202401/15掲載

にしんそばと北前船と琵琶湖舟運と菜種と

老舗『松葉』ならではの味はそのままに

松屋のにしんそば

年明けに、愛知県人なのに先島諸島住民で、しかも京言葉を使う若い衆にいただいたものの中に京都市、『松葉』の「しんそば」があった。
初めて京都に行ったときは、まだ市電があった。家族にお金を渡せされて、京都で頼まれた買い物をして帰郷した。『いずう』でやたら高い「さばずし」を買い、デパートで漬物を買い、四条下がって南座横の『松葉』で「みがきにしん」のたいたものを買い、ついでに『松葉』で「にしんそば」を食べた。
東京の黒い黒い醤油のつゆでもなく、徳島・香川のしゃきっとした塩味がちなつゆでもない、丸みのある味に驚いた。「みがきにしん」は弱冠二十歳のボクにはよさがわからなかった。
ここ15年ほど、京都の夜は居酒屋ではなく、西陣のそば・うどん店で酒を飲み、しめに「にしんそば」と「にしんうどん」を食べることが多い。「みがきにしん」はうどんには合わないことを知り、西陣の『えびや』の「みがきにしん」は京都でもいちばんうまいなんて思っていたのだ。
2018年にもういちど『松葉』に立ち寄って恥ずかしげもなく「にしんそば」を食べたら、つゆの味が西陣の馴染みのそば・うどん店よりも丸味があることに驚いた。それに「みがきにしん」もおいしいではないか?
そして今回、いただいたお持ち帰り用の「にしんそば」が、思った以上に南座隣のあまりにも普通の店である『松葉』そのものの味であることに、これまたもっと驚いた。お持ち帰りなのにここまでの味とはさすがに老舗である。

西陣の普通の店で食べた「にしんそば」

にしんそば

さて、京都はなぜニシンなのか? 京都に行くと総菜屋とかスーパーで食いもんを矢鱈に買っているが、「みがきにしん」ものがとても多い。
中立売通、一条通に入る手前、小さな市場のような店で買った、もどした「みがきにしん」は、素晴らしい戻し加減であったし、壬生寺を上がったところにあった小さな個人商店の「たいたん」も非常にうまかった。当然、京都中央市場には最上級の「みがきにしん」がある。
写真は西陣の普通の店の「にしんそば」。

みがきにしんと加茂なすのたいたん

京都市西陣ゑびやの加茂なすとにしんのたいたん

「みがきにしん」に関して詳しい話は別の機会にする。ただ「みがきにしん」の戻し方は非常に難しい。我が家では白水につけて2日置き、そのまま沸騰させて水でさらす。酸化の度合いに違いがあるので、この時点で味見して、場合によってはもう一度水から煮て水にさらすなどする。
この作業を京都の店ゝでは、さりげなく非常に上手にやり遂げているのである。
春夏秋冬「みがきにしん」は食べられるが、季節季節に、時季時季の野菜と合わせたもの魅力的。
写真は西陣の「ゑびや」のもの。

琵琶湖は江戸時代以前は高速道路のようなものだった

琵琶湖

さて、「みがきにしん」の産地である蝦夷と京都・大坂への北前船は戦国時代以前にもあったが、本格化するのは元禄(期1700年前後)以後らしい。松前藩領内のニシン漁が原始的な状態からより進んだものとなるのも、この頃である。
松前藩から蝦夷の産物を積んだ弁財船は渡島半島から十三湊、秋田、酒田などに帰港し、そのまま山陰を越えて下関周りに瀬戸内海に入り、大坂に向かうルートと、福井県敦賀市に入り積み荷を降ろして琵琶湖北岸の塩津浜に至る。ここから船で琵琶湖を南下して大津(津という地名が重要)まで行き、京の街に入り、一部は京で荷を下ろし、一部はそのまま淀川を下るというコースがあった。
京都は大坂とともに江戸時代から大正期にかけて北前船の終着点だったのだ。昆布、鮏(サケ)、ニシン(みがきにしん、鯡粕、にしん油)などが京の街で盛んに消費されるようになるのは、江戸時代以後だ。
京の「みがきにしん」には300年以上の歴史があることになる。
ちなみにこの鯡粕で菜花が作られ、菜種油となり、天ぷらが日常的な料理にもなり、夜には灯火をともす。
『松葉』の「みがきにしん」を食べながら、こんなことが頭に浮かんでくる。
ついでに『松葉』の「にしんそば」に京都を偲ぶ。
若い衆に感謝!

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