浦戸湾文庫 03
高知大学理学部自然環境科学科教授 理学博士、高知大学海洋生物教育研究センター教授兼任
町田吉彦 Machida Yoshihiko
1947年3月30日生 秋田県出身
浦戸湾でのカニ刺網
仮にホンコンイシガニと呼んでいる蟹。2003年浦戸湾
メナガガザミ。2003年浦戸湾
モンツキイシガニ。2003年浦戸湾
浦戸湾の生き物 01

 マメコブシガニがきっかけで浦戸湾内の動物を調べてみたいと考えた。ところが、浦戸湾の生き物に関するまとまった過去の研究例はほとんどない。魚類に関しては、汚染がピークの頃になされた魚病とその発生率についての報告のみといっても過言ではない有り様だ。地方国立大の、しかも理学部の研究室は例外なく貧乏所帯である。浦戸湾内で船を借りるにも金がない。大学の船は土佐市の浦ノ内湾が拠点であり、浦戸湾とはやや距離がある。土・日と祝日は使えない。技官の勤務の都合上、午後5時前には帰港せねばならない。何より面倒なのは、調査・研究という名目で堂々と魚類や甲殻類を採集するとなると、各方面に書類を提出せねばならないことである。これが実に厄介だ。かつて水産庁の許可をもらい、大学の船で底曳きによる調査を実施したが、漁船から「泥棒船」との罵声を度々浴びた。漁協のすべての組合員に調査の趣旨を徹底するのは難しい。お役人は、「どういう魚種をどんな方法で、何匹採るか申請書に書け」と言う。無茶苦茶だ。何がどのようにいるかを確認したいのが生き物の調査である。もちろん、資源の保護を前提とし、漁協との折衝に当たらねばならないお役人の立場も分かる。大学に長くいたお陰で信用もできたらしく、学生が手続きに行ってもスムースに事が運ぶようになった。しかし、動物の生息状況がある程度推測できる淡水域でさえも、予想は簡単に覆る。自然は刻々と変化しており、マニュアル通りの自然などあり得ないのだ。


浦戸湾の生き物 02

 今年の7月にまた子供相手の動物の観察会の講師をした。前年度の場所から少し離れた場所で泥を掘った。マメコブシガニがやはり採れた。アナジャコもハサミシャコエビも生息している。観察会の2回目はこの付近に刺し網を入れ、獲物を食べようという企画であった。予想に反し、多数のタイワンガザミと“えがに”が少し採れた。食用に回さなかった蟹を標本としてもらい、研究室に持ち帰った。ほとんどはイシガニであったが、1匹だけまったく見当のつかない蟹が混じっていた。現場では“えがに”のチビかな? と思ったが、明らかに違う。蟹を真剣に眺め始めたのはつい2年ほど前であり、まっとうな知識はない。そこで、市内に住んでいる蟹の専門家のHさんに画像を送り、共同研究をお願いしてみた。後日、標本を取りに来たHさんによれば、もしかするとホンコンイシガニかも知れないとのことであった。この種は現在も検討
中である。潮間帯の泥地の動物もなかなか豊富であるが、ここを砂で覆う計画がある。不思議にも、動物に関する事前のアセスメントは無いようだ。自分でやるしかない。足下の自然を見ていなかった反省もある。数年は浦戸湾に賭けてみようと考えた。蟹が相手となると、刺し網による調査も欠かせない。魚を採る刺し網漁のまね事の経験はあるが、蟹刺し網となるとどうやったらいいのか皆目見当がつかない。


浦戸湾の生き物 03

 私どもの研究室で修士課程を終え、昨年京都大学で博士課程を了えたS君が今春、土佐に戻ってきた。彼の研究テーマとは疎遠な会社であるが、飯のためには仕方ない。S君は京都にいた間、各地の漁師さんや魚屋さんとコネクションをつくっていた。高知市横浜の永野廣さんもその中の一人である。ある日、「横浜に永野さんというすごい漁師がいます。永野さんは先生に逢いたがっていますよ」と聞いた。「ホームページもあります」とのこと。早速、“廣丸”のホームページを開いてみた。驚いた。あの“日曜市のえがに”が堂々と掲載されているではないか。おまけに、モンツキイシガニという、これまで聞いたことがない蟹の写真もある。逢わない手はない。面倒くさがりの私は携帯電話を持っていない。絶滅危惧種的存在である。幸いにして土曜日。S君に携帯電話を入れてもらった。「初めまして。高知大の町田ですが、今から伺ってかまいませんか?」「お待ちしています」。自分に好都合の時だけ、無精な割に行動は速い。着いた途端、紙パックを抱えた永野さんは「よーうこそ。まぁ、一杯やりませんか?」。これには参ったが、土佐ではよくある事である。初対面の気がしない。たちまち十年の知己のごとく打ち解けた。


