その1
無知であることを自覚せよ

 面白いことに魚貝類のことを知れば知るほど自分の無知を思い知る。無知を知っていればこそ魚通なのである。
 例えば、一時、「マダイにはうまい大きさというものがある」と思っていた。すなわち「目の下一尺」なんていうが、大体40センチから50センチがうまいマダイの目安になると思いこんでいたのである。そんな時である、厳寒の市場でしきりにマダイを選んでいる人がいる。その人は市場でも一目置かれる料理人である。そこには見事なマダイが並んでいて、春を先取りした演出をしようとしているのだな、と勝手に合点してみていた。その人が選んだマダイがなんと大きさ尺足らず。ちょっとこれじゃね、という目立たない代物。仲卸の社長がしきりに別のマダイをすすめるものの、結局その小さなマダイを持ち帰ったのである。それを見ていてこちらもマダイが食べたくなって、脇の見事なオスを持ち帰った。これを料理したもののまったく脂がない、というかうまみがないのだ。翌日、その目利きに聞いてみた。と彼の答えは明確なもの。「さわってみて、うまいなと思ったのを選んだだけ」なのだそう。その小ダイは「いい味だったよ」という。
 これには後日談があってこれも厳冬期、静岡の料理屋でマダイの刺身が出た。これはその店のご主人が釣り上げたもの。なさけなさそうに見せてくれた中骨は30センチには遠くおよばない。これがなぜか、うなるほどにうまかったのだ。口に入れると甘みがある。まったりとした脂と旨味が舌の上に残る。これを辛口の本醸造で流し込んだその瞬間、至福とはこれかも知れない。
 結局、定説にはそれに倍するほどの例外がある。この例外は生きている時間が長ければ長いほどに出合う機会が多くなるのだ。すなわち無知を知れ、定説を鵜呑みにするなと言うことである。

その2
舌は磨けない

「味のわからないヤツ」なんて言う「わけのわからないヤツ」がいる。「うまい」「まずい」があるのは当たり前であるが、「うまい」の絶対はない。
 回転寿司の1かん60円のビントロの握りと老舗名店といわれる寿司屋の1かん2000円の大トロの握り、ともにうまいと思う方が得。名店の寿司が絶対ではなく、ときに回っている方が食べたいと思うくらいの融通無碍でありたい。「サバなら関さば」「鯛なら明石鯛」なんてことは金持ちだけの特権ではある。しかし、もし大金持ちになっても立ち食いうどんの真っ黒なブラックホールにはときどき吸い込まれたい、と思うのだが? まず大金持ちにならないのが、ぼうずコンニャク。これこそ仮にということ。
 さて閑話休題。
 すなわち食べるのが好き、「大食い」こそが魚通のひとつの在り方である。小食で「本当においしいものをほんの少しだけ食べたい」なんてよく聞く話ではあるが、「少しだけ食べる」ではその味わいの本質はわからない。食って食って食いまくり、食い尽くしてわかる味の本質がある。ちなみにここでは珍味佳肴の類はテーマからはずしている。なぜなら珍味佳肴はいわば酒をめぐる宇宙に浮かぶものであり、酒という太陽が無ければ惑星はないという天の理があるからである。
 とまたまた閑話休題であるが、腹が膨れるほどに食ってこそわかる「真の味」というものがある。空腹に耐えかねたそのときに明石鯛の造りが食べたいだろうか? 回転寿司より名店の寿司だなんて考えが及ぶだろうか。すなわち天下の美味といっても「たかが知れている」と突き放すほどの冷徹さが魚通の登竜門。またこの冷徹さを微塵も見せないのも「イロハのイ」であろう。



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