浦戸湾文庫 02 高知大学理学部自然環境科学科教授 理学博士、高知大学海洋生物教育研究センター教授兼任 町田吉彦 Machida Yoshihiko 1947年3月30日生 秋田県出身 |
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高知海洋生物学史 01 私どもの研究室は通称「魚研」である。旧制高知高等学校の時代に故蒲原稔治博士(註01)により創設された。蒲原先生は高知市の御畳瀬と浦戸の魚市場を主な拠点とし、多くの魚類の新種と日本初記録種を報告した。御畳瀬(註02)と浦戸(註03)は、よさこい節に 御畳瀬見せましょ 浦戸を明けて 月の名所は桂浜 と謳われている。昭和34年、ペギー葉山の「南国土佐をあとにして」で一躍有名になった。昭和40年代初めの御畳瀬と浦戸は、寒村と言っても差し支えないほどの小集落であった。浦戸はより湾口の近くに位置し、人影のない桂浜をこうこうと照らす大きな月は見事だった。 蒲原先生は昭和40年3月に退官されたので、私は直接教えを受けていない。蒲原先生の号は呑海である。酒がすすみ、興に乗ると色紙にペンでさらさらと魚の絵を描かれたという。なぜか私は先生が描かれた色紙を持っている。たった一枚であるが、このフエヤッコダイは私の宝物である。生涯において60石の酒を飲んだと豪語した蒲原先生は、ヘビーな晩酌の後、真夜中に起き上がり、自転車で市場に通った。競りが始まる前、午前2時から3時ごろまでが獲物を点検できる時間帯である。その後、研究室に戻り、朝まで魚のスケッチと研究に没頭された。時には御畳瀬や浦戸の旅館に泊まり込み(もちろん、ゆったりとした気分でのお酒も重要な目的の一つであったと邪推するが)、魚を採集し続けた。 土佐、御畳瀬、浦戸にちなむ魚の学名のほとんどは蒲原先生の命名である。 高知海洋生物学史 02 蒲原先生の活躍は貝類や甲殻類の専門家をも刺激した。土佐湾の沖合底曳きの獲物は,世界中の専門家の間での御畳瀬と浦戸の名を確固たるものにしたのである。私どもも時々,御畳瀬と浦戸の魚市場に通っているが、昔日の活気はない。学生の頃は足の踏み場もないほどのトロ箱が並んでいた。市場の人の真似をし、危ない足取りでトロ箱の縁の上を歩いてはよく怒られた。 土佐は一日の気温の差が激しい。冬の午前2時ごろ、魚市場は底冷えがする。でも、市場の人は温かい。古いトロ箱を壊しては焚き火にし、マツカサウオやヤドカリを無言で放り込んでくれた。「ひやいろう(冷たい、寒いだろう)。まぁ、食うてみたや」と渡してくれる。ヤドカリはやや甘味が強いが、焼きたてのマツカサウオは身がぽろりとはずれ、ほくほくして美味しい。「しっかり勉強せないかんぜぇ」と激励された。 今でも、市場帰りの学生が時々、研究室でマツカサウオを焼いている。トロ箱はすっかり発泡スチロールになってしまった。しかし、学生を見守る漁師さんの心と“焼きマツカサウオ”の味は今も変わらない。 高知海洋生物学史 03 私どもの研究室の標本のほとんどは、蒲原先生の伝統を引き継いだ“底物”である。しかし、蒲原先生の旧制高知高等学校時代の標本は、終戦間際の高知大空襲(註04)ですべて焼失してしまった。戦前の魚の標本が残されている国内の施設はおそらく、国立科学博物館と東京大学と京都大学だけであろう。サンフランシスコ市のカリフォルニア科学アカデミーには1900年前後の日本産の標本が多数保管されている。これらは、近代科学が日本に定着する以前に流出したものであり、仕方ないと言えば仕方ない。デヴィット・スター・ジョーダンはこれらの標本を基に多数の新種を発表した。しかし、大学者であった彼の著述においても不明な部分は残されている。 1902年にジョーダンとファウラーが新種として発表したアシロのホロタイプ。産地は三崎(カリフォルニア科学アカデミー保存標本) その後、東京帝国大学の田中茂穂博士(註5)はジョーダン博士らと日本産魚類を網羅した著作を発表した。1913年のことである。ここに至り、ようやく日本の魚類学の基礎が築かれたのである。田中先生は蒲原先生と同じく土佐の出身で、蒲原先生の帝大での恩師であり、天才的な語学力の持ち主であった。学問の世界では文献が欠かせない。論文や著作は確かに大切である。分類学では、1800年代の文献も相手にする。念願の文献をやっと入手したところ、魚の説明がわずか数行ということもよくある。