と呼ばれたクロマグロの3尺以下のサイズが文化文政時代、天保時代(1804-1844)に日本橋魚河岸に大量に揚がり、江戸の町でこの「目黒」を食べる文化がより強く刻まれていく。
居酒屋でも「目黒」の刺身や煮込み料理の「ねぎま」が盛んに提供されるようになる。
天保期(1830-44)には「ねぎま」は居酒屋定番の品書きである豆腐よりも安くなったとされている。これがために、大岡越前をしてあれほどに苦しんだ豆腐の価格が下がったという。
それではその「ねぎま」とはどんなものだろう。今現在でも「ねぎま鍋」は都内居酒屋でも食すことができるが、もっと遙かに簡単なものである「ねぎま」は食べたことがない。
「ねぎま」はマグロの煮込み料理だろう。しかも文化文政以後に盛んに作られるようになったとすると、どんなものかと考えてみた。
醤油は関東周辺で17世紀から作られていた。みりんが関東で大量に作られるようになったのは、文化期の流山の白味醂以後のことだろう。
醤油とみりんが揃えば、煮込みは簡単にできる。
醤油・みりんは同量。ここに水を加えて加減する。
温めた中にサイコロ状に切ったマグロを放り込んで、しょうがとともにことこと煮込む。
江戸時代、客の注文があれば大量に煮込まれている「ねぎま」の、もう一つの主役である白ねぎを投入する。
ちなみに関東で土を寄せて作る「白ねぎ」が誕生するのは気候のせいである。関西と関東で土ものでの栽培方法の違いと言えば霜柱対策ではないか? 1977年の農閑期(11月後半と12月)に、群馬県太田市の農業調査に行ったことがある。朝起きてびっくりしたのが霜柱の長さだった。明らかに15cm以上(当時測っている)あり、作物といえばねぎ、植えたばかりの麦しか残っていなかった。
ねぎは大量の土に守られることで関東平野で栽培できたのだと考えた。というか農家の方に教わった気がする。
醤油とみりん味で煮込んだマグロに白いねぎをたくさん乗せたのが、江戸時代以来の「ねぎま」だ。
今回は生の切り身を煮汁に投入するときれいではないので、湯引きしてから投入したが、煮込めば煮込むほどうまい。
酒が進む。
今回は剣菱を5勺。
剣菱は、下り酒発祥の地、伊丹で誕生し、後に灘(神戸市御影)に移る。


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