琉球大学理学部、海洋自然科学科教授
山口正士
Masashi Yamaguchi
1942年生まれ
ハマグリは絶滅の危機に
瀕しているのだろうか

 琉球大学では大学祭を前にエイサーの練習の掛け声が響き始めた。今年もまたキャンパスに貧民窟か難民キャンプにしか見えないような悲しいテント村が出現するのだろう。自分の学生時代を振り返るとすでに40年前になるが、大学祭で展示するために取り上げたテーマは東京湾の水質汚染問題であった。現場体験のため都の水産試験場の調査船に便乗させてもらって東京湾に出た時の濁った海水の低い透明度は実に衝撃的であった。水面から手を海面に入れた時に指先が見えなかったのだ。東京湾の干潟からハマグリが消滅したのは1980年代であったと想定されるので、当時の1960年代の海では汚れていたなりに貝類は生息していたはずである。実際、学生時代の水産動物の解剖実験では築地の魚市場から助手先生が仕入れてきた東京湾のハマグリを材料にしたと記憶している。

 小菅(1995、水産の研究14, p.33 - 38)は「ハマグリはどうなっているか」という論考の結論として「結局のところハマグリが日本に現在も生息しているのかどうか、ということはハマグリという種が地球上に現存しているのかどうかがわからないという状況になっている。」と述べた。小菅が指摘したように、日本水産資源保護協会が出版した「日本の希少な野生水生生物に関する基礎資料、1994」のハマグリについて報告した田中邦三は写真図版で木曽川河口干潟産ハマグリとして、その実はシナハマグリを示している。このように貝類の専門家であってもハマグリについては種の認識が混乱しているほどである。

 ハマグリ集団が日本の主な生息地から消滅している一方で、中国大陸と朝鮮半島からシナハマグリが年間約3万トンも輸入され、国内で広く流通している。生きたままで輸入されたシナハマグリは伊勢湾あるいは有明海で蓄養されてから出荷され、さらに二次的に日本各地の干潟で出荷まで蓄養あるいは放流されているらしい。ハマグリとシナハマグリが交雑するかどうかは確認されていないが、地域集団としてハマグリがシナハマグリによって置き換えられたらしい所が、たとえば吉野川河口干潟などで見つかっている。

 ハマグリとシナハマグリの識別は殻頂の相対的な位置や殻皮の性状などによっているが、定量的には定義されていない。ハマグリ属は生長とともに殻形が明瞭な相対生長を示すので、大きさで変化する形を種の識別のためには使いにくい。一方、ハマグリ属の殻の表面には色彩と模様の個体変異、すなわち色彩多型が顕著に見られるが、ハマグリとシナハマグリの間では、ほぼ共通の色彩型を示すようであって、それを基にして種の識別は簡単にはできそうにない。

 東京湾など、日本の沿岸で水産生物の研究をすることは環境汚染との不毛な戦いで消耗するだけに終わりそうだと感じた自分は、美しいサンゴ礁の海の生態研究にあこがれて海外に逃げ出したあげく、のべ7年間のグアムとオーストラリア生活の後で沖縄に職を得て現在に至っている。しかし、現実の世界はこの逃亡者を許してくれず、サンゴ礁の島でも重大な環境問題が待ち構えていた。本土復帰後の沖縄県内の公共土木工事の嵐はすさまじく、目の前で沿岸環境の荒廃が急速に進んでしまった。

 サンゴ礁そのものも、沖縄ではオニヒトデによる食害が慢性化したまま30年が経過し、さらに3回にわたるサンゴ白化現象でサンゴ類が大量死を繰り返した。これらのサンゴ死滅現象については人間活動の影響も否定できないが、基本的には自然現象であると思われる。一時的な大量死が起こってもサンゴ群集は内湾の一部を除いて回復している。サンゴ類の生育する環境の大部分は外海に面していて、環境汚染の影響は相対的に受けにくいものである。本来の生育環境であれば雑草のようにサンゴ類が生い茂るのであるから、サンゴ礁を守るためには、それより人間側に位置する海岸環境を守っておけばこと足りる。

 沖縄の沿岸環境問題ではサンゴ礁ばかりが大きく取り上げられてきたが、実際には砂浜、干潟、藻場など、もっと岸に近くて人為的な影響を受けやすいところの荒廃が厳しく進んできた。たとえば1980年頃までは砂浜海岸で大勢の人たちがイソハマグリやリュウキュウナミノコなどの潮干狩りを楽しんでいたが、その姿は1990年代に貝の減少と共にほとんど消えてしまった。干潟のアラスジケマンガイやオキシジミなど、そして藻場から収穫されるマガキガイやリュウキュウサルボウなどでも同様である。貝塚から多量の貝殻が出土する周辺で貝類の分布調査を広くやってみたが、激減または消滅したらしい所がほとんどであった。みじかな普通の海岸生物の姿が次々と消えてゆく状況に危機感が湧いてきた。

 沖縄の砂浜の貝類については過去に誰も注意を向けてこなかったので、これに注目して調査を始めてみたら、大学にごく近い砂浜が埋立てられて調査対象の集団が調べる前に消滅した。浜が消滅しないままの海岸でも、沖縄各地の干潟や砂浜の堆積物中に潜んでいるベントス(底生生物)を見ていると、沿岸環境が激しく撹乱を受けている状況がよく見える。

 沖縄沿岸の砂浜に生息している貝類の多くは日本本土の南半分の黒潮と対馬海流の暖流域まで分布している。たとえばナミノコガイは房総半島と能登半島以南に広く見られる。この貝はさらに沖縄より南の東南アジア一帯から太平洋の島々までも広く分布している。この例からわかるように、南日本沿岸の海産生物の多くは熱帯海域から浮遊幼生の分散・流動でもたらされて、低温環境に適応したものが多いだろう。琉球列島と日本の本土の間を海流で結ばれた集団が点在している様子が貝類の分布からも読み取れる。

 日本本土の沿岸生物を見捨て、熱帯の海に遊んでいただけの自分を反省し、もう一度原点に戻って日本全体の沿岸生物を見て将来に何を残すか考えることを決意したのは大学での時間が残り少なくなってからであった。2年前から九州とその離島の海岸から見て廻り、さらに最近は日本海に足を伸ばしてみた。乱開発の傷跡はいたる所に見られる。砂浜に貝殻が打ちあがっていることが珍しくなってしまったが、それでも相対的に開発の圧力がゆるくて自然が残っている僻地を見つけると、故郷を取り戻したような気分も生まれてくる。

 日本人を縄文時代の昔から養ってきたハマグリが消えてしまわない内に、その居場所を取り戻して後の世代につなげることができるかどうか、前途は多難である。しかし、自然環境について一般市民の意識、潮流は確実に変化してきているので、流れに乗ってこの仕事を最後のご奉公にしたいと考えている。
(2003.10.20)
千葉県市原市の丘陵地帯の畑から掘り出された縄文時代のものと思われる貝殻
シナハマグリを大量に潮干狩り場に撒いている千葉県木更津市でとれたもの
熊本県産からのもの
京都府舞鶴産のもの
中国から輸入されたシナハマグリ
鹿島灘でとれたチョウセンハマグリ



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