浦戸湾の生き物 04

 ここ数年、土佐湾の磯の小魚に妙なのが増えた。定置網にもその傾向がある。いずれも南方系の種であり、魚類相が刻々と変化している。永野さんの動物に関する知識は半端ではない。Hさんと私が仮にホンコンイシガニと呼んでいる蟹もモンツキイシガニも、この4〜5年ほど前から網に掛かり出したとの事。メナガガザミもそうである。メナガガザミはこれまで土佐湾からの正式な報告がないようだ。私どもの院生が昨年6月、須崎の魚市場で小さい標本を1個体採集したが、私がさぼっているため、この個体はレポートになっていない。ところが永野さんによれば、この蟹はなかなか味が良く、すでに流通しており、これからがシーズンであるという。すべてに驚いた。専門外の動物群とはいえ、自分の無知さ加減に恥じ入るしかない。永野さんによれば、モンツキイシガニもすでに流通している。慌てて調べたところ、モンツキイシガニは1997年3月に和歌山県田辺湾に出現し、6月には浦戸湾にも出現したとある。このカニは1998年には大阪湾から東京湾口にかけて同時多発的に出現し、1997年11月から1999年1月の間に大阪湾だけでも推定1000〜1500個体が漁獲されたが、その年の3月から6月には大阪湾で確認されていないようだ。不勉強のため、その後の大阪湾を含む他所での消長は把握するに至っていないが、目の前に浦戸湾産の個体がある。早速、永野さんの刺し網に掛かるこれら南方系の蟹の冷凍保存をお願いしたところ、たちまち標本が揃った。仮にホンコンイシガニとした蟹は厄介者らしい。売り物になる代物ではない。また、やたら鋏が強く、刺し網をずたずたにする。普通なら、踏んづけられてバラバラになる運命だが、今は番号札を付けられ、アルコールの中に浸っている。もちろん、永野さんが大好きなお酒ではない。


浦戸湾の生き物 05


 スクーバダイビングの普及に伴い、このところ学会で未報告の海産動物がインターネット上に溢れている。つい10年ほど前には、土佐湾産の魚類は1400種程度と見積もられていた。しかし、いまや1900種に達する勢いである。この急激な増加もスクーバダイビングの普及と無縁ではない。魚類学者の一人や二人が潜ってもこうはならない。もちろん、海水温の上昇の影響もあるだろう。
 プランクトンのように、漁師さんが相手にしない生物の場合は別であるが、魚類学者や研究者は魚を捕るプロではない。大型甲殻類をやっている場合もそうであろう。手段が違うと捕れる獲物が違う。これは分かっているのだが、ギヤを操るのは漁師さんである。私どもは漁師さんに頼らざるを得ない。しかし一方で、学者や研究者がその成果をあまねく世間に公開したかとなると、いささか問題がある。学問的成果が学会という狭い世界だけに閉じこめられてはいけない。大げさに言えば、教育・研究機関の存在意義に関わる問題である。しかしこれまで、市民と学者・研究者の間を繋ぐ手段といえばせいぜい新聞かテレビなどのマスコミだけと言ってもよいだろう。新聞関係の知人が言うには、動物や植物の記事を連載すると、一時的に読者が増えることがあるらしい。市民は案外、これらのニュースに興味を持っている証左であろう。
引用文献/鍋島靖信・福井康雄(1999) 大阪湾に侵入したCharybdis (Charibdis) lucifera (Fabricius) モンツキイシガニについて.
Nature Study, 45(7): 3-7.

町田吉彦 Machida Yoshihiko http://www.kochi-u.ac.jp/w3museum/fishlab.html

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