これでは何が何だか判らない。そこで分類学では、証拠すなわち標本の存否が重視される。標本さえ残っていれば、後世の者が再検討できる。しかし、新種の命名の際に用いられた標本は人類共有の知的財産と規定されており、ちょっとやそっとでは貸してもらえない。そこで、私たちは日本産の古い標本が保存されている場所を訪問することになる。 高知海洋生物学史 04 アメリカにあるものより古い日本産の魚類の標本はヨーロッパにある。江戸時代の末期、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトと彼の助手役だったハインリッヒ・ビュルゲルは、出島を拠点に動植物の標本を集め、母国のオランダに送った。これが通称、シーボルト・コレクションである。標本のほとんどは、ライデン市のオランダ国立自然史博物館に保管されている。ミーハーな私は、魚の標本より先にニホンオオカミの剥製を見せてくれとお願いしたことだった。この動物は、1905年1月の奈良県での捕獲を最後とし、姿を消した。残っている毛皮は世界中で2枚、剥製は4体とされている。毛皮は大英博物館とベルリンの自然史博物館にある。日本国内にある剥製は、和歌山大学、東京大学、国立科学博物館でそれぞれ保管されている。ライデンのニホンオオカミはシーボルト・コレクションの一部である。もちろん、魚の標本も見た。一番驚いたのはミシマオコゼの剥製である。御畳瀬でも大きな個体がよく揚がるが、この1.5倍はあろうかというサイズである。完全にイメージが狂った。他の魚種も押し並べて大型である。彼らが収集したのは動植物の標本だけではない。絵画や書物から日用品まで、広くに及んでいる。これらは、ライデン市の民俗学博物館にある。当時、極東の島国の珍奇な標本はヨーロッバの著名な博物館の垂涎の的であった。オランダ国立自然史博物館には、一部の標本が大英博物館を始めとする外国の博物館に売却されたという記録が、値段を含めきちんと残されている。論文や著作は文化の結晶である。これらの基になった標本は明らかに文化財であり、これらを後世に伝えるのは疑いなく研究者と国の責任なのである。 シーボルトが雇った江戸の絵師,川原慶賀(註06)の絵。ミシマオコゼ 撮影/山口隆男元熊本大学教授 高知海洋生物学史 05 昨年、韓国国立群山(クンサン)大学に大学博物館が新設された。ここには魚類分類学の李忠烈教授がいる。写真で見る限り、立派な建物である。笑顔の李教授が羨ましい。李教授は私とほぼ同い年である。私の研究室に10ヶ月滞在し、県内の魚市場も一緒に巡った。彼はサバティカル・イヤーを利用したのである。この期間は講義と会議からまるまる開放される。西海(日本の地図では渤海)に面した群山を地図で探すのは骨が折れる。大学の規模は私どもの大学より小さいようである。韓国では、大規模私立大学にも大学博物館がある。私どもの大学は、今のところ国立だが、大学博物館がない。“日本のお上”が言うには、100万点の標本がないと造らないのだそうだ。ウチの標本は約30万点、のべ5人の教官と多数の学生がほぼ60年の時間をかけた。そのうち、正規の登録は約8万点。もうスペースがない。すべてを小分けにして整理するのは不可能である。学長は標本の重要性を十分に理解しており、高知大学の財産の一つと考えている。お上に打診した学長から、100万点の標本がないと無理との電話があった。学長はユーモアたっぷりの方であり、根っからの土佐人である。私は学長に応えた.「ゴキブリ100万匹と魚100万匹は違いますが、数でいきましょう。今からどこぞ(どこか)の市場でドロメ(カタクチイワシが中心のしらす)を100キロばあ(ほど)こうて(買って)きましょうか? 100万はすぐ超えますよ」。もしかすると、標本はゴミと考えているお役人がいるかもしれない。サバティカル・イヤーの制度すらない日本の文化水準は、しょせんこの程度でしかない。 |
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町田吉彦 Machida Yoshihiko http://www.kochi-u.ac.jp/w3museum/fishlab.html |
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